6.






アリスの不在に気づいてから、火村は佐倉を訪ねるたびに必ず彼の部屋にも寄るようになった。
思い切ってかけてみたケータイは、いつも電源が切られている。
部屋中を掃除し、そうしながらどこへ行ったのかと手がかりを捜し求めたが、それらしきものは得られなかった。

彼が自分の知らないところで事故にでも遭ったのでは、という心配は、ネットで配信されている作家有栖川有栖の情報サイトのおかげで払拭された。
一月前の講演の様子がレポートされていたからだ。

さらにそのサイトによれば、来週、アリスが選考委員を務めたミステリ大賞の受賞記念式典があるらしい。
会えるとすればそこだろう。
佐倉も、アリスの行方を気にしている。
火村が不安定になっていることを敏感に感じ取るのかもしれない。
式典が行われるホテルに行ってみると言うと、離れることに動揺したようではあったが、気丈に、会えるといいわね、と笑っていた。



勝手に買い込んできたコーヒーをいれ、ソファに座る。
開け放した寝室のドアから、ベッドが見えた。
あそこでアリスと寝ていた頃に戻りたいとは思わない。
どちらも報われない時間は、二度とごめんだった。
だが、アリスの現状が把握できない事態は、予想以上に耐え難い。

これは恋情ではない。
自分の内側を覗き見ること、分析することに慣れた火村には、はっきりと解る。
ただの友情というには行き過ぎた苛立ちは、おそらく肉親のものに近いだろう。
あまり親子関係のよくなかった火村にとって、初めて出来た家族のようなものだ。
単純に心配だった。
いまどこにいるのか、ちゃんと健康でいるのか、泣いていないか、つらい思いをしていないか。
最近思い浮かべるアリスはいつも泣いている。



テーブルからカップを取り上げようとした時、電話が鳴った。

思いもかけないことに、驚いた。
アリスの部屋の電話だ。
留守電がセットされていることには気づいていたが、ランプが点滅していることがなかったので気にもしていなかった。
仕事関係者には、不在を告げてあるに違いないのだが、だとしたら滅多に連絡をとらない友人か誰かだろう。
行方を知っているかどうかについては望み薄だが、咄嗟に電話に出るつもりで立ち上がる。
だが、受話器を取り上げるより先に、メロディがぴたりと止んだ。
そして、テープが巻き戻されるような音。
外から留守電をチェックしているのだと気づいた時には、ゼロ件のアナウンスを聞いたのだろう、通話は切れてしまっていた。
すぐに、着信履歴を表示させる。
関東方面の市外局番だ。
少し迷ったが、先にアリスの書斎でPCを立ち上げ、ネットで検索した。
神奈川県、横浜近辺というところまで絞り込むことが出来た。
年賀状ソフトを立ち上げて、住所録を開く。

「……クソっ」

首都圏への通勤エリアなせいか、該当者が予想以上に多い。


火村は焦りを感じていた。
四日後のパーティまでどこにいるとも知れない状態が続くと思っていた矢先に、目の前でアリスに繋がる回線が開いていたのだ。
受話器をとれば、その向こうに彼がいた。
寸前ですり抜けてしまったような感覚は、奇妙な焦燥感を生む。
椅子から立ち上がり、ケータイを取り出す。
深呼吸をして、先ほどの番号を打ち込んだ。
意味もなく舌打ちをしながら、通話ボタンを押して耳に押し当てる。
呼び出し音が続き、誰も出ないかもしれないと諦めかけた頃、受話器の上がる音がした。

