10.
真っ青になったアリスに触れようとするのを、意外なことに御手洗は阻まなかった。
それをしたのは、アリス本人だった。
気持ち悪い、と彼は言った。
震える声で、蒼白な顔を御手洗に押し付けて、火村から身を守るように身を縮こまらせてそう言った。
彼女を抱いたその手が気持ち悪くてたまらない。
「もう……会っていない。彼女とは会ってないんだ」
言い訳する火村に応えたのは、今度こそ御手洗だった。
「いったん引き受けたものを放り出したのかい。あちこちと中途半端な男だな、君は」
「彼女にとってそのほうがいいと判断したからだ。同じ経験は共感よりも同情を生む。距離を保てないなら治療に関わるべきじゃない」
「は! そんなことは最初から分かっていることだよ、当たり前のこと、当然のことだ。そんなことも知らずに関わり出したのも間違いなら、そっちが駄目だからこっちと安易にこの子のところに戻ってくるのも間違いだ」
火村は奥歯を噛み締めた。
全く彼の言う通りだった。
最初に佐倉に関わろうとしたのがどうしてだったか、火村はしっかり覚えている。
それは、明らかに自己分析の材料として興味深いという、ひどく客観的なものだった。
夢の内容と現実のリンク、夢の検閲が厳しくなり悪夢と変わる過程、経験していないはずの生々しさ。
そしてそこから浮上してくる、エスに根ざした欲求の存在。
自分が通って来た時、見極めることができなかった内的心象の全てを観察できるかもしれないと思った。
だが、妹が自首した日のぶちまけるような告白から数日、彼女は現実から飛んだ。
耐え切れず、安全な場所に心が避難した。
観察者としては落胆すべきところだ。
しかし、その無垢で無防備な笑みを、火村は初めて美しいと感じた。
男女の愛情ではなかったかもしれない。
それでも、久しぶりに感じた、守ってやりたいという意識だった。
彼女は、起きている間は子どもになっているくせに、眠れば悪夢に飛び起きる。
目が覚めてひたすら恐怖に叫ぶため、精神科のナイトケアを利用し、夜は病院のベッドで眠らせた。
火村は、何が恐いのかさえ分からない彼女のために、寝るまで傍についていた。
一度、落ち着いた様子があったため、付き添いがあれば外泊を試してみましょうと言う話が出た。
アリスの誕生日の夜だった。
火村は佐倉を選んだ。
妹のこと、警察のこと、雑事のほとんどを処理してやり、最大限のサポートを与えた。
自分がかつて一人でやり遂げてきたことを、代わりに信頼できる大人として助けてやらなければと思った。
がむしゃらともいえるその行為をふと振り返らせられたのは、病院の職員の一言だ。
ドクターでもナースでもない白衣姿の男は、本多と名乗り、言った。
彼女はあなたではないんですよ。
ぶっきらぼうで通りすがりの一言に、見事に内心を言い当てられた気がした。
そうだったのか、という気づきでさえあった。
火村は佐倉を自らの子ども時代に見立てていたのだ。
傷つき、弱く、誰からも省みられない孤独な子ども。
強烈な憎しみに侵食され、その手を血で汚しても構わないと思いつめた子どもを、せめて自分の手で抱きしめ慰めてやることで、悪夢も止みそうな気がした。
彼女を守ってやりたいと思ったことに嘘はない。
だが、それは結局、自分が助かりたいがゆえの利己的な感情が啓発したものだ。
彼女を子どものように大事にすることは、結局のところその防衛方法を助長させた。
御手洗の言う通りだ。
火村は佐倉に関わることが症状を悪化させているとようやく認め、彼女の両親に連絡した。
いくらかの時間が経ち、やりきれないこの事件に多少の整理をつけていた両親は、最初の頃のように娘を責めることなく、面倒をみることを承知した。
彼らもまた、一時の感情でぶつけた憎しみが、彼女に向けるものではなかったことに気づいたのだろう。
むしろほっとしたように、ようやくやるべきことが出来たとでも言うように、全てを引き受けていった。
最後の日、佐倉はやはり、あの美しい笑みを見せていた。
『佐倉さん』
『ママとパパがねー、グラタン食べていいよって。素敵ねー、あつあつぅ』
『そう……グラタンが好きなんですか』
『好きー。ママも好き、パパも好き。火村さんも好きよ』
