恋よ、恋。


1.




アリスが突然訪ねてくるのはそう珍しいことではないが、突然と言ってもそれはたいていコンパの後だとか切羽詰ったレポートがあるときだとか、火村にもある程度の予想がついてしまうような突然さがほとんどだった。
そして予想もつかない訪問の時は、だいたいが美味い酒を父親の酒蔵からくすねてきたとか、限定のスイーツが手に入っただとか、おおよそ二十歳を若干過ぎたばかりとはいえ立派な成人男子がするとは思えないような満面の笑みと共にチャイムが鳴る。

なので、今日はちょっと吃驚した。
なにしろ火村の吃驚なのだから、それはもうほとんどビッグバンの確率と同じと言っていい。
しかし結局ビッグバンは起こったから今があるのであり、火村英生は驚いたからうっかり用件も確かめずアリスを部屋にあげてしまったのだ。


「…で?」
「でってなんやねん」
「絡むなよ。その不機嫌の原因はなんだっつってんだよ」


そう、今日のアリスはむちゃくちゃ機嫌が悪かった。
これが他の相手ならば即座にお引取り願うところだが、先に述べた理由によってついつい部屋にあげてしまったのだ。

失敗した。
そもそも、部屋にあげたばかりか原因を尋ねてやるなんて火村にしては大サービスも大サービス、初回限定ボーナストラックくらいの大盤振る舞いだ。
分かってんのかね、そこんとこ。


アリスはもう聞いてもらって当たり前くらいの顔でごそごそとバッグを漁り、どーんとばかりに一本のビデオを突き出してきた。
左右にタイトルと主演女優の名前があり、中央に短いスカートを身に着けた女がいてその周囲を様々なカットの写真が埋めている。
ちなみにタイトルの色はどピンクで、女の服は尻の見えそうなメイド服だしほとんどのカットは結局尻を丸出しにしている。


「貸してもらった」
「…あ、そう。良かったな。大事にしまっとけ」
「阿呆、誰が見せびらかしに来たんじゃ。エロビで喜ぶ年かいな」
「そんな不機嫌になるようなことでもないだろう。彼女のひとりもいねェお前を慮っての心温まる好意じゃねェか」
「ド阿呆。こいつはどこまでも寒々しい話やねんで。女の名前をよう見いって」


いつまでも印籠のように突き出していて欲しくないなあと思いながらタイトルとは逆サイドにて目を射るようなピンクで書かれた名前を見る。


「加賀美野アリス」
「読むな!」
「痛ぇ、お前な、わざわざ角で叩くなよ。信じらんねぇヤツ」
「そうや、信じられん出来事や。お前の言うところの心優しい友人はな、この女の子さんがオレに大層よう似とる言うて大喜びやねん」
「大喜び?」
「ちゃうかった、大笑い」
「しっかりしろよ、小説家志望」


で?とタバコに火をつけて聞いてやると、大真面目な顔で言われた。


「検証してくれ」
「は?」
「オレは全然似てへんと思う。けどヤツらは皆よう似とるって言うてな、つまりこのビデオは遍く行き渡っとんねん。最悪」


がさごそとビデオデッキの前に積んでおいた本やらなんやらをよけて、埃のかぶったリモコンを探し出して、アリスはいざとばかりにテープを挿入した。
がこん、とやや心配な音がしたが、どうやら無事に読み込まれたらしく、自動再生によってぱっと画面が切り替わった。

実のところ、アリスは自分がして欲しいと思ったことはたいてい叶えているので、火村はこういう時には抗議しても無駄だと諦めている。
人望だか人徳だか知らないが、自分にはどうにも預かり知らないやり方で他人を動かす術を知っているようなのだ、このアリスという男。


「どう?」


何時の間にかテレビ画面よりもこのけったいな友人の方に視線を奪われていて、声をかけられてなんだか慌てて目をそらした。
小さなモニタの中では、安っぽいメイド服を着た女がご主人さまに無体な仕打ちを受けているところだった。

しょうもない。
安っぽいのは衣装だけではなく、シナリオもセットも何もかも使いまわしで手垢のついたしょうもなさだ。

まあこの女も使いまわしなのだろうが、とちょっとブラックなジョークを思いついたが、口にするのはやめておいた。
だってアリスに似ていたから。


「…お前の友達がみんな見たって?」
「そうや。どいつもこいつも、なんでオレがこんなくりくりっとした目の女の子に見えるんかさっぱりや」
「そいつら、結局これを役に立ててた訳か?」
「役に? ふん? ああ、これでヌいたかゆうこと? 知らんわ、そんなん」


賭けてもいい、全員ひとり残らずこのビデオを実用的だと評価したはずだ。


『あ、あん、嫌です、嫌ぁ…ッ…、ぅ、ぅ、ぁンッ!』

「似てへんよね?」


必死で抗いながらも感じちゃう、というあからさまに演技っぽい仕草で突き上げられる女の顔が、それでも涙に滲んでさらさらの前髪の間からカメラを見つめる。
いつのまにかすぐ傍に来ていたアリスが、不満げに唇を尖らせながらこちらを見つめる。

