11.




終わりが決まった関係が終わった日、アリスは3年半ぶりに泣いた。
火村と、それからつらかった自分のために泣いた。

その時点で何かを許したわけではなかったが、それから二人はごくありきたりの日常に戻った。
それぞれにそれぞれの場所で仕事をし、たまにどちらかの家を訪ねる。
酒を飲み、寛いでテレビを見る。
事件があってなおかつアリスに余裕があれば、二人で現場に出かける。

もちろん、一緒に寝ることはない。
それどころか、火村は一切アリスに手を触れなかった。
言葉の上では本音をぶつけ合っても、すぐに納得できない証拠のように、アリスの嫌悪感は消えなかったからだ。


火村はアリスに自由をやると言った。
他の誰かを好きになってもいいそうだ。
他の誰かと寝てもいいそうだ。

『ただしその時はそう言ってくれ。俺がお前を好きでいることは忘れるな。この距離を忘れるな。お前が応えてくれないと分かったら、邪魔にならないように消してしまうから』

何が自由なもんか、とアリスは思う。
大阪から行方をくらませたという揺るがしがたい過去をこちらから突きつけながらでは、火村もまたそうした方法が可能なのだと言う、ほとんど脅迫のようなものだ。

おまけに、彼は時折、酷い目つきをする。
風呂上りに目が合った瞬間や、うたた寝から目覚めた時などに、明らかな餓えを宿してアリスを睨む。
自分に対して欲情していると知るのは半ば喜びともなるが、一方では実際に触れられる場面を思い描き身震いをしてしまう。
子どもでもあるまいし、という思いはある。
彼女とは寝ていないと火村ははっきり言ったし、たかが抱きしめた程度の接触に目くじらを立てて喚き立てるような年でもないはずだ。
それでも、そう分かってはいても、身も心も、社会的な立場でさえ火村と永遠に繋がる可能性を持っていた彼女を思うと、身が竦む。
動けなくて、まいる。


そんな自分に煮詰まって、やっぱり上手くいきやしないと思いかけた頃、彼女を見かけた。
妹の裁判結果も含めて、何も知りたくないから知らせないでくれと火村には言ってあったから、真帆のその後もアリスは知らなかった。
火村が、彼女とのことを本気で間違いだと思っているなんて信じない。
アリスが彼のために嘘をつけたように、彼もまた自分のために嘘くらいつくだろう。
けれど、一人で駅前を歩いていた真帆の表情を見た時、ようやく本当に許せるような気がしてきた。

秋用のコートを着た颯爽とした足取りの彼女は、年相応の大人の女の顔をしていた。
子どもだった彼女は、きっと今まで傍にいた火村が突然いなくなり、怯えと孤独で泣いただろう。
申し訳なく思うことも、稀に落ち込んでいる時はザマミロと思ってしまうことも、後からそれを後悔することもあった。
引き締まった表情は決して明るくなかった。
妹のことを思い出したとすれば当然だ。

アリスはそんな彼女を綺麗だと思った。
自分を取り戻し、人生の中の不幸な戦いに立ち戻った彼女のほうが、無垢な微笑みを持つ彼女よりずっと美しいと思った。
それが火村との違いかもしれない。

そしてようやくその時、火村は彼女から離れて良かったのだと納得することが出来た。
自分の都合の良いようにそう思い込もうとしていたのではなく、火村がどう思おうと、彼はやはり間違っていたのだとはっきり肯くことが出来た。
それは結局、自分が彼女から幸福の可能性を取り上げたのではないかという、惧れにも近い罪悪感を消したかっただけなのかもしれない。
けれどアリスは納得してしまった。
そのことは自分が一番良く分かった。
なぜなら、火村の気配に少しずつ嫌悪を覚えなくなったから。












