2.




風呂上りの火村が冷蔵庫を開ける音に気づき、アリスは、

「俺にも一本とって」

と声をかけた。
無口な友人は、それでもハイハイと適当に肯いてリビングに戻ると、冷えたビールを手渡してくれた。
テレビから目を離さないまま、おおきに、と受け取る。
ソファに寝そべったアリスの足をひょいと避けて火村が腰を降ろしたため、半端に落ちかけた姿勢になるが、それでも目はテレビに釘付けだ。
そのままもぞもぞと座りなおす。
火村は呆れたように、

「何がそんなに面白いんだか……」
「やって凄いやんか、まず海の底にトンネル掘ろう言う発想が凄い。しかもそれを実現させるに至っては感動せずにいられへんね」

北海道と青森を結ぶトンネルがいかにして計画されたか、どんな紆余曲折を経て実現したのかについて、NHKがベタにドラマ仕立ての特集を組んでいた。
どんなにベタでも、それは現実に出来上がっているものだ。
アリスとしては、その陰にあっただろう膨大な苦労と障害に思いを巡らせるだけで、ため息が出てしまう。
だがそんなことには心を動かされたりしない友人は、フンと鼻を鳴らしただけだった。
習慣で軽く缶を合わせ、ぐっと煽る。

「うま。ビールの美味い季節になったな」
「……春ほどビールの似合わない時期もないと思うが」
「感性の違いやね」
「お前、夏は夏で美味いし、秋も冬も美味いじゃねぇか」
「繊細なんやね」
「単なるビール好きだろ」
「好きで悪いか」

開き直ったアリスに、火村は笑った。

「構わないさ。じゃあ、来週あたり、缶ビールワンケースお届けしようかな」

来週、と聞いて、慌てて友人のほうに向き直る。

「そんな安上がりな話があるかい」

火村はますます笑った。
からかわれたのだとは分かっていても、反応せずにいられないアリスの体質を面白がっているのだ。

「もうすぐ31になろうって男が本気で膨れるなよ。まあ何か欲しいものがあるなら言ってみろ」

誕生日の贈り物などという気恥ずかしい真似が出来るのも、長年の友人であるおかげだ。
それはほとんどお歳暮に似ている。
気心が知れているだけにお互い無茶な頼み事もする仲だ、年に一度、その労をねぎらう意味で贈り物をする。
日付が近いこともあり、便利な習慣だ。

アリスはうーんと考え込みながら、そっと火村の横顔を眺めた。
すっきりとした額から鼻梁にかけての形、引き締まった唇の形。
何年か前のこと、アリスはその唇に触れてみたいと思っている自分に気づいた。
その意味を認めまいとする自己防衛をやすやすと打ち破り、それから数週間の間に、あっというまに恋をした。
愛情と言うには緩やかで、自覚しているそれは友情との区別さえつきにくいものであったはずだが、年を重ねるにつれはっきりと形を変えてしまった。

年を取れば消えていくことを期待したが、残念ながら思いは強くなるばかり。
来年、再来年という近い未来でさえ、予想できない加速度だ。

そのうち、気づかれてしまうだろう。
親しすぎる環境がこの感情を呼び起こしたが、それはそのまま、お互いの内面まである程度通じてしまうという危険に等しい。
火村が自分に対してその手の感覚を全く持っていないことは承知だった。
普通に過ごしているだけならば分からないが、恋する気持ちは乙女並みだ。
相手の一挙手一投足に、期待と希望のメッセージを読み取ろうとする。
そしてその、どんなに自分贔屓の目で見ても、彼の無関心さは明らかだった。
友人として最も信頼されていることには自信がある。
だがそれだけだ。
それ以外はない。
その彼に、不意打ちで感づかれるのが一番恐かった。
どうせ伝わるなら、自分の言葉で伝えたい。
それが商売でもあることだし。


「ニュースに変えるぞ」
「あ、うん」

何時の間にか見ていた番組は終わってしまっていた。
どこの局でも報道番組を流している時間帯だ。
火村は適当にザッピングしながらも、いつものチャンネルに落ち着いた。

「なあ火村」
「んー」

さっきのアリスと逆になったように、画面を見たまま火村は答えた。

「君、最近いつ女と寝た?」

そう聞くと、彼は凄い勢いでこちらを向いた。
吃驚した顔をしている。
鳩が豆鉄砲を食らったような、というのはきっとこの顔だ、とアリスは思い、ちょっと笑った。
すると火村は、詰めていた息を吐き、

「……んだよ、珍しく下ネタの冗談か?」
「いや、冗談ではない。君もいい年になったし、立場もあるから迂闊なことは出来へんやろ。かといって特定の相手がいる風でもないし、結構ブランクあるんやないかと思うて」
「的確な予想をありがとう。で、それがお前に何か関係あるのか? 大体、お互い様だと思っていたが」

