9.
二人には、アリスと火村との特殊な関係については一切触れず、ただ意見の食い違いで喧嘩をしたと話した。
フィールドワークについての説明と、佐倉真帆の関わった事件、そしてついさっきの彼女との会話をざっと伝えるにとどめる。
それでも、大分気持ちがすっきりした。
「ふうん。まあかなりの退行を示しているとは言え、一人でうろうろ出来るくらいだ、観念的な部分のいくらかは残っているんだろうね」
「そうだよねー、そうじゃなきゃ有栖川さんが通りそうな所で待ち伏せなんて出来ないよね」
「囚人」
「え?」
御手洗の呟きに反応したアリスは、細く絞った瞳に出会って思わず黙り込んだ。
「囚人に見られる症状に似ている。刑務所というところを見たことがあるかい? 外がほとんど見えない狭い部屋、限られた会話と、満足に空も見えない狭い運動場。単調な作業と刺激の少ない環境。そういう場所にいると、まれにじわじわと情動が低下していき、退行症状を示す者がいるのさ」
「彼女は……」
「解っているとも、別にどこにも囚われてはいない。身体はね」
そっけないとも言える御手洗の視線は、ただ事実を告げているだけさと語っている。
アリスは佐倉が今の自分よりもはるかに自由な心境であるように思えた。
それは、彼女自身が何かを狭く閉じ込められた場所に押し込めてしまった結果なのだろうか。
囚われている。
自らに起こった、酷く不幸な出来事にがんじがらめの人生だ。
「生物学的になんらかの変化が起こった結果という訳ではないだろうね。元々の遺伝的な脆弱性があれば、今回のことがある種の精神病の引き金を引いたとも考えられるが、君の話ではなかなか情熱的な人物らしいし。治療さえ適切なら、おそらく一過性で回復するだろう」
そう言った御手洗は、
「ところで君ね、その奥歯に物の挟まったような話はなんのつもりだい。僕を馬鹿にしてるんじゃないだろうね?」
「え、いやそんな」
「今の説明だけじゃあ、君が僕らの愛の巣に入り込んでいる理由も、毎晩泣いている理由もちっとも分からないじゃないか!」
「御手洗ッ!」
尊大に腕を組んでいた御手洗が、鋭い石岡の呼びかけにビクッと固まった。
「何言っているんだよ、僕が有栖川さんを無理にお誘いしたんだよ、そこに連絡もなしにいきなり帰ってきたくせに何を言うんだ、君は! しかもこっそり夜中に彼の部屋に入ったね!?」
「あ、あそこは僕の……」
「何年かぶりでふらりと現れてよくもそんなことを主張できるな」
すっくと立ち上がった石岡は、いきなりアリスの手を引いて立ち上がらせた。
そして、御手洗の部屋に向かいながら、
「一人の部屋が欲しいなら、僕の部屋を使うといいよ」
「い、石岡君、どこに行くつもりだい」
「僕は、有栖川さんと寝るから」
「「え!」」
アリスと御手洗の声をそろえた驚きに、石岡は全く涼しい顔をしていた。
あの御手洗が絶句して、ドアが閉まるまでずっと黙っている。
「……石岡さんて、思うてたより強い」
もそもそと二人並んでベッドに横たわり、天井を見上げながら思わず呟く。
触れてはいない右手の傍に、他人の体温が伝わってきた。
くっついた壁の冷たさと対照的な温度は、なんとなくほっとする。
「違うよ」
「そうなん?」
「言ったじゃないですか。僕は諦めてるんです。どうせ望みが叶わないなら、嫌われたっていいと思える。だから煩いことも言えるんですよね」
数年ぶりに気紛れにやって来た人は、また石岡を残して去るのだろう。
それを思えば、彼の言うことに何も返せなくなる。
ただでさえほとんど事情も知らない状態で、滅多な慰めもいえない。
「僕はね、ずっと待ってたんです。以前とても好きになった人がいたんですけど、その時もなんだかいつもそんな感じだったな。どこに行ったか分かんなくて、うん、なんかいつも戻って来るの待ってた。御手洗と暮らし始めてからもそう。あいつ、行き先言わないし、そんな必要も感じてないし、僕も聞けばいいんだけど、そういうレベルじゃなくってね。まるでコンビニ行くみたいに気軽に出てって、帰ってこないの。僕のほうは待つしかないのね、そういう時って」
石岡は、ひとつ、息をついた。
笑ったようだった。
「もう待つのはやめたんです。そしたらぐんと楽になった。なんだ、こんなことで良かったのか、って。今はね、ハインリッヒという人がたまに御手洗のことを手記にしているみたいです。そういうふうに、あいつの世界はここじゃないところにスライドしたんだと思います。僕は作家と言われているけれど、過去を食いつぶして生きているだけ。それも他人のね。今は少しずつ、イラストの仕事も入れているんです。そっちで生活していけるくらいになったら、もう書くのはやめようと思って」
