3.







夢の中で、何度もあいつを刺しました。








藤木と出会ったのは、4年前でした。
その頃の私は、新卒からまる三年が経ち、仕事にもようやく慣れた頃で、生活に余裕が出来た気分だったんです。

大手の老舗デパートと言っても、本社勤務の私には華やかな仕事など回ってきません。
来る日も来る日も事務的な処理をこなしているのに、他の職種の友人達には気楽で羨ましいなどと、ええ、人によっては堂々と、顔のいい人は人生楽よねなどと言うんです。
そういう声を段々笑ってかわせるようになって、同じ職場の友人も出来て、なんとなくやっていけるなって、そんな時期でした。


社名のせいで合コンがいくらでもあって、藤木とはそこで会いました。
最初は穏やかで優しそうな人だと思いました。
他の出席者に比べて、あからさまに容姿を舐めるように見たり、さり気なくお給料の額を知ろうとするようなほのめかしもなく、なにより女性に対して紳士的だった。
人に、素敵なダンナ様になりそうね、って言われるタイプです。
分かります?

すぐにアプローチされたわけではありません。
一年ほど、月に一、二度お食事をするお付き合いを重ね、ゆっくりと進んでいった……と。
思っていました。

けれど違いました。

藤木はその間に、私の何もかもを調べていたんです。
実家のことや、私の私生活、友人関係や男性関係。
当たり前だって思ってる顔、してる、そこの刑事さん。
どうやって調べてたと思います?
まずはゴミです。

……ええ、さすがですね、顔色を変えてくださった。

マンションのメールボックスからあらゆる明細をたびたび盗む、後を付ける、挙句の果てには盗聴です。
もちろん、交際当初は全く気付きませんでした。
結婚を前提に、という申し出があった時には、嬉しくて一人でワイン開けちゃったくらい。


地金が現れてきたのは、ほんの半年後です。
ある日堂々と私のケータイを見ている彼に唖然として、怒りました、何してるのっ、て。

言い終わる前に、太ももを蹴りつけられました。
思いっきり。

痛いというより驚いた。
暴力なんて、普通に生きている女性には一生無縁だと思っていたから、何が起こったのか分からなかった。
藤木は倒れた私に馬乗りになり、ケータイの着信履歴を突きつけました。
この男は、誰だ、と。

その声があまりに普通で、いつもどおりで、それが逆に私を強烈に怯えさせました。
がくがく震えて声も出ない私に、繰り返し繰り返し、応えるまで何度も何度も、その声の調子で聞くんです。
ようやく、会社の上司だと応えると、用件はなんだとか、どうして私にかけるのかとしつこく根掘り葉掘り尋ねました。

それが会社の用事で、私が以前から関わっている広告に関する業務だと納得すると、藤木はようやく私の上から避けて、そして、テレビを見始めました。
何もなかったように!
今でも覚えています、NHKの番組で、画面は暗く、穴倉で土を掘り続ける沢山の男たちが映っていました。

それからの私は、その男達と同じです。
ひたすらに暗闇で先の見えない穴掘りをし続ける。


別れたいと切り出すたびに殴られました。
ずるずると一年ほど付き合った頃になって、ようやく、友人達が妙にそっけないことに気付いたんです。
藤木の仕業でした。
最早当たり前になったケータイチェックで、着信があるたびに彼はその番号を控え、自分のケータイから電話をしていたんです。
それが男でも女でも、相手を侮辱し、罵倒し、私の友人として相応しいとは思えないと高飛車に告げ、二度と連絡をとらないように申し付けるんです。

彼ら、彼女らは当然それに怒る。
けれど、怒りなんて一時の感情に過ぎません。
例えば、かっとして殴って普通の顔に戻るように。
それでも皆が離れていったのは、彼が恐いから。
殴られるとかそんなことじゃありません。
もしそうなら、彼よりも明らかに力の強い人なんて一杯いた。

恐かったのは、電話越しにも伝わる藤木の異常性です。
逆らってまで友人でありつづければ、何をされるか分からない。
具体的な被害より、それが一番人間を怯えさせます。
話の通じない相手であることはすぐに分かります、そしてそれはつまり言葉の通じない相手であるということです。
何を言ってもまるで全く聞こえなかったかのようにスルーされ、言いたいことだけ言う、聞きたいことだけ聞く、分からないから恐い。

誰も私を助けてはくれませんでした。
唖然としましたね。
そうか、私って友達いなかったんだって思いました。
職場でも、私を遠巻きにして、仕事以外の用件は絶対に話さない。

……分かります?
皆、私を恐がってるんです。

私が助けを請うんじゃないか、私が例えば飲みに行こうなんて口にするんじゃないか、ショッピングに誘うんじゃないかと怯え、その貧乏くじを引かないように目を伏せ頭を下げて私が嵐か何かのように通り過ぎるのを待つ。


地獄でした。

地獄でした。


付き合い始めて一年ほどの時、一度、警察に相談したことがあります。
交番のおまわりさんは、どうしたと思いますか、信じられないことに、藤木に直接事情を聞きに行った。
有体に言って、私はそのことで警察を恨んでいます。
それはあなたがたではなかったかもしれませんが、私にとっては、そんな迂闊な行動をとる日本の警察というものを二度と信用しないと思わせる出来事でした。

何が起こったと思いますか。
なんだと思いますか。


……あ……、ええ、そうです、どうして……。

そう、そうですね、だって妹は逮捕されたんですものね。
あいつを殺してくれたんですものね。
……あの、あなた、刑事さんではないんでしたね……大学の先生、そうですか。
火村さん。
先生にも名刺なんてあるんですね。


