8.




受賞式典の行われるホテルに向かう間に、二回、石岡からのメールが入った。
前回の講演会をなんとかこなしたきり、久しぶりの外出だったせいか、彼の心配の仕方は尋常ではなかった。
講演を終えたあとにアリスが少し熱を出してしまっていたせいかもしれない。
駄々をこねたせいで遅れた御手洗の到着時間と、マンションを出発した時間を知らせるメールの両方に、無理はしないようにと付け加えられていた。
ありがたいやら、彼の心配性がむしろ心配になるやらで、それでも嬉しい気持ちになる。
一人が耐え切れないというよりは、火村の近くにいるということのほうが苦しかったのだが、こうして石岡の存在を感じると、やはり孤独が恐かったのかもしれないと思えた。


あの日、アリスは逃げるように新幹線に飛び乗った。
結局、歩きなれた道を選ぶものなのか、なんだかんだと一番来ることが多い東京駅に向かっていた。
家にいることなどとうていできなかった。
あちこちに染み付いた火村の痕跡の中、二人で使ったこともあるベッドで寝ることなど、出来るわけが無い。
クローゼットにぶら下がったネクタイや、本棚にある彼の資料を全部ひとまとめにして視界から取り去っても、匂いは消えない。
思い出もなくならない。
吐きそうな胸の痛みを抱えたままひたすら家の中をうろうろと歩き、落ち着ける場所を探して回った。

気づくとベランダからじっと下を眺めていた時に、これ以上ここにはいられないと思った。
無意識に飛び降りでもしたら目も当てられない、と自分を哂った。
まるであてつけのように命を使うには、それが失われる過程を見すぎた。
火村は自分を責めるだろう。
そして、追い詰め続けてきた人殺しと差が無い立場にあるのだとさえ思い込み、苦しむだろう。
だからアリスはこの世から逃げることが出来ない。
せいぜい、長すぎる時間を過ごしたこの地から離れるくらい。
それくらいしか許されない。


気が付くといつも火村のことを考えている。
ホテルでも、御手洗の部屋でも、ベッドの中ではぴったりと壁に身体を寄せて眠るようになった。
頼りないのだ。
身体にシーツしか触れない空間が、存在すらリアルさを失い、確からしい感触を与えてくれない。
浮かぶとも沈むともしれない不安定さに、一人きり放り出された気がしてしまう。
初めから一人だったのに。

それでも手に触れた彼の体は生身の匂いをさせていたから、それでよかった。
無機質な冷たい壁に身を寄せながら、自分と入れ替わりで彼に触れているだろう彼女のことをつい思い浮かべてしまう。
どうせ自分では駄目だったと分かってはいるけれど、自分以上の何かを火村と共有できることに嫉妬した。

そう、身体など問題ではなかった。
踏み越えられない場所を諦め、諦めたから手を伸ばした。
可能性が少しでもあったのなら、自分は決して彼と寝ることはなかっただろう。
彼が夢の全てを話してくれるなどありえないから、アリスでは分かり合えないから、即物的で終わりのある関係を求めた。
火村に非はない。
分かっていても、彼女さえいなければとどこかで思う。


あの子を殺せば、何かが変わるだろうか?


「アリス?」

ホテルまであと二分という辺りで名前を呼ばれた。
俯きぎみで歩いていたアリスが顔をあげると、たった今まで物騒なことを考えていた相手が立っていた。
想像が現実に降りてきた。
佐倉真帆。

アリス?

声の質は違うのに、その呼び方もイントネーションも、たった一人を髣髴とさせる。
まるでコピィのようだ。
せっかくこんなところまで逃げてきたのに、せっかく泣かない日さえあるくらいに落ち着いたのに、たった一瞬で後戻りだ。

『昨夜悪かったな。……誕生日だったのに』

「あんたにアリスと呼ばれる筋合いはないッ」

道のど真ん中ということも忘れ、目の前の佐倉に低い声できつく言い放った。
彼女は怯えた顔でビクリと肩を引いた。
取調室で会った時より痩せた。
華奢で頼りなさそうな肩だった。

「だ、だって火村さんがそう呼ぶもの」


この子を殺せば、何かが変わるだろうか?