『ありがとう』
自分も好きだと応えることは出来なかった。
その言葉を告げるには、彼女ほどの真っ直ぐさを失いすぎた。
『アリスも好き』
『え?』
今から行こうとしている部屋の主を呼ばれ、火村は狼狽した。
彼女は、あの日アリスに怒っていた事も忘れたように、にこにこしていた。
『だって、火村さんのこと好きって言ったの。だからいいひとー、好きー』
そこに希望を見出したことは否めない。
愛しているとでも思っているのかと、火村がしてきた仕打ちに耐え切れなかった心情を吐露したアリスは、それでも決して愛していないと断言したわけではない。
とても彼らしく、アイロニカルにそう仄めかしたに過ぎなかった。
冷えた表情も、平坦な口調も、自分がしたことを考えれば当然だったはずだが、決定的ではないという希望があった。
目の前のアリスと視線が合わない。
思い知らされる。
彼を慰めたいと伸ばした手は、かつて一度彼を突き放し、そして他人に触れた手だ。
アリスはそれを気持ちが悪いと言った。
理解できた。
「さあ、この子を大事に思うなら、帰りたまえ。僕らは今夜はここに泊まる。君がいたら休めないじゃないか」
決して火村を見ようとしないアリスに、言いたくて言えないことがある。
今になってようやく思う愛しているの言葉は、どうか彼一人に聞いて欲しい。
「……諦めたくないんだ、アリス」
ぎりぎりの妥協でそう呟き、火村はアリスの部屋を後にした。
そして、知った。
愛する人が、自分以外に触れられていると想像する痛みを。
自分じゃない誰かに抱きしめられていると思う時間の孤独さを。
翌日になり、なんとか大学での業務をこなした火村は、自然と大阪に向かって車を走らせていた。
佐倉に会いに通ったときとは違う、せかされるような運転だった。
夏の夜は遅く、それでもアリスのマンションに着いた頃にはあたりは薄暗くなっている。
見上げる窓に灯りがついているのが見えて、まだここにいるのだとほっとした。
だからと言って会いにも行けず、何をしに来たのかと自問する。
大阪にいようが、横浜にいようが、安心する道理はどこにもない。
さすがに馬鹿げた真似をしている気になり、帰ろうと寄りかかっていた車のドアを開けた時、火村、と呼ばれた。
アリスが固い表情で立っていた。
「……またコンビニメシかよ」
「しゃあないやろ、冷蔵庫なんもないんやから」
思わずかけた声に、ぎくしゃくした様子は否めずとも、アリスは曲がりなりにも返事を寄越した。
唇を引き結んだままの顔は、ホテルのロビィで見せたものに似ているが、今はただ途方にくれる子どものようにも思える。
どうしていいか分からないのは、彼も一緒なのかもしれない。
まるで昨日初めて知り合った者同士が距離を探りあうような、間の悪い瞬間がある。
耐え切れなくなったように、アリスがぎこちなく身体を動かし、
「……あがれば」
と言った。
火村は躊躇った。
「いいのか。あの男は?」
「なんや、お前しばらく会わへん間に鈍くなったんやないか。どう考えても一人分やろ」
かさかさと振ってみせる袋には、確かにサンドイッチがひとつきりしか入っていない。
「帰ったのか。お前は残ったんだな」
「逃げるのも時には必要や。でも逃げてばっかりじゃどうにもならん」
踵を返したアリスに続き、火村はマンションのエントランスをくぐった。
彼に促されるまま、佐倉と会わない理由を説明した。
俯き加減の顔は表情が読み取れない。
「何が駄目なん?」
アリスは言った。
「彼女のそばにおれば、君は変われるんやないの?」
「分からない。けど彼女の症状は確実に進行する」
「ふぅん……」
顔をあげて、首を傾げる。
不思議そうな表情は、硬さが幾分とれた気がした。
やがて火村の説明を頭の中で整理したのか、納得したように肯く。
そして、それから、
「早う回復するとええね」
と言った。
「そしたら、きっと君と色んな話が出来るやろう」
「もう会わないよ」
「なんで?」
「そうしたら、アリスは俺に会わなくなるだろう?」
彼はちらりと笑った。
「俺のせい? だから会いたいのに会わない?」
「そういうことじゃない」
「問題ないで。どっちにしろ、俺はもうお前とは、」