『はい、もしもし!』

快活な男の声は、聞き覚えのないものだ。

「もしもし。こちら、京都に住んでおります火村と申します。私の友人がそちらにいると思うのですが」

自分でも曖昧で失礼な問いかけと分かっていたが、心当たりがあればすぐに意味が通じるだろうとは思った。
相手はしばし沈黙し、それから、妙な唸り声を上げた。

『え? 今なにか言ったかい? 友人? なるほど、そいつはとても大事なものだよ君! 僕には友人などいないからね、君の言うのが僕でないことは確かだ。そうすると必然的に君はあのボンクラ作家の友人というわけだ! いいかい、甘いことを言うばかりが友情じゃない、君がもし本当に彼を大切に思うなら厳しい忠告も時に必要なんだということを覚えておきたまえ。信じられないよ、僕はたった今帰ってきたんだ、この湿度と気温に耐えてまで帰ってきたっていうのに、彼ときたらどこにもいやしない! 出かけたんだよ、どこに行ったのか知らないけど、お人よしの癖にやっかいごとに巻き込まれるのが大好きなタチだ、きっと今ごろどっかで泣きべそかいているに違いないよ、いや、そうだったらいいのに! 彼ときたら僕がどれだけ彼のために力を尽くしているか、全然知りやしないのさ、考えたこともないんだよ。まあそういう風にしてしまったのは僕だけれどもね、うん、だからこそ責任を感じて色々考えたんじゃないか、そうだろう? ああもう、仕方がないね、彼はそういうところがある、それはもう人格の革命と言っていいんだ。前はああじゃなかったのにね、彼を変えてしまったのは僕だ。そして僕にはその責任を取る心積もりがあるよ。いや、そうしたいんだろうね。理由かい? 簡単なことさ。君も知っておきたまえ、そいつは愛だ! 脳研究に携わる僕がそんなことを言うなんて、おかしいと思うだろうが、こいつはごくごく個人的なことだからね、全く、僕が個人であるという考え自体、彼に影響されている証拠だよ。ああ! 大変だ、愛すべき人は暑さに弱いんだ、冷たい紅茶を用意しておかないとね、あんな窓のない部屋で人が死んだのなんだのって話を書いてばっかりだから不健康なのさ!』

がちゃん、と唐突に、そして乱暴に電話が切れた。
ものの一分半足らずでまくしたてられた話には付け入る隙がなく、情報はひとつも得られていないに等しい。
すぐさま立ち直ってもう一度コールしたが、今度はどんなに鳴らしても誰も出なかった。
冷たい紅茶とやらを淹れているのだろう。
火村は自分が熱くなっているのを感じ、息をついてクールダウンを意識した。

まず、アリスは彼と一緒に暮らしているらしい。
しかも、昔からの知り合いのようだ。
関東のアクセントだが、言葉の端々に英語鈍りがあった。
海外に頻繁に行っていて関東でたまにしか会わないとしたら、火村の知らない人間であることもおかしくない。
当人は作家ではなく、研究者らしいが、なるほど、学者にありがちの強引で世間ズレした会話だった。
アリスを散々に罵倒していたが、最終的にはそれも愛ゆえということになるらしい。

アリスが小説を書くにあたって、何かつらいきっかけがあったらしいことは火村も気づいていた。
尋常でないほど書くことに打ち込むアリスに対し、そのきっかけを尋ねるのはごく自然な流れだったが、彼はその答えを曖昧にはぐらかした。
目を逸らし、誤魔化すように、覚えていないと言った。
それを無理に聞きだすような真似をするはずもなく、火村はただ、アリスの人生のほとんどを占める小説というものの最初が、彼にとって忘れられないものなのだろうと察するばかりだ。

彼を変えてしまったのは僕だ、と電話の向こうの男は言った。
それが、アリスの隠しているものなのだろうか。
ずっと先に出会い、影響を受け、全てが変わってしまうような相手というのが彼なのだろうか。
そして火村との別れに傷ついたアリスは、彼を頼った。
一言も言わないまま勝手にマンションを出て、居場所も知らせず。

