7.
アリスの放った容赦ない言葉に打ちのめされ、絶句する火村の後ろから、
「有栖川君!」
という、あきらかに不機嫌な大声がかかった。
アリスはそちらを見てから、さっきまでの無表情が嘘のように、ぽかんと口を開けている。
反射的に振り向くと、すらりとした長身をスーツに包んだ男が立っていた。
やや痩せ型だが、筋肉はついている。
ゆるやかにウェーブした黒髪は、すっきりとディップで撫で上げられ、秀でた額から日本人とは思えないほど高い鼻梁までよく見えた。
「ど……どうしたんですか、なんの魔法にかかったんです?」
「これはこれは面白いことを言うね、作家ってのは時々そうやって自前の妄想をさも現実みたいに喋るんだ、全く! 朝っぱらから風呂に入れられ散髪されて変なものを塗られて、髭もそってこんな馬鹿みたいに窮屈な服を着せられてね、そういう困難を乗り越えたのはこの僕だ、僕自身だよ! 何が魔法なもんか、労せずして石岡君を納得させられた時のためにその言葉は取っておくんだね!」
電話の男だ、と火村は気づいた。
この演説調の独善的な物言いは、間違いない。
かなりの不機嫌をぶつけられたアリスは、くすくす笑っていた。
「あなたが行きたいって駄々をこねるからやないですか。誰も頼んでへんのですから、大人しくお部屋で待てばいらん苦労もせんですむ話やないです?」
「その通りだ、有栖川君。何もこんな人ごみにわざわざ不味いワインと安いつまみを食べにくる必要などどこにもない。だから大人しく部屋にいればいい話じゃないか」
「あのね、石岡さんもお仕事、僕もお仕事なんです」
「仕事なのになぜ石岡君は来てないんだ!」
「仕方あらへんでしょう、今朝になって風邪ひいたんですから。全く、それも僕は風邪だなんて信じてませんけどね。明らかに犯人は別にいます」
男は本気でアリスを睨んだ。
「君は……可愛くない。そのよく回る口がいけない。まるで掃除洗濯病にかかった時の石岡君みたいだ。あれは実に恐ろしいウイルスで、定期的に発症するんだ、そうすると僕の大事な本もレコードも書きかけの論文も一切合財が何時の間にかゴミとして分別されていたりするんだよ! 普段はしどろもどろでちっとも流暢な喋り方じゃないくせに、そういう時は物凄い勢いで僕を追い立て理論でねじ伏せるんだ! ああ! なんて恐ろしい! そしてなんで僕はここにいるんだ!」
「無理矢理に出席すると言い張った上、風邪にも掃除洗濯病にもかからず健康だからです。つまり約束というやつです。行きましょうか」
「ああ……。ん? お友達は良いのかい?」
ようやく一息ついたらしい男は、声のトーンを落として火村をちらりと見た。
自分の存在に気づいていただけでも驚異だ、と思う。
アリスはにっこり笑った。
「たった今、友人でさえなくなったところです」
「アリス!」
「生憎と、駄目押しまであったからにはもう、馬鹿にされているとしか思えへん」
ゆっくりと流したアリスの視線の先をたどる。
ホテルの入り口近くの柱の横に、泣きそうな顔の佐倉が立っていた。
男と並んで去っていくアリスと入れ替わるように、彼女が走り寄ってくる。
「どうして? 仲直りできなかったの?」
「……なぜ、ここに」
かろうじてそう聞いた火村の声が、彼女を歓迎するものではないと気づいたのだろう、唇を噛んで俯いた。
「あの人、嘘つきよ」
「なぜここにいるんだ」
「さっきお願いしたのよ、火村さんと仲直りしてあげてくださいって。なのにまだ喧嘩してるなんて、酷い」
ロビィに火村を見つけても驚かなかったアリスは、先に佐倉に会っていたのだ。
なんてことだ、と奥歯を噛み締める。
これではまるで、二人で出かけてきた火村が彼女のことを隠していたようではないか。
佐倉を責めそうになる自分を抑え、いい訳じみた視線でアリスの背中を追う。
式典の開始時間が迫ったロビィ内は、程よい空調がかかっているにも関わらず、混雑で熱気を発していた。
その人ごみの中で、すっきりした立ち姿のアリスと隣の男は、ぬきんでた身長とその涼やかな雰囲気で際立っている。
