4.
火村が佐倉になみなみならない興味を抱いたのは、当然だろうとアリスは思う。
彼女の話を聞きながら、彼の目は一度も他へ逸れることがなかった。
じっと見つめる顔は、頬が強張った厳しいものだったが、その彼を見ていたアリスには、たびたび表情が変わるのが分かった。
話が進むにつれて、苦しそうに眉を寄せたのは、自らの体験と重ねたものだろう。
火村の悲鳴を聞く夜には、きっともっと酷い顔をしているのだろうと思う。
寝たふりをしているアリスには見えないものだ。
そして彼女の話が終わる頃には、今までにない表情が浮かんでいた。
全てに共感し、理解した者の、慰めるような優しい顔だった。
それを見た瞬間に、アリスは火村が半身を見つけたのだと知った。
彼らは誰よりもお互いを解ることが出来る。
絶対的な共通体験を持ち、想像の領域ではない、はっきりとした理解に至る。
それは心情であり、感情であり、手ごたえだ。
血に濡れた両手を必死で洗う、水の冷たさだ。
火村は長年の悪夢を研究の動機付けに変えた。
いまだ飛び起き苦しみながらも、殺意を乗り越えて少しずつ過去を消化している。
言わば佐倉の先達となる。
彼女がこれからの眠れぬ夜を耐え抜くのに、火村ほどそれを助けてやれる人間はいない。
先を示し、励まし、手を取ってやれるのは火村だけだ。
そして彼はそれを知っている。
自分だけが彼女を救ってやれるのだと知っている。
妹は、姉が全てを話したと聞いてから、ようやく自供を始めたそうだ。
状況証拠も物的証拠も特に問題はなく、このまま起訴されるだろう。
姉のため、という意識はなかったと彼女は言う。
夢の通りに殺したのも、特に考えてやったことではないらしい。
自分の復讐を果たしたのだと、殺害動機を語った。
明確な殺意があったとはっきり口にしているのだ。
だが、情状酌量は認められるだろうと火村は言う。
それらの後日談めいた事情を、アリスは彼から聞いた。
事件の解決以降はほとんど同行しないため、今までもそうしてきたことではある。
ただ、それはほとんどいつもまとめて後から聞いたり、電話で何かのついでに教えられることが多かった。
今回は、日々の進行状況を直接聞いている。
なぜなら、火村がほぼ毎日アリスのマンションに泊まって行くからだ。
よくも体力が続くものだと思うほど、夜遅くに疲れ果てた様子でやって来て、朝早く大学に出て行く。
アリスの部屋に、甘い木蓮の香りを残して。
ほぼ毎日と言って良い頻度で、どうやら火村は佐倉に会っているらしい。
真夜中近い時間に濃い香りを漂わせて来ることから、おそらく寝るまで一緒にいてやっているのだろうと思う。
二週間も経つと、何気なくソファに座ると、誰もいないそこから甘い匂いがするようになった。
タバコの匂いと混じり合ったそれを嗅ぐと、まるで彼と彼女とが絡み合っているかのような思いに囚われる。
火村は待っているのだと思う。
アリスが、彼女のことを尋ねるのを待っている。
その時、全てが終わる。
今日こそは、今日こそはと思いながらも、アリスはいまだにそれを口に出せずにいた。
誰もいないリビングで木蓮の香りに胸を痛め、仕事部屋に逃げ込んでうずくまるような毎日の中、それでもやっぱり自分からは切り出せないと思う。
まだ春も初旬だというのに、東京は暑いくらいの陽気だった。
昼の新幹線で東京駅に着いてからホテルに移動するまでの間に、すでに後悔していた。
やっぱりやめれば良かった。
だが、年初めのうちに出席の返事をしてしまっていた手前、なんとなく急な欠席は憚られたのだ。
特に、珀友社主宰のパーティとなれば、なかなか心情的に断るのが難しい。
奮発して、会場と同じホテルの部屋を宿泊場所に取っておいて良かったと思う。
快適な室温にようやく慣れた頃には、後悔も半分ほど消えていた。
むしろ、火村とのぴりぴりした関係に疲れ果てていた自分には、良い気分転換になりそうだとさえ思った。
「有栖川さん、顔色悪くないですか?」
だが、夜も更けるにつれて、気分はどんどん下降して行った。
火村は今日も佐倉のところに行き、そして合鍵でアリスの部屋に入り眠るだろう。
大阪にいないことは言ってある。