アリスは肯いた。

「まあな。でも多分、理由は違うよ」
「理由? 遊びで寝たり恋人を作らない理由?」
「そうや。君はそういうのが面倒なだけやろ。俺はなー、……聞く?」

火村は複雑な表情をした。
アリスの持ち出した話の意図が分からないのだろうし、だからこそ逆に打ち切ったり出来ない。

「……好きな人間がいるってことだろう」
「当たり。さすが名探偵。そんで、その人間って君のことや」

火村はゆっくりと天を仰ぎ、お手上げの真似をした。
アリスは笑った。

「おっと、聞きたいことは分かるで。言うておくけど、今までそういう経験はないし、女性を好きんなったことしかない。それが何で急に男に走ったんかは自分でも分からんな」
「ああ、お前にも分からないようじゃ、俺になんか分かるはずがないさ」
「投げ遣りやね。まあ君にそういう気がないんは知ってる」
「じゃあ何で言うんだよ」

不機嫌そうにタバコに火をつける彼の横で、アリスは、そうそう、と肯いた。
見せつけるように、人差し指をぴんと立てる。

「そこで君が言うたわけや、欲しいものがあったら考えておけと」
「おい……アリス……」
「俺と寝て欲しい」

彼はとうとう、ずるずるとソファに沈み込んだ。

「お前なぁ……」
「そやから、最近の動向を確認したんやないか。定期的な相手がおるんやったら遠慮したけど、ご無沙汰なんやったらこう、なんとなく、君の支払い分が少しは相殺されるようなされないような」
「されるか!」
「俺が女役でええよ」
「そういう問題じゃない」
「目瞑って黙って寝てれば済む」

身体ごと横を向いて、一応お願いするような顔をしてみせる。
火村は少し下がった位置から、呆れた顔でアリスを見ていた。
しばらく考えるような間があり、彼はおもむろに身体を起こしてタバコを消した。

「うーん、男相手に勃つ自信がねぇなぁ……」
「だから目瞑れって言うてるやんか」
「一から十までされるままってのも趣味じゃない」

アリスはため息をついた。
やれやれ、というやつだ。

「しゃあないな、そしたら。まあいいわ、諦める。第二希望で……」
「却下、しとこうか」
「や、まだ何も言うてへんし」

ツッコんだアリスは、突然、火村に引き寄せられて気づいたら彼に抱きしめられていた。
乱暴で、適当な抱擁だったが、ぶつけるようにされた口付けも同じくらい乱暴だった。

「……目くらい閉じろよ、アリス。ムードの無いヤツ」
「それはお前やろ!」
「可能かどうかなんてキスくらいで計れるもんじゃないな。問題はその先だよな」

どうしたもんかね、などと呟く火村の唇が、ゆっくりと近づいてくる。
肩にがっしり回された腕に阻まれ、後ろには逃げられない。
とっさに目を瞑り顎を引いて俯きかけたが、それを掬い上げるようにキスされた。
さっきよりも柔らかく、食むような仕草。

背中が粟立つ。
タバコの味がした。
火村の舌が、僅かなアリスの唇の隙間から入り込もうとしていた。

「ま、待て、火村、その、試すにしてもなにも今日……」
「改めて後日、なんてやってたら、俺は逃げ出す」
「や、から、諦めるって……」

言葉を押し出す隙を突いて、口内に侵入される。
柔らかく濡れた舌に舌をとられ、ざらりとした感覚に呑まれた。
口蓋をくすぐられた時には、火村に分かってしまうほどぞくぞくと震えてしまった。
それを見澄ましたように、ソファに押し倒される。
器用にパジャマのボタンが外されていることに気づいて、アリスは慌てて彼の唇から逃げるように顔を振って背けた。

「ちょ、あの、準備もないし、」
「台所に何かあんだろ」
「く、詳しいな、君は……」
「お前に影響されて、余計な知識を溜め込むようになったからな」

反論しようとしたが、露わになった平たい胸を親指でなぞられ息が止まった。
その間にも、火村の唇は耳に首筋にと触れていき、繰り返し擦られた乳首ははっきり摘めるほど固くなった。
そこに熱い舌を押し付けられ、喉の奥が鳴る。
恥ずかしいほど息が弾んでいた。
片方を指で、片方を歯で同時に挟み込まれると、完全に下着の中が形を変えた。
身体を半分重ねるようにしている火村の太ももにあたってしまっている。