アリスは老人の挨拶をそつない笑顔で受けたが、男は見るからにとっつきにくそうな無愛想な表情を浮かべたままだ。
それをフォローするでもなく、自分の役割をこなすように人ごみごと会場へ続くエスカレータに向かうアリスは、その途中、振り返って火村を見た。
まだ彼を見つめていることを知っていたかのように、探すこともなく目を合わせる。
そして彼は笑った。
今までの無表情も冷笑も全て取り去って、見慣れた鮮やかな笑顔を見せた。
火村は息を飲んだ。
一瞬で消えてしまったその優しさを追って、去っていく背中から目が離せない。
アリスの横で騎士のように周囲に目配りをする男の手が、その背中に触れた。
二人でタイミングを合わせエスカレータに乗る。
顔を見合わせ、何かを話している。
男の手は、ずっとアリスに触れている。
彼らが視界から消えた瞬間、胸が痛んだ。
今すぐ追いかけて連れ戻したいと思った。
けれどアリスはそれを望んでいない。
もしかしたらもう二度と会えないかもしれないのでは、と、睨むより泣くより、嘲笑より冷笑より、いつも通りの笑顔を向けられたことで、その可能性を思いついた。
狼狽する。
足を踏み出しかけてなんとかとどまった耳に、不意に尊大な声が蘇った。
『そいつは愛だ!』
その言葉がストンと胸に収まる。
たった今、自分は遅すぎる恋に落ちた。
よりにもよって最後のさよならの笑顔に愛情を根こそぎ浚われた。
「火村さん……怒ってるの?」
いつのまにか閉じていた目を開けると、佐倉の不安げな眼差しにぶつかった。
「……いえ」
静かに言うと、彼女は安心したように強張った頬を緩めた。
「帰りましょう」
「うん」
失ったものの大きさに見合う何かを彼女の無邪気な笑顔に求める。
根拠もなくまたアリスを傍に置けると思っていた自分に唾を吐く。
彼の言う通りだ。
彼は火村が望めば望んだように振舞うだろうと思っていた。
離れがたくて引き寄せ、わずらわしくなって遠ざけ、その上でまた自分勝手な寂しさで迎えに来たり。
愛想を尽かされるのも当然だ。
電話の男との関係も、どこにいるかも分からないまま、今度は自分が突き放されてすごすごと帰るしかないのも当然だ。
けれど、だったら、せめて。
愛なんて覚える前に全て終わっていれば良かった。
*
「今思い出したんだけどね」
懇親会へと突入した授賞式の会場は、あちこちで交わされていた名刺交換も一段楽し、親しい人間同士で会話を楽しむ時間帯になっている。
御手洗の名前を聞いて押し寄せてくる人々に辟易し、どこかに消えていた彼が何時の間にかアリスの横に戻ってきた。
不機嫌と無愛想まるだしのせいか、どうやら周囲も放っておいてくれることにしたらしい。
「君の友達、一度うちに電話をかけてきたよ」
「え? 火村がですか? ……そっか、部屋に入ったんやな」
思えば、アリスが大阪にいないことも、部屋を訪れていなければ気づかない。
警察の捜査に慣れた火村には、電話の着信を確認するくらい基本中の基本だろう。
電話の内容を聞き、アリスはさすがに呆れた。
少しは御手洗という男の奇抜さにも耐性がついてきたと思っていたが、どうやらまだ序の口らしい。
改めて、石岡の凄さにため息をついた。
「隣にいた女性は、何かの病気かな?」
吐き出した息をそのまま鋭く吸い込んだ。
目を見張るアリスに、御手洗はフンと鼻を鳴らす。
「人間はね、年齢相応の表情というのがあるんだ。若干の差はあるけれども、彼女の場合は違うね。発達障害レベルの遅滞を思わせる顔だったじゃないか」
アリスは薄く開いていた口を慌てて閉めた。
そして、
「御手洗さん……帰りましょうか」
「いいのかい! じゃあ帰ろう、今すぐ帰ろうじゃないか!」
「あ、ちょっと、挨拶してくるから、ちょっと御手洗さん!」
顔を輝かせ、アリスを引きずらんばかりの勢いで出口に向かおうとするのを必死で押しとどめて、主催者サイドになんとか先に帰る旨を伝えた。
残念がられたが、
「でも有栖川先生、今日最初から顔色があまりよろしくなかったですものね」
と言われてしまった。
隠していたつもりの不調に気づかれていたことが、少し情けなかった。