「そんな!」
思わず声をあげると、石岡の手がアリスに触れた。
「だからね、僕は有栖川さんのファンなんです。火村さんの助手をされてるって噂を聞いて、なのにその話は一切作品に使わないんでしょ? 凄いよ。本当に推理小説が好きなんだなって思うんです」
アリスは、彼の持つ劣等感が想像以上であることを感じ、言葉を失った。
いくら現実の事件だったとはいえ、それを組み立て物語として人に伝えているのはこの人の文章だ。
なおかつ、簡単な覚書と新聞記事程度で隅々まで再現していることを考えれば、彼の記憶力が並大抵でないことも分かる。
その場では理解できていないふうでも、作品になる時には御手洗の言葉に全て説得力がある。
きっと、きちんと資料に当たって勉強しているに違いない。
同じ作家として、消化しきれていない内容に説得力をもたせられたりしないことは感じているし、そもそも石岡がそれを堂々とさも知っているふうに書ける人だとは思えない。
御手洗が破格の才能を有しているがゆえに、それを本にするのがどれだけ難しいことか。
しかしそれを口にしても、彼は本気に受け取ったりはしないだろう。
「俺……石岡さんのファンです」
「ありがとう」
「ちゃんと聞いてくださいよ。探偵御手洗が好きなんやない、助手の石岡君が好きなんでもない。作家石岡和己のファンなんですからね。そこんとこ、作家として尊敬しているあなたにちゃんと理解しといて欲しいですよ、もう」
「えっと、何で怒ってるの? 僕のせい?」
おろおろしている石岡に、アリスはため息をついた。
首を振って、触れ合った指をもう少しだけ重ねる。
理解は出来た。
諦めのことについてだ。
望みが欠片もなくなった今、ほんの少しだけ楽になった気がしている。
悲しみに満たされていることは変わらないが、息苦しいほどの痛みは随分減った。
石岡のように、いつか静かに生きていけるだろう。
なくしたものに泣かずにすむのだろう。
翌朝、春色のシャツで朝食のテーブルについたアリスに、御手洗が渋い顔をして言った。
「君、そろそろ夏物の服を買って来たまえよ。7月も終わるというのに。見ているだけで暑い」
そしてさっさと出かけていってしまったのを、石岡が笑いながら見送る。
「夏中でもいればいいさ、ってことだよ、あれ」
「そうなん? 明らかに不本意そうやったけど」
「えー、あいつってば照れ屋だから、本当はそんなことないですよう」
あの仏頂面を照れていると思える石岡は、本当に凄いとアリスは思う。
数日後、生活用品の全てを買ってもいられないと決心したアリスは、夏服を取りに一度大阪に行って来ると告げた。
驚いたことに、御手洗が同行を申し出た。
久しぶりの帰宅に心が重かったアリスも、心強いと思う反面、ただの親切だとは信じられないでいる。
探偵として尊敬はするが、人間としては少々、規格外れの認識を抱き始めていたからだ。
だが、石岡が全く心配していないようだったし、エッセイの締め切りでぎりぎりの彼のところから御手洗を引き離してあげても良いかもしれないと思ったアリスは、ありがたくそれを受けることにした。
新幹線で新大阪の駅につき、そこから乗り換えて電車で夕陽丘を目指す。
ほんの4ヶ月ぶりだというのに、駅舎すらが随分と懐かしく思えた。
「埃でえらい様子やと思いますけど、まあどうぞ」
「なかなかいいところだね」
らしくもなく世辞めいたことを言う御手洗に苦笑しながら、リビングにあがる。
思ったよりも埃っぽくないのは、先月火村が来たという時に、掃除でもしてくれたのだろう。
相変わらずマメな男だ。
一人暮らし歴は大学の4年分しか違わないはずなのに、身についた生活習慣は大差がついている。
封が切られている豆をためつすがめつしてから、そういえば御手洗はコーヒーを飲まないんだったと気づいて、緑茶のパックにする。
どっちもどっちのもてなしだが、彼は満足そうだ。
あまり料理に自信の無いアリスだが、御手洗よりマシだということに最近は気づいている。
「じゃあ俺はとりあえず荷物まとめます。今日中に帰ることもできますよ。何泊かしてもいいですし、考えておいてください」
自由業の気楽さで、全く予定を立てずの出発だった。