なるほど。
この顔か。


この顔をされるとどうにも弱いということを火村は自覚した。
多分他の人間もそうなのだろうと思うと、なんだか腹が立つ。
そういう顔は、自分の前でだけしておけばいいのだ。


「…お前さ、しばらく気をつけた方がいいぜ。ビデオ見たヤツと二人きりになったりとか」


思わず言ってしまうと、みるみるうちにアリスの不機嫌が復活した。
しまったと慌ててフォローしようとしたが、それを待たずにいきなり取り出しボタンを押されたデッキがテープを吐き出し、ついでにアリスもドアから出て行くようだ。


「ちょ…待て、アリス、悪かった。な? お前を侮辱したわけじゃないんだ、謝るよ」


なんだかなぁこれじゃあ痴話喧嘩の相手にすがってる情けない男みたいじゃないかよ、と内心思いつつも、アリスはいったん臍を曲げたら容易なことでは機嫌を直さないし、笑わなくなるし口を利かなくなるし。
という思考自体が情けないのだが、とりあえず火村は気付かないふりをした。


「…反省しとる?」
「してる。心から」
「ふうん…そやったら許してやってもええよ」


助かった。

にこ、と笑ったアリスは、再びこの部屋に腰を落ち着けることにしたらしい、テーブルの横にちょこんと座って、乱暴に引き出したままだったテープを丁寧にケースに収めていた。
腹を立てていたくせに、あくまで借り物なのだからとちゃんと扱おうとするところがアリスの人の良さだと思う。


「ん? なに?」


じっと見ていたら、訝しそうに聞かれた。


「あ、いや…」
「君も使う、このビデオ?」
「馬鹿、そんなわけ…ねェ」
「すんごい微妙な間が空いとったけど」
「気のせいだ。だいたい、ビデオなんかより…」


はっと口をつぐんだ。
何を言おうとしていたのか、自分でもちっとも分からないけれど、なんだか拙い気がした。

するとアリスがとんでもないことを言い出した。


「えー、火村…彼女でも出来たん? そんなら俺、急に来てだいじょぶやった?」


出来てないし。
間髪いれずにそう反論しようとしたのだが、見上げてくるアリスの顔がしょんぼりしていたので、それがやたらツボだった火村は一瞬絶句してしまった。
きゅうん、といまにも叱られた犬の風情で鼻を鳴らしそうだ。


「まずかったんやね? ごめんな、気ぃきかんで…でもなんで。そういうことくらい、言うてくれたらええやん。友達やのに」
「いや、アリス、」
「それとも、友達や思うてたんは俺だけなん?」


涙の滲んだ目でそんな悲しそうな声を出すのはやめてくれと火村は内心悲鳴をあげた。
心臓に悪い。
ほんと、眩暈に息切れに動悸に、はたして俺は病気だったろうかとないはずの虚弱体質を心配してしまう有様だ。


「いねぇよ、女なんて。今のところ、俺の一番はお前だし」


きょとんとした顔をされてから、自分が何を口走ったか記憶をリピートした。

ええっとこれってまるで愛の告白だよね。

今日一番の慌てぶりで今のセリフをなんとか無難なところに収めようと必死になったが、一向にこれというフォローが見つからず口だけがぱくぱくと開いた。
無様だ。

するとアリスは、徐々に小さく俯いた。
なにかとてもまずいぞ火村英生、何か言え、何でもいい、何のための口だ!


「…うれしい、火村。それって、親友に昇格したってことでええの?」


うふふ、と照れたように笑うアリスに、かっぱりと空きそうになる顎を手で押さえてぎこちなく肯いてみせた。
なんだか分からないけど、切り抜けたらしい。

そう、口は黙るためにあるのだ。








数時間後、夜になり、アリスの帰っていったあとの部屋でひとり正座する火村がいた。
目の前にはピンクのタイトルが目に痛いビデオが一本あり、これはうっかり忘れていったものだろうかそれともわざと置いていったものだろうか気を利かせたのだろうかからかっているのだろうかと、もう小一時間ほど煩悶しているのだ。

女の裸などどうでも良いけれど、あの顔が紅潮し仰け反る場面をちょっとだけ見ちゃおうかなあと思う。
ううん、なんだろう、この考え方は。
裸じゃなくて顔が見たいのか?

しかし、アリスそっくりの顔が泣きそうに歪み放った一言が記憶に蘇り、『ぁ…ごじゅじんさまぁ…ッ!』火村はばったりと正座のまま横に倒れて、自らの人生が不毛でやるせない道に入ってしまったことをようよう自覚した。




なんてことをしてくれたんだ、アリス。
自分の言葉を本当に自覚するのが今頃だなんて、どうしようもないなと火村は頭を抱えた。




ああ恋よ、おのが重みで潰える前に、消えてしまえ消えてしまえ。








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アホな話です(笑)
アリスにめろめろの火村を書くのが楽しくて仕方ない今日この頃。




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