当てもなく、ただ関西の地を離れたくて東京にやって来たアリスは、最初の頃ずっとホテル暮らしをしていた。
なんとなく思いつきで連絡をとった石岡は、夕飯でもというアリスの誘いに喜んで応えてくれたが、顔を合わせた途端に、どうしたのかと聞いてきた。
それほど自分の見た目が疲弊していたのかとアリスは驚いた。
なんでもないと言ったが当然通用するはずもなく、そして予想外に頑固な石岡の粘り強さに負けてしまった。
家出してきちゃいました、と笑いながら言ったアリスをじっと見ていた彼は、しばらく黙った後、きっぱりとうちに来るようにと宣言したのだ。
遠慮とも拒否ともつかない気持ちで首を振ったのだが、本当に、見た目に似合わない強引さで彼の部屋に引き取られてしまった。
言いたくないなら何も聞かないよ、と石岡は言った。
御手洗の部屋を与えられ、ひたすらこもった。
一ヶ月もした頃に、これだけはと大阪から抱えてきたノートPCをようやく開くことが出来た。
後は、起きている時間のほとんどが書くことに費やされている。
同じ作家だからなのか、はたまた御手洗の気紛れに慣れてしまっているからか、石岡は実に上手にタイミングを見計らって食事をとらせる以外、本当に放っておいてくれた。
信じられないくらい失礼な居候なのに、彼はひたすらに優しかった。
取り付かれたようにキィを叩きつづけるアリスには、石岡だけが唯一の存在のように思えた。
その石岡にも予想外だったのが、御手洗の突然の帰国だった。
アリスはすぐに出て行こうとしたのだが、これまた驚くことに、御手洗の不機嫌をものともせずにそれを引き止めたのが石岡だ。
著作の中では振り回されてばかりの気弱な助手のようだが、どうしてどうして、普段のにこにこした顔がきりりと引き締められるときの彼には誰もかなわない。
結局、なし崩しにアリスは御手洗の部屋を使いつづけている。
御手洗さんはどうするんですか、と聞いた時だけ、あんなに強気だった石岡の頬がぱあっと染まった。
それでようやく、御手洗の不機嫌の理由にも思い当たったのだ。
この探偵の思わぬ独占欲にも、意外な思いをさせられている。
今日のことも、普段は全く出ないパーティに出るという石岡に散々拗ねてみせた挙句、自分も行くと言い出したのだ。
主催者としては、あの御手洗の出席が喜ばしくないはずがない。
二つ返事でオーケーだったのだが、当日になって肝心の石岡が体調不良を訴えた。
我慢強い人が口にするくらいなのだ、相当だったに違いない。
もちろん、風邪だなんてアリスは信じていない。
人付き合いの苦手な石岡は、おそらくは欠席できないアリスのことが心配で、付き添いのつもりで出席することにしたのだろうということも気づいている。
御手洗はそれが面白くなくて、我侭を言った挙句、無理を強いたに決まっている。
おかげで石岡を置いて一人だけ出席するという、本末転倒なはめになったのも、自業自得だろう。
世紀の探偵も、恋人相手ではマトモな理論など通用しないのかもしれない。
マンションに戻ると、こちらは顔色のよくなった石岡が出迎えてくれた。
順にシャワーを使い、パジャマに着替えてリビングに戻ると、温かい紅茶が待っていた。
「聞いてもらってええですか」
何も事情を聞かないままずっと居候をさせてくれているお人よしの石岡が、こくこくと首を振っている。
何から話せばいいだろうか。
迷っていると、石岡がそっと声をかけてくれた。
「えっと、聞いたことがあるんだよね、僕も御手洗にくっついて実際の現場に立ち会うんだけれど、同じように、有栖川さんも実際事件に関わってるらしいって。編集者さんが教えてくれたんだ。でも探偵じゃないんだよね、その人……えっと……」
アリスは石岡の懸命さに、ようやく笑みが浮かんだ。
「はい。英都の助教授です。名前は火村といいます」
なのに涙もこぼれそうだった。
「火村英生。臨床犯罪学者です」
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ようやくここまで来ました、という気分。
「実はずっと好きだった」ではなく、「好きになった瞬間」を書きたかったのです。