「……何か、御用ですか」

力が抜けた。
アリスには、自分が彼女に手をかけている場面が思い浮かばなかった。

30年以上生きてきたなかで、嫌いな人間ならいくらでもいた。
いなくなってしまえばいいとか、酷い目に合ってしまえばいいと本気で思ったこともある。
だが、やはり死は願えない。
それが自分だ。
いい悪いの問題ではなく、単なる感情の扱い方の違いではある。
けれど決定的だ。
改めて彼女の存在に突きつけられた異質点だ。

「火村さんと喧嘩してるの?」

語尾を舌ったらずに発音する、甘えた話し方に気分が悪くなる。
女性性を強調するような口調がいつしか嫌いになった。

「御用をおっしゃってもらえませんか」
「仲直りして?」

なぜ彼女にそんなことを言われなければならないのか、勝手に踏み入ってくるような内容に、落ち着けようとする胸のうちが再び苛立つ。
だが、微かな不気味さも感じた。
その口調や、押し付けがましくこちらの事情を斟酌しないやり方は、普通じゃない気がした。

「無理です。失礼します」

脇をすり抜けようとしたアリスの腕を、彼女が掴む。
細い指にぞっとして振り払った。

この指が火村に触れている。

「嫌よ、仲直りしてよ!」

彼女は怯まなかった。
もう一度アリスの腕に手を伸ばす。
避ける。
空をかいた手は拳に握られた。

「どうしてぇ? 火村さんは仲直りしたいのよ? どうしてアリスは嫌なの?」
「……佐倉、さん?」

唇を尖らせ、両足を踏ん張って立っている。
その姿は、とても30の女性には見えなかった。
最早、媚びや甘えのレベルではない。
その顔つきも仕草も、まるっきり子どもだ。

「真帆は火村さん好きだもん。だからアリスもね、ごめんねって言えば許してもらえるの。そしたら、火村さんも好きって言ってくれるの」
「ああ……」

アリスはあまりに哀れな彼女の姿に、震えた。
彼女は壊れてしまったのだ。

綺麗な人だからこそ、年相応の見た目と口調とのギャップに目を背けたくなる。
耐え切れなかった人だ。
きっと法律上の彼女の責任なんてゼロに近くて、裁かれるのは虐待と脅迫を繰り返していた男であり実際に手を下した妹だけれど、そんな事実なんて何の意味もない。

男は死んだ。
彼女の夢の通りに死んだ。
それでもなお生き残り自由に外を歩いているのは、手を下したのが彼女ではないからだ。
妹との違いはただそれだけだ。
手を下したか、下さなかったか。
リアルな殺人の欲求を実行したか、しなかったか。
言葉の上では些細で、けれど現実は打ちのめされるほど違う。

妹はこの先、裁判とおそらくは数年の服役刑が待っている。
佐倉真帆の妹であったばかりに。
ただそれだけが、鉄格子の内側にいる美妃と、そこを行く華やかなOLとの違いかもしれない。

「……佐倉さんは火村が好きなんやね……」
「うん」

彼女は真面目な顔で肯いた。

「アリスは?」
「え?」
「アリスは火村さんが好き?」

歯を食いしばって、泣くのを堪えた。
かろうじて笑った。

「ああ。好きや……」
「そうでしょ」

佐倉が笑った。
可愛い笑顔だった。

「火村さんが待ってるの。アリスのお仕事があるホテル。どこかわかんないけど、アリスは知ってる?」
「え、火村が? こっちに?」
「仲直りするんだって。お友達だから。頑張ってねって言ったら、頑張るよって」
「そう……」

アリスは、手を差し出した。
さっき振り払った彼女の手をとった。

「一緒に火村んとこ行こうか……」
「うん」

ホテルの前で、彼女に少し待つように言い聞かせた。
15分経ったら入っておいでと教えると、真剣な顔で時計を眺めていた。

「……佐倉さん」
「うん?」

じっと長針から顔を挙げないまま、上の空で返事をする。
可愛くて、笑った。
彼女は火村と性的には繋がっていないのかもしれないと思った。
自分とは逆なのだ。

「いつか戻っておいで。すぐじゃなくていい……じっと子どものままで強くなって、火村に大事にされて、そしてゆっくり追いつけばいい」
「大事?」
「そうや。あいつが君を育て直す。その時、君も、あいつも、何かを乗り越えるんやろう……」

その時、君は、夢から抜け出し新しい夜明けに目を覚ます。
愛する人の傍らで。
どこまでも誰よりも深くで繋がった人と。

「……ばいばい」
「ばいばーい」


だから火村。
どうか私を完全に切り捨ててくれますように。


いまだ彼に触れたがるアリスの手は、どうしても彼女を認めることが出来ない。
残念ながら、ふたりを見守る器量も無い。
火村の望む友人同士にはなれない。


ロビィを見渡すでもなく、すぐに彼を見つけた。
そういえば、とアリスは静かに呼吸を整えながら思い出した。
いつか、火村と上手な嘘について話したことがある。
真実を知られずにすむ最も良い方法は、真実を話すことだ。
要は、話の信憑性をどれだけ高められるかが問題なのだから、混ぜ込む嘘は少なければ少ないほどリスクが低い。

9割9分の真実に、1分の嘘。
愛しているなら愛していないふりはとても簡単だ。











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