夜明け前に君の手を取る






1.



ぴたりと覆い被さったまま、火村が耳元で息を整えようと荒い呼吸をしている。
弛緩した身体の重みで、ベッドに埋め込まれそうだ。
強く胸を押し付けあうような形になり、お互いの心臓がすごい速さで鳴っているのが分かった。
火村はアリスの両手首をシーツに押さえつけたまま、動こうとしない。
先に達したせいと、単純に運動量の差で先に落ち着いたアリスは、ようやく静まってきた彼の吐息を耳に感じながら、その背を撫でてやりたい気持ちにかられる。
動かせない両手に理由を見出し、それを諦める。

は、と最後に大きく息をついた火村は、ようやく起き上がって後処理をすると、ずるずるとアリスの隣に寝そべった。
ベッドサイドのタバコに火をつけ満足そうに煙を吐き出す。

「アリス、寝るのか。風呂は?」
「明日でいい……」
「やれやれ、また体力落ちたんじゃないのか」

なんと言い返したものか、半ば眠りかけた頭で考えるがまとまらない。
そうしている間に、火村は呆れたような笑いを残してベッドを出て行った。
遠く、かすかにソファの軋む音がする。

朝起きたら彼はもういないだろう。
出勤前に自分が起きられるとは思えないし、例え目が覚めたとしても、リビングには出て行かないからだ。
身体を重ねた翌日は、火村と顔を合わせづらい。
目を見てしまえば、眠りの片隅に現れるこの罪悪感がとめどなく自分を覆い尽くしてしまいそうで恐かった。
後悔と、後悔を哂うエゴからひたすら目を逸らしつづけてきた。

もう3年になる。
愛のない関係に、満足しているふりをするのはもう疲れた。




だが、翌朝、予想に反してアリスは火村に起こされた。
やや慌しい声に、こちらも普段には考えられないスピードで目が覚める。
反射的に確かめた時計は、朝の7時だった。

「船曳さんから電話があった。事件だとさ。行くか?」

風呂上りらしい身体にバスタオルをひっかけた火村の髪は、まだ濡れている。
出るまでに若干の余裕がありそうな雰囲気に、シャワーを浴びて目を覚ますくらいは許されそうだと見て取り、肯いた。

ほとんど眠れなかったにしては褒められて良いスピードで準備をし、手回し良く火村が落としておいたコーヒーを、蓋付きの保温カップふたつに入れて家を出る。
助手席で熱い悪魔の液体にうっとりため息をつくアリスに、じろりと一瞥をくれる火村は、他に使い道のない口を事件の説明に使った。

「被害者は会社員で、藤木健太郎(ふじきけんたろう)31歳。自宅アパートで鋭利な刃物により腹部を数回刺されて死亡。犯行時刻は15日、つまり昨日の夜8時から前後1時間だと思われる。即死ではないようだ。お前の期待を裏切って悪いが、死に際の伝言は見当たらないそうだ」
「はいはい、ああ残念。で、お前が呼ばれた理由は?」
「容疑者は藤木氏の恋人で、彼女はさらに発見者でもある。デパート勤務の佐倉真帆(さくらまほ)30歳。彼女は七時頃まで勤務した後、真っ直ぐ自宅に戻ったと言っている。アパートの下の階の住人が、帰宅したという8時頃にドアの開け閉めや足音を聞いているらしい」
「姿を見たわけやないねんな?」

喉を焼く熱いコーヒーのおかげで、ようやくしっかり目が覚めた。
これでも、アリスにしては上等のタイムだ。

「どっちにしろ、被害者のアパートまで徒歩で15分だ」
「なんや、アリバイはほとんど無いようなもんか」
「ただな、さっき即死じゃなかったって言ったろう? 被害者は刺されながらも玄関まで這いずって行って、鍵をかけてるんだ。救急呼ぶよりも優先していることから、出て行った犯人が戻るのを怖れて施錠したと思われる」
「いきなり密室のネタバレか。チェーンは?」
「かけてない。鍵だけかけて、部屋に戻って、死んだ」

あっさりとした言葉に、さすがに顔をしかめる。
火村はそんな反応を分かっていて言ったのだろう、鼻で笑うようにした。

「……ああ、そん彼女は合鍵を持ってるんやな? だから発見者か。そやったら、彼女が犯人いうのはおかしな話になる。いくら鍵かけても簡単に入ってこられるんやから」

火村は恐る恐るカップに口をつけていて、答えない。
だが否定しないということは、一理あると考えているのだろうし、警察もそう思ったから火村に声をかけたに違いない。

「そこまで分かっとる言うことは、初動捜査は終わってるんやろ。彼女はどこに?」
「拘留されてる。が、まずは現場だ。……っちィ、お前なんだってわざわざ保温のカップなんか買うんだよ!」