「アリス、アリス電話!」
「え、ちょ……出て!」

風呂上りで身体を拭いているタイミングだった。
微かに電話に、有栖川です、と出ている声を聞きながら、急いでパジャマを身につける。

「あ、来ました。代わります」

リビングに走りこむと、火村が受話器を突き出すように渡してきた。

「もしもし、お電話代わりました」
『あ、有栖川さん? お風呂だったの? ごめんね、かけなおすよ』

石岡の、あのいつもちょっと困っているような優しい声が聞こえた。

「ちょうどあがったとこです。すごいタイミング」
『そう? 特に用事はなかったんですけどねー、どうしてるかなと思って。でも心配ないみたい?』

火村が電話に出たことを、暗に仲直りと仄めかしているのだろう。
単純には肯けない話だが、少しずつ変わっている自分を知っているアリスには、言下に否定も出来なかった。

「えっと、うん、はい、まあ。なんとなく」
『ええー? 微妙なんですね』
「うん、そう微妙」
『彼が傍にいるから話せないの? つまんない、やっぱり後でまた掛け直すよ』

季節は冬になっていて、あれから幾度目かの電話だが、いまだに彼には詳しいことまで話せてはいない。
つらいことも悲しいこともあったが、ただ単純に自分のとった行動がおおかたで恥ずかしいと感じていたからだろう。
けれど、今ならなんとなく、話せる気もする。
やはり自分は少し、変わってきたようだと思う。

「そうですね。後でいっぱい、聞いてもらおうかな」
『御手洗にも教えていいかい?』
「ああ、どうですか、連絡はありますか。あの時はすいません……俺を送ってくれてからほとんどすぐ帰られたんでしょう? なんか邪魔してもうて」
『それくらいでね、いいんだよ、あいつは……。連絡なんてないし、そういうのもいつものことだから』

あっさりと言うけれど、だとすれば、御手洗に教えるというのはそのいつになるか分からない連絡の時のための許可なのだろう。
待つのをやめたなんて言うけれど、彼はやはり今でも待っている。
アリスはそう思った。
同時に、火村に聞いた電話口で並べ立てたと言う御手洗の言葉も思い出す。

「石岡さん。あんな」
『うん』
「本当は……本当に待ってはるんは、御手洗さんなんやないかな」

石岡は黙り込んだ。
怒らせたかなと焦るアリスが謝る前に、ため息が聞こえた。

『うん……そうかなって、思うこともあるよ。僕が恐いのは、英語でも外国でもなくて、御手洗なのかもしれない。日本にあいつがずっといたって、どんどん離れていくのを見なくちゃいけなかっただろうし、だからね、どこに行っても、そこに僕がいてもいなくても、恐いのは同じだなんて思ったりする。手が届かないことを間近に見せられるのが嫌で、僕はあいつがいないところに閉じこもっているのかもしれないね』
「なんや……諦めたり、出来てへんやないですか」
『そうなのかなぁ……』

誰もがずっと同じではいられない。
安定した関係も、知らず知らず変わっている。
それに気づかない安穏さが、何時の間にかズレと崩壊を招くのだろう。
石岡と御手洗は、なんて稀なパターンなのかとアリスは思う。
気づいていて、ズレた。
分かっていながら、そのズレを黙って見ていたのだ。

そうしか出来ない石岡は、御手洗と言う人間を指先から再構築し、自分の繭に換えている。
史実となりうるあの物語も、石岡以外の誰のものでもない。
御手洗があえて連絡を最小限にしているのは、そこから石岡を引っ張り出したり出来ないと知っているからだ。
羽化を待っている。
もうずっと長い長い間、御手洗はそれを待っている。

『僕ね』

おそらくは透明で弱々しいけれど。

『駅前留学、始めちゃった』

自らの羽根が生えてくる。

『間に合うかな。生きている間に、僕は、間に合うだろうか』
「……間に合わせるんですよ。あったりまえやないですか」
『ああ、うん……厳しいね……』
「大丈夫ですよ、簡単な英会話くらいなら僕がお相手しますから。あ、今度から日本語禁止にしましょうか」
『勘弁して、僕もう電話出ないよ、そんなの!』

