2.
息が上がる。
指を咥えられても感じる。
引き出した指は唾液に濡れていて、アリスはそれをそのまま、火村の胸に塗りつけた。
だが、反対側を口に含むのも申し訳程度で、すぐにわき腹に、臍に口づける。
勃立した火村を、ゆっくりと手のひらで包んだ。
「本気か、アリス……?」
掠れた声に聞かれて、なんのことかと顔を上げた。
火村はずるずると上にあがっていき、ベッドのヘッドボードにやれやれと寄りかかった。
「なにが?」
「咥えてくれなんて言ってない」
「は?」
アリスは眉を寄せた。
「君もしたやろうが」
無造作に彼の脚を広げ、間に入り込む。
そのまま、下腹部に顔を埋めた。
先端を含むと、火村は明らかに硬度を増した。
同じ男といえどもそれぞれにポイントはあろうが、さっき与えられた口淫のツボはアリスと似たり寄ったりだったので、自分の良さそうなやり方を探す。
女よりも深く呑み込める。
喉を開いて彼を受け入れ、垂れる唾液も手のひらで塗りつけた。
不意に、頭をなでられた。
子どもにするようにではなく、髪の間に指をもぐりこませるような、愛撫に似たなで方だ。
泣きそうになった。
初めて女の影を感じた。
アリスに対してするはずのない仕草は、いつか、どこの女が受けたものだ。
なんの準備もいらないまま、火村とこうして繋がることができる人たちがいる。
それは愛情ではないかもしれないが、純粋な欲求には違いない。
事件の残り火をかき消すためでも、鬱屈した過去を清算するためでもなく、ただ女として身体を求められる。
どちらがよりマシかといわれれば、アリスは迷うことなく後者を選ぶ。
本能で欲情され、何かを忘れようとする目ではない獣の顔で貪られたい。
引き剥がそうとする火村の手を抑え、吐き出される体液を飲み込んだ。
結局、外が白々とするくらいまで絡み合っていた。
ルームサービスについていたバターだけで指を咥え込まされ、未知の感覚にもう許してくれと泣いたが、快感を拾うところまで解放してもらえなかった。
初めてではやはり無理があり、トライはしたものの挿入は果たせなかった。
それらのやり方を見るに、火村も初めてだったのだろうと思えた。
少しだけ、慰められた。
火村はまあ満足そうで、ほとんど気を失うような眠気で何時の間にか寝ていたアリスを眺めていた気がする。
目が覚めると、9時を過ぎていた。
5時間ほどは寝ただろうか。
体が重く、動けば節々が痛い。
部屋の中は、アリス以外の人の気配はしない。
驚きはしなかった。
顔を合わせづらいのはお互い様だ。
いなくなってくれていて良かったとさえ思う。
這うようにベッドを降り、情事の匂いが色濃い身体に顔をしかめながら、窓を開ける。
やや冷たい風が入るのを確かめてから、バスルームに向かった。
鏡の中に自分の顔が映る。
肩まで伸びた髪が、もつれて寝癖になっていた。
乾かさないまま寝たからだ。
いや――枕の上で何度も髪を打ち振り、身悶えたからだ。
みっともない頭に苦笑し、軽く手で束ねる。
髪に隠れていた肩に、くっきりと浮いた歯型が現れた。
そのうっ血の痕がぼやけて滲み、アリスは慌ててシャワーを頭からかぶった。
これからどうなるのだろう。
あれで繊細な男だから、割り切ることが出来なければもう気軽な付き合いなどしないだろう。
友人として生き残るためにアリスが何事もなく振舞うことは可能だが、火村がそれで騙されるとも思えない。
自分は昨夜確かに、友人の手によって声をあげ淫らに喘いだ。
長い付き合いだというだけで、唐突な同性の身体に反応はするまい。
火村はそこから何を読み取っただろうか。
あるいはすでに、ここにいないことが答えだろうか。
しかし、昨夜の行為の最中にそうしたことを考えないはずがない。
あれはいつでも冷静だ。
それでいて最後まで満足そうにアリスをいたぶったのだから、強い拒否感を抱いたというわけではなさそうだ。
だから分からない。
これから火村がどうするか。
自分はどうするべきか。
シャンプーの匂いが鼻につく。
都合の良い関係を提案されたら、なんと答えるべきだろう。
受け入れるしかないのか。
それとも、いずれ苦しくなるのだからと賢く断るか。
もう二度としないと言われたら?
構わないのにと軽く言うか。
いや、自分にそこまでの演技が出来るとは思えない。
短く了承するくらいが関の山だろう。
流したシャワーが右目に入った。
リンスがしみる。
もう二度と会わないと言われたら?