まだ早かったらしい。
カップを乱暴にホルダーに戻した火村は、自棄のようにタバコをふかしはじめた。

「毎回熱さに飛び上がって毎回同じ文句言うのが面白くて面白くて」

真顔で言ってのけると、火村は物凄い顔でアリスを睨んだ。





一人暮らしの男性会社員としては標準的な、ごくありきたりの部屋だったが、床についたおびただしい量の血の痕がその印象を一変させていた。
まるで前衛的なアートのように、リビングから玄関、そして玄関から再びリビングへと往復する連続線は、まさにのたうった痕なのだろう。
サムターン式のロックにも、指の跡が見て取れる。
視覚的な強烈さのせいか、血の匂いがむっとするほど酷い。
遺体はすでになかったが、残された血痕だけで生きていないだろうことが察せられるほどだった。
寝不足のアリスには刺激が強すぎる。
なるべく目を逸らしながら見回してみたが、インテリアもごく普通のものだ。

火村が満足するまでにも、そう時間はかからなかった。
二人揃って恋人が拘留されているという警察署に向かいながら、アリスはしきりとセーターの匂いをかいでしまった。

「なんだよ、犬みたいに」
「やってえらい血の匂いやったやんか」
「ついてるか?」
「分からん。そうでないことを祈る。お気に入りやねん、これ」

先週買ったばかりの、淡いシトロングリーンのセーターは、春らしい色合いに一目ぼれしたものだった。
いわゆる衝動買いというやつだ。
柔らかな起毛の布からは、タバコの匂いしかしなかった。



取調室で顔を合わせた女性は、やつれたような表情ではあったが、十分に美しいと言える顔立ちをしていた。
上品なブラウンカラーの長い髪は、毛先だけが大きくゆるやかにウェーブさせてあり、その華やかな容姿によく似合っている。
基本的な情報はすでに聞き取りが終わっていたようだが、それ以上のこととなると一切口をつぐんでしまうらしい。
火村とアリスが紹介された時も、ちらりとこちらを見たきり、何も言わなかった。
ただ、その何かに怯えたような、そのくせ必死でそれを隠そうとするような態度は、彼女が全くの無関係であるとは信じられないものだ。

取調室を出て、森下にもう少し詳しいことを聞く。
佐倉は死亡した藤木と3年ほど交際しているらしい。
思わず、結婚は、と聞きそうになった。
30代の男女がそれだけ付き合っていれば、出てきておかしくない質問ではあったが、なんとなく喉の奥にひっかかってとどまる。
火村の顔を見たくなる衝動を抑えた。

「藤木は毎晩、帰宅した彼女に電話をするのが習慣やったそうです。それが昨夜は一切なく、訝しく思った彼女は今朝になって出勤途中に寄ってみた。チャイムを鳴らしても応答が無く、仕方なしに合鍵を使ってドアを開けたところ、あの有様で」

玄関から真っ直ぐ見通せる位置に仰向けで倒れていた彼を見て、佐倉はドアから一歩も入れないまま警察を呼んだ。
そうかどうりで、とアリスは思った。
彼女の服も手も一切汚れがなかった。
そして、甘い匂いがしていた。
木蓮(もくれん)の花のような匂い。
生憎と、現代のホームズを名乗るほどの能力を持ち合わせないアリスには、それがなんと言う香水なのかを言い当てることは出来ない。
だが、真っ白に咲き誇る木蓮のイメージは、彼女に良く似合っていた。
そこでふと気づいた。

「彼女……フルメイクやったな」

火村が眉をぴくりとあげた。

「出勤前やったからやろうけど。化粧が崩れた感じはしなかった。泣いてへんのと違うか」
「ああ……やれやれ、何を言い出すのかとハラハラしたぜ」
「何がやねん」
「森下さんの前であんまりオヤジな発言しないほうがいいって忠告さ。で……お前こそ、それが何なんだよ」

今度はアリスが僅かに眉をあげる。
からかうような物言いの底に、火村の苛立ちを感じたのだ。
事件に対するものではなく、アリスの今の発言に、冷ややかな侮蔑を隠し持っている気がする。

「何って、仮にも恋人が死んだんや、涙のひとつくらい流しておかしいことないやろ」
「流さなくてもおかしくない」

そっけない口調はいつもと同じようだが、斜めにちらりと寄越した視線には、明らかな不愉快さがあった。

「まあ、そうやけど……」
「世の中にはドラマや小説にあるようなステレオタイプ的反応以外に、個々に悲しむ自由がある。泣くだけが表現じゃない」

作家であるアリスの職業をどこか単一的と切り捨てるような言い方だ。
怒るよりも、まただ、という諦めを覚える。
アリスとの関係にベッドでの時間が加わってから、火村は変わった。
それは自分のせいだとアリスは思う。