「は、恥ずかしくて死ぬ……」
「お前が望んだんだろ」
「して差し上げるんは考えたけど、されるんは予想外というか予定外というか」
「詰めが甘いな、アリス」

口ではそんなことを言いながらも、火村は緊張で固くなったアリスの背中を撫で、それから身体の向きを変えた。
僅かな動きだったが、そのおかげで、火村のものがアリスの太ももにあたる。

「うわ、勃ってる」
「お前な……。まあいいや、ベッド行こう。ここは狭い」

先に寝室に入ったアリスの後ろから、火村の手がオリーブオイルの瓶を差し出した時には、さすがにうなだれた。





翌朝、アリスは涙ぐんでいた。
火村はそれを隣で寝そべりながら眺め、肩を竦めた。

「しょうがないだろう、初めてで上手くいくもんか」
「お前はこの痛みを知らんからそんなことが言えるんや。ありえへん。誰か夢やと言うてくれ」
「最後のほうは良かったんだろう? やっぱり挿れる時かな」
「冷静な分析はいらん。今俺は、お前にイかされた自分が哀れで仕方ないぞ」

タバコを消した火村は、うつ伏せでぶつぶつ言っているアリスの頭をぽんぽんと叩いた。

「四回はイったよな」
「無理矢理や」
「大変だな。作家の商売道具の一部なのに。でも仕方ない、腰くねらせて喘ぐんだからさ、駄目なら駄目って言えばやめてやったんだ」
「この……ッ! ……お前の性格の悪さは分かってたけど、ここまでとは。やっぱり憧れは憧れのままとっておくもんやな。いい勉強になった」

八つ当たりを言うアリスに、火村は寄り添い、なだめるように見える顔で、

「俺だって最初から何でも上手くは出来ないんだよ。次はもっと気をつけるさ」

と言った。
次は、の言葉に、黙り込む。
なんと言っていいものか分からない。

正直な話、ゆうべこの話を持ちかけた時点で、もう二度と会えないかもしれないことだって考えた。
受け入れられるとも思わなかったし、だからと言って関係も変わらないままいられるとはさすがのアリスでも期待していなかった。
それらの覚悟も、火村は当然知っていただろう。

そうして、彼は、アリスを抱いた。
十数年の友情を大切に思ってくれた彼の、精一杯の優しい答えだ。

気が進まないながらも、スタートが切られたドミノは決して止まらない。
彼の気持ちをないがしろにし、勝手に全てを変えて壊してしまうスイッチをアリスが押した。
ひどい我侭を、それでも火村はこうして笑って許してくれる。
申し訳なさに胸が塞がった。

「愛してやれなくてごめんな。アリス」

火村の前で、初めて涙をこぼした日だった。





それが、彼のために泣いた最初で最後の日でもある。
この不毛で終わりの決まった関係について、嘆き泣くことはすまいと思った。
少なくとも、それが続いているうちは涙を流すことはないだろう。


優しさから始まった肌を合わせるだけの関係も、上手くいくように思えたのは最初だけだった。
自分の弱さを見込み違いしたせいだとアリスは思う。
彼からの連絡が途絶えたり、電話の向こうで華やかな声がしたりすると、極度の不安にかられるようになった。
そんな資格も、何かを咎める権利もないと分かっていながら、火村が自分のものであればいいのにと思うようになった。

そういう自分に苦々しい気分を抱きながら、単なる友人として振舞うのは、二重三重に欺瞞を重ねる愚かな行為だと気づいてはいる。
それでもやめられないのは、なくしてしまえばどうなるか分からないという怖れによるものだった。
抱きしめられ、身体を繋げる行為は、いつだって酷く生々しい。
それが目に見えない感情や葛藤よりもはっきりと神経に届く感覚であるなら、流されすがりつく結果は然るべきものだ。

与えられるものが愛や恋でないからと言って、拗ねて泣くほど若くない。
だが、はたから見るよりも細やかなタチの火村には、この進行形の歪みが無視できないほどに感じられているだろう。
アリスのように、そうして歪んできた関係に我慢しなければならない理由などないのだ。

かつての穏やかさも深い理解も失った。
間にあるのはただ、軋みを立てそうな表面的行為だけだ。
これまでの会話や行動を踏襲した、まるで舞台劇のようなやりとり。
本音から目を逸らし、目先の快楽に溺れて我を忘れようとする哀れなふたりだけ。

少なくとも自分からは絶対に最後通牒を突きつけることは出来ないとアリスは思う。
そんなことをすれば、後悔に身を焼かれいつまでも忘れられない。
火村が音を上げるか、もしくはふさわしい伴侶が現れた時、彼からの優しい拒絶があるだろう。

どれだけほっとすることか。
自分も、彼も。

疲れ果てた関係から脱却することで、ようやく全てが終わる。



ようやく全てが終わる。











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