なぜアリスに会おうとしているのだろう、と火村は自分の行動を改めて不思議に思う。
友人でありたいからだ。
それだけのことが、なぜかこんなにも難しい。













受賞式当日、火村はホテルのロビーに座っていた。
開始時刻より大分早くから来ている。
会場に入れるわけもなく、アリスを捕まえるとしたらその前しかない。

そうして待つこと2時間で、彼は現れた。
遠目でもすぐにお互いを見つける。
火村は動かなかった。
だが、逃げればすぐに追いかけることを、逸らさない目線で伝える。
アリスは、小さくため息をつくと、途中で顔見知りらしい老人と挨拶をしてから、火村の前に立った。

何も変わっていないように見える。
だが、スーツは見覚えの無いものだったし、彼の目線は冷ややかだった。
これまでこんな表情を向けられたことはなかったな、と、どこか他人事のように思った。

「座れよ」

火村が言うと、彼は口の端を吊り上げた。
そうすると酷く皮肉っぽい顔になるので、驚く。
彼は何も言わずに火村の向かいに腰を降ろした。

「今、どこにいるんだ」
「君の知らないところ」

数ヶ月ぶりのアリスの声は、そっけないものだった。
ようやく、自分の認識が少し甘すぎたなと気づく。
思った以上に、彼は火村に対して許し難いという気持ちを抱いているようだ。

「アリス。こんなふうに何も言わずにいなくなるのはやめろ」

彼は、ゆったりとソファに深くもたれ、片肘をついたまま何も言わない。
ただ何を考えているのか分からない顔をして火村を眺めている。
そう、まるで物を見るように、ただ視線をあてている。

「聞いてるのか? 確かに電話には出たくないかもしれないが、俺はお前との関係を一切絶つようなつもりなんかない」
「へえ。君は寝たことのある相手とも、友達づきあいが出来るんやね」
「皮肉はよせ。俺にとってお前は他の人間とは違う」

アリスは微笑した。

「佐倉さんは元気?」
「……ああ」
「彼女も、君にとって他の人間と違う人や。どんだけ違うかっていうと、俺を切り捨てて彼女を選ぶくらいに違う。そうやろ?」

自虐的とも、恨みがましいとも言えるような言葉を聞いて、火村はとても驚いた。
彼がそんな言い方をするとは思っていなかったし、それは例え心の中で思っていても口には出さないプライドを持っている人だと感じていたからだ。
事実、彼は火村とベッドをともにした3年の間、不安がっているくせにそれを表に出そうとはしなかった。
大人として、男として、それが最低の自尊心を守る態度だったのだろう。

「切り捨てた……訳じゃない。ただ今までのような付き合いはできないと……」
「ベッドでの相手はしてやれへんて?」
「アリス」

下品な表現を咎めるように呼んだが、彼はますます冷えた笑いを浮かべ、そして言った。

「君は、自分が俺に命令していることに気づいてるか?」
「……なに?」
「座れ、やめろ、あれをするな、これをするな。一体、何様や?」
「俺の物の言い方が丁寧でないことは、もうとっくに知ってることだろう」
「やれやれ、無意識か。君はすっかり、俺をコントロール出来る立場に収まってしまったらしい」
「持って回った言い方はやめろ。言いたいことがあればありのままを言え!」

皮肉っぽい口調に苛立ち、思わずきつい言い方になる。
そうしてから、またそれが命令じみていることに気づき奥歯を噛んだ。
アリスは、組んだ膝にぽんと手のひらを置き、厭味な笑顔を消した。
そして静かに、

「そうやな、ほな言おうか。俺は結構前から、君が段々と俺を思い通りに動かそうとする傾向には気づいとった。けど、それで構わないとも思っていた。最初のドミノを倒したのは俺やし、突き詰めればいずれ終わるもんやと分かってたからな。黙れ、聞け」