玄関を開け、電気をつけてソファに座り込む様子まで、アリスには明快に思い浮かべることが出来た。
それが事実かどうかを確かめることは出来ない。
時計がいつも彼がやって来る時間に近づくと、例え今夜どこに泊まろうと自分には解らないのだと言う考えで一杯になった。
今更、と哂う自分もいる。
泊まろうが泊まるまいが、そんなことは今更もうたいしたことではないだろう。
けれどやはり、最終的にアリスの部屋に来る彼と来ない彼では、全然違うではないかと言い募る自分もいる。
切れそうな綱に必死でしがみついているが如きみっともない考えだ。
そうは思えど、理性は感情を押さえ込んだりできない。
「いえ、ちょっと人にあたってしまって」
心配そうに声をかけてくれた片桐に、なんとか笑って見せた。
部屋には戻りたくなかった。
今ひとりにされたら、果てしなく落ち込んでしまうだろう。
「座りますか?」
「うーん、でも……」
立食形式の会場で、壁際の椅子に陣取っているのは、年を召した大物作家ばかりだ。
少なくともここではまだ若い部類に入るアリスが、椅子を使ってしまうことを躊躇っていると、後ろから聞きなれない声がかかった。
「よろしければ、ラウンジでコーヒーでも飲みませんか」
片桐とふたり、驚いて振り向くと、少し年上らしい男が恥ずかしそうな顔で立っていた。
はにかんだ様子が、その年齢の男性としては驚くほど似合っている。
どこかで見たことがある、と思っていると、隣で片桐が慌てたような声をあげた。
「い、石岡先生!」
「え、あ……!」
ぽかんとした二人の前で、彼は困ったような顔をした。
片桐が興奮したように、
「うわ、先生は欠席だと窺っていたんですが、嬉しい不意打ちです」
「あ、はい、僕こういうの苦手なので……」
「ええ、ええ、石岡先生にお会い出来るのがどれだけ貴重か、出版業界でも有名ですよ! 今回は出ていただけてありがたいお話です」
「うん、担当さんが、有栖川さんも来ますよって言ったので」
まだ信じられなくてぼうっとしていたアリスは、自分の名前が出て飛び上がった。
なにしろ、何年か早いだけのデビューとはいえ、彼と自分とでは天と地ほども差がある。
知名度も出版部数も、もちろん小説の質も、だ。
憧れの作家の前で、ただひたすら固まる。
「うちの書棚にずらっと並べてあるから、ファンだってばれたんですよ。それで、釣られちゃった」
「は、ファン、あの、あのー」
がちがちのアリスに、片桐が呆れた顔をしている。
「有栖川さんもすごいファンですよね、同じことしてますもんね。ね?」
「う、はい、ええ、その通り」
「あはは……どうも、憧れの石岡先生に会えてあがっているようで、こう見えてもなかなか気さくな人なんですが」
片桐はとりなすように、ほとんど子ども扱いでそんなことを言う。
いつもなら、こう見えてって何やねん、と抗議するところだが、今日は黙って睨んでおくことにする。
「僕も緊張してます。人に声かけたりするの苦手で、今もすごい迷ってから、えいって感じだったんです。突然ごめんなさい」
「とんでもありません、嬉しいです。ちょうどコーヒー飲みたかったんです」
照れたような石岡のぽつぽつとした喋り方に、ようやくアリスも緊張が解けてくる。
「なんだか初めてのデートに遭遇した気分です。じゃあ後はお二人でいってらっしゃいませ、僕はお仕事ですから」
下らないことを言ってひらひら手を振った片桐に、アリスも手を振り返した。
人が苦手だと言うのは本当らしく、石岡は初めのうち緊張した様子を崩さなかった。
石岡先生、と呼びかけたりすると、先生なんてやめてよやめてよーと顔を真っ赤にしてしまう。
そしてどうやら、自分の小説について触れられるのをあまり好まないらしい。
「僕のは、僕が創ってるわけじゃないからなぁ。御手洗の話を順番に記録してるだけなんだもの」
かなり自信のないタイプの人だなと思い、創作活動にコンプレックスを抱いている様子も窺えたが、やはりそういう話にはいけないと思いつつ惹かれてしまう。
「本当なんや……御手洗さんが実在するって、本当なんですね」
「もちろんだよ。昔もあんまり信じてもらえなかったけど、今はウプサラにいるからますます証明できなくて、困ってる」