厳しいことだが、それも潮時ということだろう。
もしかしたら火村はずっとアリスの気持ちに気づいていたのかもしれない。
ありえないことではない。
あの男なら。
最後に思いを遂げさせてくれたとか。
お優しいことだ。
なんにしろ、自分から連絡を取ることは出来そうも無い。
列車の時間を調べないと。
早く帰ろう。
自分の部屋で、ゆっくり眠るのだ。
よれた浴衣を肩からひっかけ、バスタオルで頭を拭きながら、ベッドに腰掛けケータイを開く。
列車の時刻を調べると、10時半に一本あった。
10時のチェックアウトまであと40分だ。
タイミングは悪くない。
パチン、と音を立ててフリップを閉じたと同時に、ドアが開いた。
顔を上げると、戸口に火村が立っていた。
帰ったのではなかったのか。
驚きをそのまま読み取ったらしく、火村は手にもった新聞をベッドに放り投げながら、眉を寄せた。
「なんだ、その顔は?」
「い、いや、急に入ってくるから。ノックくらいせえよ」
「有栖川センセイがマナーにうるさいなんて、初耳だな」
探るような目がそれたのでほっとした、その直後、
「消えたと思ったか」
右の耳にぴたりと鋭く吹き込まれた。
安堵した息をヒッと吸い込む。
心臓がばくばくいっていた。
「き、きみ、なに、あほ、」
「……挙動不審で一発職質だな」
隣に座った彼は、ひっかけただけのアリスの浴衣を軽く引く。
肩からするりと落ちて、外気にひやりとした。
「なんや」
「もう一回分くらい時間ないかな」
時計を見ながら言う。
「……頭になんかわいたんとちゃうか」
「お前だって、したくないわけじゃないだろう?」
それを聞いて、バスルームでぐるぐると考えていたことに、すっと答えが出た。
あっけないくらい、滑らかに口が動く。
「ああいうんは一回やからええんや。もうせえへん。早よ帰ろうや」
背後から新聞をとってばさばさと広げる。
地方紙にも関わらず、昨日の実況見分の様子はごく小さな扱いでしかなくなっていた。
一人の女が死んだ事件は、すでに過去だ。
命さえすぐに忘れられるのだから、生きて生活するということは、失いつづけることなのかもしれない。
「風邪ひくぞ」
火村は、うん、と生返事するアリスから新聞を取り上げ、ドレッサー代わりの小さな机に押しやった。
しぶしぶ髪を乾かす。
軽くドライヤーをかけたところで、鏡越しの火村が立ち上がり、傍らに置いてあったアリスのスタイリング剤を手に取った。
ありがとう、と受け取ろうとしたが、彼は渡そうとするのではなく、その蓋を開けている。
指先に掬い取った分を手のひらに伸ばし、振り向いていたアリスに顎で前を向けと示す。
「なに? やってくれんの?」
うなじに軽く指が差し込まれた。
そのまま後ろ髪を逆立てるようにワックスを馴染ませてから、毛先にもみこむように流れをつける。
いつもアリスがする手順どおりだ。
器用な男は何をやらせても器用ということだろう。
そう言えば、昨夜も彼はアリスを組み敷きながら何度も髪をなでていた。
髪に触れるというのは、性的な意味合いが強い。
あまり想像できないが、夜をともにした女性の髪をこうして整えてやることも多いのかもしれない。
「お前も同じか、アリス?」
後ろから顔を寄せ、鏡の中で並んだ目線が合う。
「え?」
「はき違えた優しさで応じたのか?」
「違う!」
被害者と、そして母親と同じように、すがりつく者を通して自己満足を得るような人間かと聞かれたのだ。
弾けるように否定の言葉が出た。
そうしてから、震えるような怒りが襲った。
「火村、お前、俺がそんな人間やと……!」
「思ってないさ。けどあんまりそっけないから、万が一にもと思っただけだ」
脱力する。
火村は楽しげに笑い、
「昨夜の俺はどうかしていた。お前にあんなこと頼むなんて、いくら厭な符合に気分が悪くなったとはいえ、正気だったとは思えない」
「……受けた俺はどないやねん」
「けど、お前じゃなければ考えもしなかった。お前も、俺じゃなければ寝たりしなかったと思うのは、自惚れか?」
何が言いたいのか分からない。
黙ったまま彼を見返す。
「そうだろう」
「何も言うてへん」
「つまりお前は俺にとって誰とも違う。おまけに、恐ろしい話だが、昨夜のお前をとてつもなく可愛いと思った」
くぅ、とアリスの喉が変な音を立てた。
火村の口から出るはずもない言葉に、言いようも無いほど動揺する。
鏡の中で、自分の顔がじわじわと赤くなっていくのが見えて、アリスは思わず目をそらした。
「俺は、女やない」
「隅々まで見たから、知ってるさ」
「そういうことを言うな!」
「可愛いというのが気に食わないなら、こうだ。不精で伸びているこの髪をかき乱せるのが、お前の枕と俺だけであって欲しい、と」
これはどういう状況だ?
