5.





アリスが好意を打ち明けてくれた時、火村はあまりに意外なことで酷く驚いた。
全く予想もしていなかったし、ちらともそんなそぶりを見せられたこともなかったからだ。
彼が友人として得難い人物だということは、学生時代からとっくに解っていたことだ。
だから、その告白を機に、アリスが自分と疎遠になることも覚悟していると気づいた時には、呆れもした。
だがその直後、絶対に取り戻せない長年の時間の積み重ねを捨ててさえ、打ち明けずにいられなかったのだと思えば、深い感動を覚えたのだ。

彼は、専業作家になって以降、女性との付き合いがなかった。
そしてこちらに決して踏み込みすぎず、長く付き合うことを前提とした心地良い距離を保っていてくれた。
そういうことも、全て自分のためであったという事実は、めったに動かない情が揺さぶられるに十分な価値を持っていた。
同性と言う概念が強く出て、乱暴なキスをしてしまった。
初めてのその接触で、サイは投げられたのだ。

正直なところ、男の友人相手に反応するかどうか不安だったし、全く萎えたままであればそれは彼を傷つけるだろうと心配した。
杞憂であったことが、果たして良かったのか悪かったのか。
恐ろしいほど急速に馴染んでいった身体は、関係の変化に気づいてはいてもやめられないほどには相性が良かった。

常に遠慮しがちなアリスは、そのうち割り切ってくれるだろうと思っていたが、自分が仕掛けてしまったという罪悪感は随分と深かったようだ。
どんなに優しくしても、どんなに夢中で抱いても、彼は必ず申し訳なさそうな色を浮かべる。
次第にそれに苛立つようになった。

彼を愛していないことを、彼は知っていたはずだ。
それでいながら身体を求め、それに応えたら応えたで悩んでいる。
だったらどうすれば良かったのだろう。
断れば、とっくに疎遠になっていた。
それを望んでなどいなかったくせに、それでもいいと彼は思っていたのだ。
引き止めたのは自分で、出来得る限りのことをしてやってもいる。
アリスさえ、愛情はなくとも越境した友情を持つ火村の行動に満足してくれれば良かった。
それで全てが上手く流れた。
なぜなら、火村にとって他のパートナーなどは出現する可能性のないもので、つまり現在も未来も、最も大切な相手はアリス以外にないからだ。


佐倉の存在は、もしもアリスと学生の頃からのまま静かな友人同士であったなら、せいぜいいくらか話を聞きたいと思う程度であっただろう。
だが、日に日にどこか卑屈な目をするようになったアリスといるのは、疲れた。
それでいながら、そういう内心を必死で隠そうとする彼に苛立った。
どうせやるならもっと上手くやれ。
そう思った。
だが、たかがタヌキ寝入りすら上手く出来ない彼に、それは無理な相談だ。
他の誰かならいざ知らず、アリスは火村に嘘がつけない。
自分を隠せない。
彼の防衛が崩れているからでもあるし、火村自身がアリスとの付き合いからその感情を読み取ることに慣れているからでもある。









時計を見ると、朝の9時だった。
眠っている佐倉が穏やかな寝息を立てているのを確かめてから、リビングに放り出してあったスーツを探ってケータイを出した。
6回目のコールで、繋がる。

『はい』
「アリス?」
『うーん』
「お前、寝起きだな」

鼻にかかったような声と、スローペースな言葉の運びは、ついさっきまで寝ていたことがすぐに解る。

『起こされたもので』
「アリス」
『うん』

改まった調子で名前を呼んだが、彼はまだ寝ぼけているのか、ごく普通に返事をした。
寝ているだろうとは思っていた。
こんな時を狙った自分は、卑怯だ。

「昨夜悪かったな。……誕生日だったのに」
『ええよ。今更』
「なあ」
『うん』
「これからきっとそんなことが何回もある。お前の気持ちは俺にとって嬉しいことだが、もう見合うだけの何かを返していけない」

一気に言い切った。
泣くことの予想はついたから、電話で切り出そうと決めていた。
彼の泣き顔は、二度と見たくない。
ひきずられてしまいそうなほど、一度だけ見たそれは痛々しいものだった。

『解った』

とアリスは言った。
淡々とした調子は彼らしくなく、だからこそ、作り物めいている。
昨日連絡をしなかったことで、こうなることは解っていたのだろう。
電話を切った後、彼は泣くだろうか。
きっとそうだろう。
一人で泣かせてしまうことを思うと、火村の胸も塞がれる思いだ。
行って抱きしめて慰めてやりたい。
けれど、もう、終わったのだ。

『話はそれだけ?』
「ああ」
『じゃあ』
「また電話する」

友人としてはなくしたくないというつもりで言ったが、アリスの返事は、

『その電話には出られへんと思う』

というものだった。
断られるとは思っていなかった火村が黙り込んだ間に、通話は切れた。
数秒息を止め、吐き出す。

仕方のないことだ、と思った。
火村も疲れていた。
少しばかり、アリスと離れることにほっとしているのも事実だった。





それから三ヶ月、火村はアリスとまったく連絡をとらなかった。
彼の新刊が発売されたり、短いエッセイが雑誌に載ったりしていることで、仕事はしているんだろうとだけ思った。
身体を合わせる前は、この程度の期間会わないことは当たり前だったが、声も聞かないというのは本当に久しぶりのことだ。
アリスが就職し、決算だなんだと定期的に殺人的な忙しさを乗り越えるために電話もなしでいた頃があったが、それ以来かもしれない。