みなまで言わせず遮った。
「お前が好きだ、アリス。俺が愛してるのは彼女じゃない」
アリスは軽く目を瞠ったが、すぐにまた笑った。
「それを信じろって? 一体どういう心境の変化や。何かの勘違いやろ」
「確かに以前は違った。その通りだ、変わったんだよ、俺は。自分でも戸惑うくらいに、お前を独占したいと思っている」
「なくして初めて気づいた、とか? ヒムラヒデオにしては随分陳腐やないか。それが本気やろうが勘違いやろうが、俺には他を当たってくれとしか言えへん」
「それで? そうすりゃ俺が彼女のところへ行くとでも? 今すぐ信じろなんて言わないが、もう俺にとって彼女は過ぎたことだ」
言い切ったが、アリスは次第に笑みに侮蔑を混ぜ始めた。
「その自信はほんま、なんなんやろうね。何で俺がそこまで自分を犠牲にしているなんて思えるんや。本気で、まだ君が好きやと思うてるんか」
火村は首を振った。
「思っている訳じゃない。けど思いたい」
「無駄や」
「だったら言え。はっきり言葉にしろよ!」
強い声に、アリスがびくりと身を引いた。
「い、言わんでも分かれ」
「嫌だね。お前の口から聞きたい。お前がこれっぽっちも俺を愛してないって言うなら、このことを二度と蒸し返さない。お前があの男のところに行くのも、指をくわえて黙って見てるさ」
「なんや、あの男って……御手洗さんのことか。阿呆なことを。あん人にはちゃんと決まった人がいるんや。ちょっとやそっとやない相手や」
とうとう目を逸らし、話も違う方向へ持っていこうとし始めた。
これで期待するなというほうが難しい。
愛してないと言えないことに、愛している以外の理由があるだろうか。
御手洗との関係も気になったが、アリスの思惑に乗るつもりはなかった。
ロビィでのやりとりを思い起こせば、石岡という名前が候補にあがってきたが、それもどうでもいい。
おそらくは、御手洗が本当にアリスと因果のある男であったとしても、知ったことではないのだ。
アリスが欲しい。
その気持ちの前には、困難は乗り越えるべきものでしかない。
「少しでも忘れていないなら、応えてくれ、アリス」
無意識に身を乗り出した火村に、アリスは過剰に反応した。
弾かれたように後ろに身を反らす。
怯えて逃げたのだと気づいた時には、彼は自分の肩を掴んでさすっていた。
「う、動かんでくれ、火村」
「……別に、なにもしやしねぇよ」
さすがにショックで、ぶっきらぼうな口調になる。
アリスはくしゃりと顔を歪ませた。
泣かせてしまう、と思ったが、彼は歯を食いしばるようにしてこらえた。
「そういう、意味やない。言ったろう。気持ち悪いんや」
「お前……」
「君の言う通り、俺の気持ちはさほど変わってない。けど、気持ち悪い。彼女に触った手やと思うと、鳥肌が立つ。……いや、分からん。気持ち悪いのは君やなくて、その間もひたすら待ってた自分なんかもしれん。ええ年して、プライド捨てた恋にしがみついてる滑稽な自分を嫌悪してるせいなんかも。何を言われても信用できない。ありえへん。もういやや。もうこんな気持ちにさせんでくれ。俺の前から消えてくれ!」
自分の言葉でどんどん混乱していくのか、握った拳を震わせながら、アリスは大きな声をあげた。
淡々と二人の半端な関係をあげつらわれた時よりも、彼を傷つけたことをまざまざと思い知らされる。
自尊心の高いアリスが全てを捨てて火村のために黙していたのに、それをいいことに耐えることを強い、挙句の果てに振り捨てた。
一人きりで覚悟を決めた誕生日の夜に、彼は何を思っただろう。
その日が過ぎ去った瞬間に、何を思っただろう。
「ごめん……」
火村は呟いた。
「今更なんだな、アリス……俺はお前からずっと遅れてしまった」
そう口を突いた瞬間、アリスは呆然としたように瞠目してこちらを見つめた。
驚きを示す顔が、ゆっくりと歪む。
アリスは言った。
「……本当は……初めから分かってた。手をつないだらキス、キスしたらセックス、その次は独占したくなるやろう、途中で満足したりは絶対にせえへんやろう。そう分かってた。だからどっかで上手くいかなくなることも、分かってたんや。なのになんで俺は君を責めてるんやろう。なんで謝らせたりしてるんやろう。最初に君がごめんて言うてくれた時に、絶対こんなことにはならんようにて、思うたはずやのに」