本気で悲鳴をあげた石岡に、アリスは思わず笑った。
御手洗に向けて、あなたの選択は、遠く深い距離を置くという選択は、正しかったと教えてやりたい。
それとも彼は知っているのだろうか。
けれどあの時、火村を拒否したあの大阪での一夜に、御手洗は言っていた。

『僕はね、可能性という言葉が嫌いだ。そんな曖昧さを許す気はないのさ、結果はいつも白か黒か、ひとつきりの正しい道を正しく選ぶそのために、僕はいつだって何かを学んでいる。研ぎ澄まし究める、それが研究というものだ。けれどね、有栖川君。僕の人生のなかでひとつだけその言葉を切に、切に使いたい関係がある。不思議だね。解らないということが僕にとってどれだけ許し難いことか、君には解るだろうか』

ベッドサイドで、彼は答えなど初めから求めていないように淡々と話していた。
すいと右手を挙げる。

『僕のこの小指の先が、眼球のどの部分を通って脳に到達し、脳のどの部分で認識されるのかを僕は知っている。なのにあの一抱えもある男が、僕の体のどの部分に食い込んで来たのか、それをどう処理していいのか、僕は知らない。ねえ有栖川君。人はどんなに時間を惜しんで学んでも、世界の全てを知る事は出来ないのさ。けれど僕は嘆かない。なぜなら、全てを知る必要なんてどこにもないからだ。そうだろう? 人は全ては要らない。大事なことだけ、知っていればいいんだ。そうは思わないかい?』

彼にとってのそれは、石岡を待っていても良い――そんな、可能性、なのだろう。
自信の塊のようなあの男にも、そんな不確かな未来が存在する。
アリスがきちんと火村と話そうと思ったのは、それがきっかけだった。
大事なことを知るために、先に進むために。

ほかでもない、御手洗がアリスに対してこんなおせっかいをしたのは、おせっかいではなく目的があるからだ。
すなわち、石岡が夢中になっている臨時同居人を追い出しふたりきりで過ごすこと。
つまるところやっかいばらいなのだろうけれど、あの夜に御手洗が洩らしたそんなあれこれは、目的のための手段が驚くほど優しかった証拠だろう。
天才とさえ呼び得る彼には、他にも軽く百通りは追い出す方法があっただろうけれど、アリスにとって最良とも思えるやり方を優しさといわずなんと言おう。
そしてそんな御手洗にしっかりと応え始めている石岡を、アリスは心から尊敬してやまない。


またかけますと言い合い、挨拶をして電話を切ると、不機嫌そうな火村と目があった。
石岡が女性だという笑える誤解は解けたが、それは御手洗との関係を含めてみると、火村にとっては同性も受け入れられる男、という認識に変わったらしい。
アホくさいとは思いつつも、石岡ならば、と考えている自分もいるのでなかなか笑い飛ばせないアリスだった。

「威勢のいいこと言ってたな。英会話に自信が?」
「あんな、一般人はネイティブと唾を飛ばして討論する必要なんか一生あれへんねん。会話のレベルやったら、俺でも十分なんや。覚えとけ」
「相手は学者なんじゃなかったか」
「それもノープロブレムや。なぜなら、あん人の言うことは日本語でも理解出来ひんから」

嫉妬と欲望の混じり合った視線から逃れ、洗面所に逃げ込んだ。
鏡を覗き込んだが、頬の赤味は湯上りのそれと区別はつかなそうだった。
見つめられる顔に不確かながら反応してしまう。
微かな嫌悪感を越えて、何かが立ち昇ってくる。
首を振ってそれを遠ざけた。