アリスは展開を掴みかねて、混乱した。
だってこれではまるで、口説かれているようではないか。
「早いとこ京都に帰れ、火村。なじみの彼女とやらに会え。一晩過ごせば正気に返るわ」
「女となじむほどの時間が、俺の生活の一体どのへんにあるんだ?」
「だって言ったやろ!」
「言葉のあやだ。大体、他人と馴染めるなら俺は……」
火村の口元が歪む。
アリスは状況も忘れ、すぐ横にあった彼の顔を直接睨んだ。
「火村。前から言おう思うてたけど、お前その顔やめえや。そんな顔は嫌いや」
はっとしたように、彼もこちらを見た。
じゃあ普段の顔はとかなんとかからかわれるかと思ったが、その目は意外にも真摯なものになった。
「そうか。そうするよ」
火村は静かに言った。
「自分を蔑まずにいることは難しい。だがお前がそう言うなら」
「火村。君は正しい。ここにいることの何一つ、間違ってなんかない」
家から遠く離れたこの場所に今いる経緯の全て、研究手法もそのやり方も、刑事たちとの出会いも、ある一人の被害者とある一人の犯人を追ってさびれたこのホテルにいるなにもかもの、ひとつも欠けない全部が正しい。
「誰が何を言おうと、俺はそれを知っとる。ええか、信じてるんやない、知っとるんよ。そういう君が好きやから、俺もここにおるんや」
火村は真っ直ぐにアリスを見ていて、子どものように混じりけの無い目をしていた。
だが、しばらく黙ってから、徐々にあまり歓迎できない傾向の光が灯り始めた。
「なるほど」
ひと言呟かれ、今度はアリスが黙る。
火村はもう一度、なるほど、と、今度は少し力強く言った。
「なんや」
「そうか。そうだったのか。アリス、お前……そうだったんだな!」
彼が勘違いしていることにすぐ気づいた。
「ち……!」
「俺も鈍ったよ、それともお前が案外、役者なのかな。そうか、もしかしてずっと?」
「違う! 賢い頭でよく聞け、さっきのは人間的に好きや言う意味で、そういうんと違う、ん、や!」
まるでごく自然に、火村の腕が背中に回る。
「気づいたのは言葉の上のことだけじゃないさ。昨夜のあれやこれやとか、」
「勝手に盛り上がるな、俺は」
「なに? ベッドの中でも役者だったわけか?」
「そ……」
それは違うけれども、とぼそぼそ言う口が、簡単に塞がれた。
椅子の横に屈んだ姿勢から、覆い被さるように角度を変えて口付けられる。
「……火村!」
「お前ほど俺は正しさを確信できないが、お前が言うならそうなのかもしれない。そう思えるだけ、ちゃんと俺を見てきたんだろう?」
アリスはため息をついた。
これは否定できない。
さもなければ、自分は上辺の優しさを取り繕っただけになってしまう。
カノジョタチのように、火村のまだ塞がらない傷をえぐることになる。
嘘をついた挙句そんなことになったら、後悔してもし足りないだろう。
真実を告白してしまったあとに悔やむより、それはきっともっと苦い。
「そうや。……それが、君を好きでいるということの意味や」
もう一度、唇が触れる。
火村は、ありがとう、と言った。
そしてさっさと立ち上がる。
アリスのジーンズを放って寄越し、手早く新聞をたたむ。
「帰るぞ、アリス」
ここにはもう用はない。
そう言って、肩を押さえてニヤリと笑った。
アリスの好きな顔だ。
部屋を出てホテルを出てこの街を出て、二人はあるべき場所へ戻る。
見慣れていても、きっと、昨日までとは何かが違うという予感がする。
さっきの火村のように、肩を押さえる。
その手のひらの下には、昨夜噛み付かれた痕がある。
肉を喰らわず、骨を喰らわず、しるしだけを残してなお糧とする。
それが出来るのはお互いだけだとしたら、だ。
小説家として、それはつまり愛し合っているということなのだと断言しよう。
end
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長からむ心もしらず 黒髪のみだれて今朝は ものをこそおもへ
未来のことをなにひとつ話さないまま朝になり
私の心はこの髪のように乱れもつれている