「もう長い間のお友達なんですよね」
「20代の頃からだから……十五、六年かな。同居生活も同じくらい長かったけど、よくもまあ持ったものだよ。あいつの生活なんてほんと、めちゃくちゃなんだから」
昔を懐かしむような目だ。
アリスは思わず、
「寂しかったですか」
と聞いた。
石岡はちょっと吃驚したような顔をしてから、にこりと笑った。
「過去形だね」
「あ、すいません……」
「いいんだ、さすがだなと思っただけ。うん、寂しかったよ。ずっと一緒にいたからね。けど仕方ない、彼が海外に行くことには理由があったし、必要もあった。あいつに日本は狭すぎる」
「一緒に行こうとは思わなかったんですか?」
少しだけ、間があった。
「……御手洗がね、そんなようなことを言っていたのかもしれないって、後になったら思うこともあった。けどそのたびに僕は、簡単にそれを蹴っていたんだよ。彼の本気を受け取れなかった時点で、やっぱり一緒にいちゃいけないんだと思う」
「今は、平気なんですか?」
困ったように、首を傾げられた。
「平気じゃないよ。けどね、距離って凄いんだ、離れていてとても会えやしないって、街角で見かけるなんてことが絶対ないって、解ってると諦められる。しょうがないよね、って思う」
アリスはその言葉の全てについて、考えた。
諦めるということや、しょうがないと思うこと。
一緒にいてはいけない関係のこと。
石岡と話していたんだとはっとした時には、長すぎる沈黙が過ぎてしまっていた。
「あ、す、すいません、ぼうっとしてもうて……」
「うん、それ、僕も得意です」
真面目な顔で言う彼に、力が抜けた。
石岡の話に重ねて、アリスが悩んでいるのは明白だったが、彼はそれに触れずにいてくれた。
なんて繊細な人だろう、と思う。
小説ではいささか誇張もあるだろうが、傍若無人を絵に描いたような御手洗と、本当によく一緒に暮らしていたものだ。
他人には窺い知れないほど、二人を繋げる何かがあるのだろう。
寂しいことを諦めて受け入れたという石岡の現状を、羨んではいけないと思いつつも、やはりその強い絆は今も彼らの中に確実に存在する気がして、憧れる。
自分が失敗してしまったものだ。
自らその可能性の芽を摘み、踏み躙ってきたものだ。
改めて、火村に申し訳ないと思った。
君の友人を取り上げてしまってすまない。
親友だった有栖川有栖はもういなくなってしまった。
「ねえ、次のアリスシリーズはいつ出るの?」
「うっ……」
大げさに仰け反ったアリスに、石岡は初めて明るい笑い声をあげた。
それから、好きな本や映画の話、ミステリや絵の話をしているうちに、あっという間に時間は過ぎた。
途中、パーティがお開きになったと知らせてくれた片桐と少し話をしたが、その後もずっとラウンジに粘っていたのだ。
さぞかし迷惑な客だったろう。
眠気を覚えたらしい石岡と、再会を約束して住所を交換した。
大阪に帰ると、また同じ日々の繰り返しだったが、そのたびにアリスは、石岡の言葉を思い出した。
あんなにお互いを必要としていても、諦めることは出来る。
それはほとんど、唯一の希望だった。
その光にすがりつきながら過ごした一週間後、いつもの時間を過ぎても火村が訪ねてこないことに気づいた。
アリスはソファに座っていた。
ただひたすら座っていた。
去年の今日は、火村と二人で並んでいたことを覚えている。
すでにその頃には離れかけた関係であったが、まだなんとか修正がきくのではないかとも思っていた時期だ。
それを確かめるためにか、火村の抱き方はとても優しくなっていた。
彼の膝に跨って見下ろす、肩から背中のラインがとても好きだ。
口づける額の、汗の滲んだ感触も好き。
キスをはぐらかす時の悪戯めいた笑みも、力強く腰を掴む指も、すがりつくためにあるような固い腕も全部好きで、好きで、だから彼が愛してやれなくてごめんなんて謝ることなんてなかったって、言っておけば良かった。
日付が変わったのを見て、アリスは寝室に入って寝た。
誰もいないリビングで、HDDのデジタル表示だけが光っている。
4月27日、午前0時3分。
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