彼に対して申し訳ないという気持ちがいつもあるせいで、どこか一歩引いてしまうようになったことが原因だろう。
慣れというものは恐ろしく、かつては完全に対等だったはずの二人の関係は、目に見えないくらいの落差が出来始めた。
それは火村にとって無意識の言動かもしれないが、アリスにとっては分かりやすすぎるほど分かりやすい変化だ。
はっきりと態度に出なくとも、アリスもまた無意識に引け目を滲ませているのかもしれない。
彼に対してあまり愚痴も弱音も言わなくなった。
それらの全てが最終的に火村との半端な関係に結びついてしまいそうな気がするからだ。

思えば、火村のこうした硬質な態度や、相手を傷つけることに躊躇が無い物言いは、学生の頃の彼のようだ。
一部の気を許した友人達を除き、あの頃の彼はわざと他人を寄せ付けない言動をしていたものだ。
今の自分は、その時の他人というものに徐々に近づいている。
彼との距離が離れていく。
それを感じていながら、唯一確かと思える肌の感触を手放せない。
恋人ではないアリスには、他に何も無いからだ。


「でも、僕も思うんですよ」

黙り込んだアリスを気遣ったのか、森下が恐る恐るといった様子で言った。

「泣くとか泣かないとかやなくてですね、彼女が彼女なりの悲しみ方をしてるかどうか言うたら、どうもそんな感じがしないんですよ。単なる印象なんですけどね。あ、別に印象だけでどうこう言うてる訳やなくて」

しどろもどろになる彼に、火村は軽く肯いた。

「ええ。理解は出来ます」

それきり、口をつぐんだ。
情けなさそうな顔で森下がアリスを見る。
出来るだけ優しく笑いかけ、仕方のないヤツやね、という同情を込める。

その時、いつも物静かな学者然とした鮫山が、珍しくノックもなしに飛び込んできた。
何事かと立ち上がる三人を前に、彼は厳しい顔で、

「犯人が自首してきました」
「えっ……」

森下の驚いたような声に、鮫山は肯く。

「自白内容には整合性があります。時間的にも矛盾はありませんし、被害者を刺した場所や回数も、遺体の状況と一致しました。現在、指紋を照合中で、犯人の部屋から出てきた血のついた衣服も科捜研に回してあります」
「だ、誰なんです?」
「被疑者の名前は、佐倉美妃(みき)、27歳」

アリスは思わず息を飲んだ。

「拘留中の佐倉さんの、妹です」

なぜ、という声にならない疑問が、会議室の中にこだましたようだった。
森下やアリスばかりでなく、鮫山もまだ戸惑っている。
火村だけは、淡々とした調子を崩さなかった。

「姉のほうは?」
「ざっとした証拠が確認されたら、とりあえず別室に移ってもらう予定です。帰宅はまだ……」
「妹のことを知らせますか」
「ええ」
「同席させてください」

鮫山は火村の申し出に、はいもちろん、と応えたが、気おされたように少し顔を引いていた。
嫌疑が晴れた容疑者に対するものとしては、熱心すぎる。
誰もがそう感じたということだろう。
アリスは不安な面持ちで火村を見つめるしかなかった。




数時間後、妹の犯行であると断定されてから、会議室に移された姉の元にそれが伝えられることになった。
ぞろぞろと男たちが入っていくと、彼女は取調室にいたときよりも一層青ざめた顔でそれを眺めていた。
何かを覚悟した目をしている。

年かさの刑事が、短く事実を告げた。
彼女は目を強く閉じると、驚いたことにいきなり拳を机に叩きつけた。
清楚な見た目にそぐわない突然の行動に、さしもの刑事たちも一瞬目を見張る。
たおやかさを感じさせはするが、彼女は思ったよりも強い。
激情家とも言える。
ぶるぶる震える拳を握ったまま、一言、ちくしょう、と呟いた。

さすがにすぐに気を取り直した刑事の一人が、

「犯行の理由に心当たりはありますか?」

と尋ねた。
姉の沈黙を真似るように、取調室の妹は黙秘を貫いているらしい。
自首してきたにしてはおかしな話だ。
それはおそらく、自分以外の誰かが深く関わっているからだろう。
だから刑事たちは、姉である真帆の証言に期待をかけているのだ。

彼女は急に周囲に人がいることに気づいたように顔を上げ、ぼんやりとした目つきになってあたりを見回した。
しかし、誰を見ているわけでもない。
虚ろに見える目の奥には、ちらちらと何かが燃えている。
アリスにはそれが、絶望的な憎しみに見えた。
しばし落ちた沈黙の中で、彼女は口を開いた。
小さな声だった。

「……人を殺したいと思ったことがあります」


アリスの視界の端で、火村が弾かれたように顔をあげた。
彼女はその動きにつられたように、彼に視線を合わせた。


「それを夢に見ます。人を殺す、夢を、見ます……」








Next



5万2千字の長編になります。
オリキャラ、ゲストあり。
最後までよろしくお願いします。
私を信じてついてきていただきたい……。



Novels

1