口を出そうとした火村に、アリスからストップがかかった。

「俺は今、お前の事情なんぞ斟酌しとらん。そう……お前の気持ちなんか、二の次やねん。ずっと申し訳なく思いつつも抱いて貰ってた時みたいにな。……黙れったら」

苛立つでもなく、手のひらで火村を抑えるような仕草をする。
むしろその穏やかさが、癇に障る。

「な……? こうして俺が君の意のままにならんと気にいらんのと違うか。君は色々と上手くやってくれた。こうなる以外に良い道なんてなかった。それもこれも、俺らが友達やった時期が確かにあるからや。君は俺の気持ちを実によう分かってくれる。好きの言葉の大きさも、どれだけ本気だったかも。その上……」

とんとん、と膝の上の手が指先を弾ませる。

「君から約束をキャンセルされることや、女性との会話や、俺の知らない旅行にいちいち不安になってたことも、当然知っていた。不安になる権利もないとひたすら俺が気にしないふりをすること、していることもな」
「それは……!」
「もちろん構わない、俺はそれでも君から離れたくなかったし、寂しさに耐えることさえ次に会うときの喜びに変えることすら出来た。そして信じてもらえるか分からへんけど、佐倉さんとのことは、君のために必要でしかもとても良いことやと思う。まあ……君が花の香りをさせながら来るんは、俺からもうやめるって言い出して欲しかったんやろうって、分かってて言わんかったけど」

アリスは笑いも怒りもせず、話の内容に全く興味がないかのように淡々と話した。
ぶちまけられる本音と、その表情のギャップが、火村を落ち着き無い気分にさせる。
佐倉の香水の匂いのことは、決してそんなつもりはなかったのだ。
ただ、アリスの言う通り、彼がきっと何も言わないだろうということは思っていた。
不安をフォローしてやらなかったのも、アリスは分かっていて耐えるだろうと予測していたからだ。

「それで?」

とアリスは言った。
ソファの肘に頬杖をつき、斜めに火村を見ている。

「それで君は、今日ここに何しに来た? 大失恋の痛手から立ち直ろうとしている俺のところに、わざわざ」
「そんなことは……」
「分かりきってる? そうやろうか。もし君がちゃんと俺のことを考えてるんなら、絶対に来たりするはずがないよ。しかも……」

アリスは言葉を止めて黙った。
火村は自分の右足が細かく動いていることに気づき、舌打ちした。
落ち着かないし、気分が良くない。
歓迎されるとは思っていなかったが、全く予想できなかった展開でもある。

「しかもなんだ。考えたから来たんだろう。何度も言うが、俺はお前を大事に思ってるし、」
「おいおい、本気か、君は」
「何がだよ!」
「知らんのやろうね」
「だからはっきり言え」
「君は知らんのや。愛する人が、自分以外に触れていると想像する痛みを。自分じゃない誰かを抱きしめていると思う時間の孤独さを」

アリスはすっと立ち上がり、火村は息を飲んで何も言えなくなった。
その声の低さが、平坦さが、異常なほど感情を落としているがゆえの、その底にある絶望の深さを感じたのだ。
彼の声は、聞こえないくらいのボリュームになった。

「責めているんやない。君は俺に巻き込まれた被害者や。けど、そうした全てに耐えられたのはひとえに愛情ゆえやった言うことは覚えておいて欲しい」
「アリス、俺は……」
「そしてその上で、聞かせて欲しい。まさかとは思うが、君は俺が迎えに来てくれることを望んでいたとでも考えているんやろうか?」

火村はようやく、自分の落ち着きの無い苛立ちの正体に気づく。
アリスの表情や声から、何を考えているかが読み取れないのだ。
どんなに取り繕っても手にとるように分かると思っていた彼の気持ちが、なにひとつとして分からない。

彼は真っ直ぐに火村を見下ろしていた。
そして、僅かに屈むような姿勢で囁いた。

「もしかして、俺がまだ君を愛しているとでも思っているんか?」












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二人目のゲストです。
名前出てないですけど(笑)
こういうの嫌いな方、すいません。
後半突入です。



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