アリスの目は一杯まで潤んでいたが、涙をこぼすことはない。
見開いた瞼が、何かの意地のようにそれをせき止めていた。
「俺だって分かってたさ、アリス。気持ちがエスカレートするのは当たり前で普通のことだ。分かっててお前を抱いたんだ。理由は知ってるよな? もし駄目になっても、お前は俺から離れたりしないだろうって思ったからだ。お前の言う通りさ。好意と関係に寄りかかって、根拠の無い勝手な安心を持っていた。お前は怒っていいんだ。馬鹿にしていたととられても仕方が無い。怒っていいんだ」
ゆっくりとアリスは首を振った。
「いや……君は正しい。もし向こうで面倒見てくれる人がおらんかったら、俺は早々に君んところへ戻ってたかもしれん。そうならなかったのは、物凄い偶然と幸運に恵まれたからに過ぎないんや」
「……あの男か。御手洗、だったか」
「正確には違うよ。石岡和己て、先輩にあたる推理作家さん。ちょっと前に初めて話しただけやったのに、俺の本を読んでくれてたとかで……。御手洗さんは石岡さんと一緒に暮らしてるんやけど、今は外国におるんや。たまたま帰ってきてるだけ」
「お前、人見知りのくせにそんな程度の知り合いで泊り込んでたのか?」
アリスは首を傾げた。
疲れたように、言う。
「直感……かな。あん人は、同じやと思ったから」
「何と」
「俺と。でも違ったけど。違ってることにはきっとあん人は気づいてへんけど」
「……俺に分かるように話す気はないのか」
「なんや上手く説明出来ひんよ」
それからしばらく、沈黙が落ちた。
二人とも、何を言っていいか分からなかった。
そもそも何の話をしていたのかすらぼんやりしてきた。
結局アリスが佐倉のことについて納得したのかどうか、それすら分からない。
「アリス……」
声をかけたが、彼は少し身じろいだだけで顔を挙げなかった。
もう一度呼ぶと、ようやくちらりと目が合う。
「……なん?」
「やり直させてくれとか……そんな出来もしないことは言わない。人間の時間は連続してるから、リセットもキャンセルも出来ない。その上で」
「火村」
「その上でさ、アリス。お前が共有したいと思ってくれているものを明渡せず、おまけに酷い仕打ちをした俺を許してくれないか。恋人なんて望まないから」
アリスは困ったような顔をした。
火村はそれにかまわなかった。
「俺が完璧じゃないことくらい、分かってるだろう? 佐倉のことは、そうは思いたくないがやっぱりあの男の言う通り最初から間違いだった。間違ってしまった俺はもう駄目か?」
「そういうことやない」
「佐倉を助けられるのは俺じゃなかった。多分、そういう性質なんだろう。不確かなものをそのままにしておけないんだ。柔軟性がなくて融通がきかない。要するに、優しく出来ない」
今度は呆れたような顔をされた。
自虐的と思われたのかもしれない。
だが、それは火村の本音だ。
「今になってそれがようやく分かった。だからアリス。俺はお前に憧れるんだ。だから好きになった。何かを返せない俺に優しく出来るお前が、どれだけ奇跡的な存在か、ようやく知った。おこがましくももう何も返せないなんて、下らないことを言ったよ。はなから何もしてやれなかったくせに」
「もうやめ……」
「馬鹿にされてるようだって、お前は何度も言ったよな。そうじゃない。馬鹿にしていたんじゃない。俺はただ甘えてたんだ。お前だけがそれを許すから」
言うだけ言い切って、火村は黙った。
アリスは俯き、それから、ぼそりと、
「……お前、ズルイ」
と言った。
「ああ」
「ああやないわ、もう……。そんなん言われて、どうして嫌やなんてまだ駄々こねられるんや。ええよ、言うて肯く以外にないやんか」
「だからさ。そこが優しさだろ。それに嫌なら嫌と言ってもいい。言ったはずだ。諦めたくない」
「確信犯すぎる」
少しだけ沈黙があった。
「なあ……」
「なんやねん」
「イシオカカズミって、どんな女?」
アリスが笑った。
笑いながら、泣いていた。
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