今はまだ。


髪を乾かしてリビングに戻ると、火村はソファでニュースを見ていた。
そっとその隣に座る。
今までは同じソファに座ることすらなかったためか、火村がやや驚いたようにちらりと見た。
それを、思い切り睨み返す。
動くなよ、という警告だ。
彼は正しくそれを受け取り、ため息のようなものを漏らしながら再びテレビに目を戻す。
だが、距離を詰めると今度こそぎょっとした顔をした。
お互いの触れそうで触れない肩が、緊張しているのが分かる。
初めて並んで歩いた春の日のような、意識しているくせにしていない顔をするあの張りつめかただ。

広い肩。
タバコの匂い。
あの二十歳の頃から確実に変わった体つきを、アリスはよく知っている。
火村がわずかに身じろぎをし、それにつられて思わずビクリと半身を引いた。
がっかりしたような盛大なため息。
ふてくされたようにテレビを睨む顔。

その投げ出された手を、アリスは指先で触れた。

彼は指先をぴくりとさせたが、それ以上は決して動かず、前を向いたままいてくれる。
温かく乾いた手は、ついさっき洗い物をしたせいかちょっと荒れていた。
そういえば今年はまだ加湿器を入れていなかったなと気づく。
風呂上りでしっとりしている自分の手を、ぎゅっと押し付けた。
ほぼ半年振りの火村の体温だ。
手の大きさはさほど変わらないはずなのに、彼のほうが逞しく見える。
しょせん学者の手とはいえ、自分よりやや厚みも間接の太さもある手だ。
この両手に掴まれると、アリスの腰など楽に持ち上げられてしまう。

「!」

思わず生々しい場面を浮かべてしまい、気づいたら勢い良く立ち上がっていた。
こちらの出方を待つように横目で見上げてきている火村の目線を感じながら、絶対に目を合わせず、

「寝る。おやすみ!」

と言い放って、ささっと寝室に引き上げた。
扉の向こうで、火村がどさりとソファに倒れる音がした。
そして、

「恨むぞアリス! 生殺しかよ!」

という怒鳴り声が聞こえる。

「手ぇ握った程度でナンボほど興奮したっていうんや、中学生か君は!」
「中学生じゃねぇからお前のオテテに興奮すんだろうが、馬鹿野郎」
「何を冷静に馬鹿にしてんねん。君の妄想逞しい変態性欲なんか知るかいな、ええか、一歩でもこっちの部屋入ったらな、嫌いになんで」

明らかにソファにいるのに、フンという鼻息が確かに聞こえた。

「じゃあ今はちょっとは好きなんだな」
「めでたいな、君は」
「そうでも思わなきゃやってらんねぇよ。おやすみアリス。俺は寝る」
「せいぜいええ夢を」
「そりゃ間違いないな。さっきのだけで、多分俺はお前の夢を見る」

意地悪で触れた夢の話を、火村はあっさりとそう返した。

「……夢の俺に、無体なことせんといてな」
「知るか」

完全にふてくされた返事に苦笑し、ベッドに潜る。


遠くにソファが軋む音がする。
それはほんの半年前に胸を痛めた音と同じだが、今はあの頃のように形の無い不安に眠れない夜はなくなった。
温かい彼の手に覚えたのは嫌悪ではなく、ただ純粋な愛しさだけだ。
木蓮の匂いはしなかった。

あともう少し。
待ってくれたら、自分は彼の手を正面から握ることが出来るだろう。


彼の中には相も変わらず闇がある。
この半年の間も幾度となく叫び飛び起きた。
アリスの手はその闇に触れない。

幻の血に塗れた彼ではなく、現実の彼の手に触れて、せめて導くことは出来なくても暗闇の中で独りにならないように。
いつか光差すことを彼が信じなくとも、その手をとらずにいられない。

生まれ変わるのではなく、全てを包括したままでいい。


最も昏い夢の世界で一番初めに出会えるように、私は君の、暁の方向にいる。









end


Back  後日談













見捨てないでくれてありがとう、信じてくれてありがとうございます。
ハッピーエンドが大好きです。
お礼にもなりませんが、後日談としてギャグでエロなお話をご用意しております。



Novels

1