さっさとエアコンを切ってベランダを全開にしている御手洗が、適当に手を振るのを見てから、寝室に入る。
ここを出る時はまだ、衣替えをしていなかった。
たんすの奥にある夏物を取り出して、着回ししやすそうなものを選り分ける。
うんざりするのは、どの服にもひとつひとつ、妙に鮮明な火村の思い出があることだ。
これは急に思い立って海に連れ出し、渋滞に巻き込まれた時のサマーニット。
これはモモに引っかかれてできたカギ裂きを、火村があっという間に繕ってしまったカッターシャツ。
彼が外したボタン。
抱きしめられたTシャツ。
ふざけて歯でジップを下げられたジーンズ。
ソファに並んで野球観戦をした、縦じまのプルオーバ。
「やれやれ。どうやら泊まりになりそうだね」
寝室のドア枠にもたれて、御手洗が言った。
腕を組んだ立ち姿は、火村より少し痩せていて、火村より少し背が高い。
アリスは立ち上がり、彼を壁に押し付けるようにして抱きついた。
じっとしていた御手洗は、やがて背中を抱きしめてくれた。
「泣いてなかったら放り出すところだ。言っておくけど、これって本当は石岡君専用なんだぜ?」
「泣いてなんかないやないですか」
「どうでもいいさ」
いかにも研究職な、細くて長い指先が髪の毛を梳く。
肩より伸びたアリスの髪を、さらさらと撫でる。
女性にするようなやり方が、火村とは全然違う。
この優しさは、きっと石岡と御手洗の持つ独特のものなのだろう。
自分達にも、何か、あっただろうか。
友人の枠にとどまらないくせに、恋人にはなれないような、どこにもない狭間の領域で、何か生み出したものはあっただろうか。
火村とのことでは泣かないと決めたはずなのに、他人の手の優しさに負けそうだった。
その時、玄関のほうからガチャガチャという音が聞こえた。
カギを開けている音だ。
目を合わせた御手洗は、ひょいと片眉をあげた。
「我が物顔なお客様じゃないか」
「あ、ど、どうしよ……」
火村以外にカギを預けている相手はいない。
あたふたするアリスを、何を思ったか御手洗はさらに強く抱き寄せた。
「あの、ちょっと、」
「ドラマじみているね。石岡君が好きそうだ」
「アホですか、アンタ」
あまりのセリフに思わず言った。
火村にしては慌てた足音がリビングに近づいてくる。
沓脱の靴に気づいたのだろう。
そして、アリスが御手洗を突き放すのと、ドアが開いたのは同時だった。
「アリス!」
息を切らせた火村が、アリスを見て、そして御手洗を見つけ、交互に視線をさまよわせる。
何と言ったものか、分からなかった。
黙りこくる二人をなんら気にしないように、御手洗が動いた。
有無を言わせず、背中で火村の視線から隠すようにアリスの肩を抱く。
その途端、
「離れろ」
という火村の声がした。
低く、震えていた。
とっさにアリスは怯えを感じたが、やはり御手洗は動じない。
ちらりと火村を肩越しに見やってから、無視する態でさらにアリスを抱き寄せる。
「聞こえないのか?」
「君に怯えているようだ。それが分からないとでも?」
見えないところで、火村が息を吸った。
「アリス。アリス、やめてくれ。なにしてんだよ、この部屋で」
この部屋?
アリスは危うく笑いそうになった。
彼がもし、それを特別だと考えているなら、滑稽だと思った。
ここにあるのは、火村とアリスの思い出だけではない。
とっくの昔に、佐倉の匂いが染み付いている。
彼が連れてくる彼女の匂いが、木蓮の甘い匂いが、タバコに混じって残っている。
ソファを見るたびに蘇るそれは、実態がないがゆえにもう二度と忘れられないだろう。
そんな酷い記憶に塗り重ねて悪いものなどあるはずがない。
自分のしたことを全く分かっていない火村を怒鳴りつけたくて、けれど喉にひっかかったように声がでなかった。
そのアリスの代わりのように、御手洗が言った。
「君だってしただろう?」
火村が戸惑うような気配があった。
御手洗はただ淡々と続けた。
「君だって、彼女を抱きしめて慰めただろう?」
あの日間近で見た佐倉の華奢な肩を優しく抱きしめる火村の姿がありありと思い浮かんだ。
訪れた痛みはいっそ肉体など手放してしまいたくなるほど酷く、ほんの一瞬で消えたくせにアリスの胸に重苦しい淀みを貼り付けた。
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そろそろ佳境です。
御手洗さん、意地悪ですね。