ええ、はい、その先生の言う通り、これまでで最も怒りを爆発させた藤木は、妹に目をつけたんです。
藤木は怒っていればいるほど、優しくなれる。
電車で二駅離れたところに住んでいた妹は、藤木からの電話をなんら疑うことなく、私の部屋に来ました。
それも、私が帰宅する30分前を指定して。

仕事を終えて家に帰り、ドアを開けた私が見たのは、素っ裸でリビングの入り口に倒れている妹でした。
走り寄った私が抱き起こした瞬間、彼女は悲鳴をあげた。
まるで今まで出せなかった分を一気にほとばしらせるように、長く、長く、吠えるような声でした。

奥の部屋に藤木がいた。
私のPCで、デジタル画像をファイリングしていました。
妹の写真です。
それを盾にとられた私は逃げることも助けを求めることも、死ぬことすら許されず、ひたすら藤木の恋人という立場に在るしかなかった。


外から見えない部分の私の身体は、あざと傷にまみれています。
藤木はベッドでそれをいちいち数え上げるのが好きでした。
私が。
一番。
つらいのは、藤木にベッドにひきずりこまれている、時間です。

黙って!
黙って、聞いてください。
それが仕事でしょう?


それがあなた達の仕事でしょう?


藤木は、その間だけは決して暴力を振るわないんです。
そうすれば私が望んで身体を開くと思ったのかもしれません。
けれど私にとっては吐き気がするほど、ええ、本当にえずいてしまうほど苦痛な時間でした。
感じる余裕なんてあるはずがない。
藤木はそんなこともどうでもいいようでした。
潤いのない場所に無理矢理押し入ることなんて当たり前、そんな体の反応を目の当たりにしているくせに、声をあげろと言うんです。
私は必死で喘ぎました。
どこかの陳腐な商業ビデオのように、なるべく可愛らしく声を出すんです。

その屈辱は、暴力よりも私を打ちのめしました。
それまでの恋人と温かな行為を経験していただけに、それは余計に私を惨めにさせました。
自分の現状を最も突きつけられるようで、回数を繰り返すたびに身体は藤木を拒否するようになりましたが、判で押したように週に二回の行為は止みませんでした。



一年半ほど経った頃でしょうか。
夢を見るようになりました。

そこで私は藤木を刺します。
美しくも鋭くもない、錆びた無骨な包丁です。
へその両脇に二回、刺します。

藤木は悲鳴をあげながらじわじわと死んで行きます。
私はそのプロセスをつぶさに観察するんです。

あまり手入れのしていない刃はボロボロですから、傷口はぐちゃぐちゃで、けれど溢れる血ですぐに見えなくなって、あいつは死ぬ。

私は泣きます。
喜びで。

そして目覚めて全てが夢だと知って、今度は絶望の涙を流すんです。



繰り返し見るようになったその夢は、それでも少しなりと私のカタルシスとなっていました。

妹は、あれ以来、あまり笑わなくなりました。
その代わり、頻繁に私に連絡をくれるんです。
藤木も、妹の電話だけは許していました。
彼女は自分がされたことについて忘れることはありませんでしたが、私に向かって嘆くこともありませんでした。
ただ私の現状を聞き、私の泣き言に付き合い、一緒に泣く。
それだけでした。

夢の話をしてしまったのは、気の緩みとしか言いようがありません。
ひたすら私に慰めをくれる彼女の強さに、姉なのに弱いばかりの自分が情けなかったのかもしれません。
夢で藤木を殺し、ストレスを解消しているからと笑って見せた覚えがあります。
彼女は疑わしそうに、その夢の詳細を聞きたがりました。
私は嘘だと思われないために、それを語りました。





あの、初めて藤木に殴られた日から、私は暗いトンネルを掘り続けて来ました。
そして昨日、とうとうそれは完成したんです。

最後の瓦礫を避け、見えた光の中には妹がいました。
妹が、未妃が、向こう側から掘り進んで来てくれていたんです。


本当は昨夜、妹から電話がありました。
今、藤木を殺したよ、と。
お姉ちゃんの夢の通りに、おなかを錆びた包丁で二回刺して、血が溢れるようにしたよ、と。

けれど彼女は最後まで見届けなかったそうです。
藤木は私の部屋に来られない時は、その日のうちに電話をかけてくるのが決まりでした。
私は待ちました。

時計が零時を指したのを確認して、いつもの通りベッドに入りました。
あいつは死んだ。
ただそのことを思い、妹に電話をし、ありがとうと言って寝たんです。




夢を見ました。




夢の中で私は藤木を刺しました。
二回、いつものように、いつもの凶器で、いつもの場所を刺しました。


なぜでしょうね。
現実になったはずのその感触は妹のものなのに、昨夜の夢はまるで私がそれを経験したように手のひらは生々しい肉を断つ感触を覚え、血液のぬるりとした生暖かさを浴びました。

自分の悲鳴で目が覚めました。

汗だくで、体がぶるぶると震え、強張った両手を握り締めて。
あまりのリアルさに、真っ先に自分の手を見ました。

まだ薄暗くモノクロの世界で、私の両手は真っ赤に染まっていた。

悲鳴をあげて、あげて、よろける足でキッチンにまろび入って、水道の下に手を突っ込みました。


ええ……何も。
夢ですから。

あんなに私の抑圧された憎しみを解放してくれたはずのあの夢。


立ち尽くすばかりのまだ早朝の部屋で、ようやく、警察に知らせなければならないという常識が働き出しました。
いつもの手順でシャワーを浴び、化粧をして着替え、藤木のアパートに向かったんです。

リビングの入り口に仰向けで倒れていたあいつの格好は、いつかの妹とそっくりでした。








ねえ刑事さん。

私、今夜もあの夢を見るでしょうか。








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