寂しさはいくらか感じていたものの、やはり生活は安定した。
元々他人に気を使うのは苦手なタチだ。
気楽さは何より火村をほっとさせる。

だが、アリスの家に置きっぱなしの荷物のなかの資料で、どうしても必要なものが出てきてしまった。
送ってくれるようにメールをするのが最も正しい行動だろう。
だが、それではいかにもそっけない。
ようやくお互いのいない生活に慣れ、落ち着いた頃にメールだけ送るのは、彼を動揺させることにはならないだろうか。
迷ううちに資料の必要はぎりぎりに迫った。

会いに行こう、と火村は思った。
電話には出られないという彼だが、会いに行けばきっと断らない。
もし少し整理がついているようなら、食事にでも出よう。
部屋の中にふたりきりになるのはまだ早いが、外出ならば問題ないはずだ。

行動を起こさなければならない。

数ヶ月で気づかされたが、火村にとってアリスはやはりどうしても必要な友人だった。
愛していないからなんだというのだろう。
頼んでみてもいい。
可能なら再び友人としての関係を築いていって欲しいと、頭を下げてもいいのだ。
昔のままでなどとは望まない。
また新しくやり直せばいい。
無理だとアリスは泣くかもしれない。
駄目なことは承知で、何度でも説得をする。
その決意を胸に、火村は大阪に向かった。



アリスのマンションに到着し、すぐに訝しく思った。
車はあるのに、部屋の明かりがついていない。
いくらなんでも、夜の8時に寝ているということはないだろう。
7階にあがってチャイムを鳴らしたが、やはり応答はない。
出かけているのだ、と判明し、火村は安堵とも落胆ともつかないため息をこぼした。

少し考えて、ポケットからキィケースを取り出す。
まだ返していないスペアキィは、いつか友人に戻るための願いかもしれなかった。
どちらにしろ、資料がいる。
火村は言い訳めいたそんな呟きとともに、鍵を開けた。
幸いにして、付け替えるようなことはしていないらしい。

帰ってきた時に自分が中で待っていたら、アリスは驚くだろうか、と火村は考えた。
彼のことだ、無理矢理にでも笑って、ただいまと言うかもしれない。
ほんの想像なのに、そのアリスの顔も声も、火村を締め付ける。
それなのに、どこかでその健気な笑顔を見たいとも思っている。

彼に愛されているという事実は、いつもどこかで火村をほっとさせた。
孤独を感じざるを得ない生き方の中で、嘘のつけないアリスの愛情は、ひとつきりの確かさで永遠を約束している。
受け入れてやれないくせに、失わないために半端な関係にサインをしたのだ。
だからアリスはあんなにも、罪悪感に満ちた顔をしなくて良かった。

「あがるぞ、アリス」

いない人に呟き、靴を脱ぐ。
リビングに入り、手に馴染んだ場所にすぐにスイッチを探し当てた。
瞬いた蛍光灯が照らした部屋は、何かぼんやりとくすんで見える。

ため息をこらえ、置きっぱなしの荷物がある仕事部屋へと入った。
いつもの場所にあったそのバッグを漁ったが、資料は無い。
ふと、すぐ横に大きめの紙袋があるのを見つけた。
覗いてみると、目当ての本の背表紙がある。
手を突っ込んで取り出し、それが探していたものだと確認してから、もう一度袋の中を覗いた。
火村の荷物だった。
忘れていったネクタイや、ペンやメモ、なんでもないキィホルダ、貸しっぱなしだった本、パジャマ代わりのTシャツ、気紛れで買った小さな地球儀。
全部持って帰れるように、ひとまとめにされている。

これが無くなれば、ふたりを繋げるものが何もなくなるとでも思ったのだろうか。
そんな簡単なものか、と、理不尽さを解っていながら苛立つ。
アリスの精一杯の対処だったのだろうとは思うが、その程度で整理できるような関係なら、火村とてこんなにもあれこれ考えたりしない。

立ち上がり、湧き上がってくる怒りを押さえ込んでいた時、違和感に気づいた。
何だ、と思いながら、ゆっくりと仕事部屋を見渡す。
ぎっしりと詰まった本棚から何かなくなっているのだろうか。

「あ」

カレンダーだ。
壁のカレンダーがなかった。
普通のメモ書き用のものなら、電話の横にかけてあるのだが、アリスが何より頻繁に見ていたはずの予定を全て書き込んだほうがなくなっている。
全ての締め切り、打ち合わせや会合の予定、資料のあてや取材先まで何もかもが書いてある、言わば作家有栖川の生活そのものとも言えるカレンダーだ。
それがないと気づくと同時に、はっと開けっ放しのドアからリビングを見る。

点々と、火村の足跡が見えた。
もう一度仕事部屋を眺める。
ぼんやりくすんで見えたのは、体調のせいでも精神的なものでもない。
埃が積もっている。
部屋全体が、まるで何ヶ月も放って置かれたように埃にまみれているのだ。

床の上の自分の足跡をたどり、リビングに戻ると、身体が震えた。
真夏の蒸し暑さとも違う、こもった空気をようやく感じる。
ここは家主の長の不在に黙る、無人の部屋だ。











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アリシスト様は存分に火村を罵ると良いでしょう。
ヒムラー様は怒りを抑えて優しく私を見守ってくれたら良いのだと思うの。思いたいの。



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