シリアスにみせかけていちゃいちゃ、ってそれどんなんよ?
1.
経験はあるのかと聞くと、火村は、さあな、と答えた。
応じたつもりもないのに、彼はさも当たり前のようにアリスの服を脱がせている。
それでも強く抗えないのは、ひとつにどこかでこんなことを望んでいたからだ。
火村はアリスのその隠れた思いに気づいたわけではないようだが、いやだと拒否することが嘘だと知っている自分があるだけに、隙が生まれた。
彼の指があご先に触れて喉元に落ちた時から、後々の面倒をわずらわしく思う気持ちを、欲求が上回った。
そうしたアリスの事情とは別に、今夜の友人はひどく荒れていて、それが内面の鬱屈を隠すためのものだと知っているアリスは、彼を一人で眠らせることなど出来そうになかった。
事件を追って訪れたこの寒村は、中心部でさえ娯楽のほとんど無い土地だ。
駅前の古いビジネスホテルから眺める景色は、すでに暗く沈んでいる。
犯人は捕まったし、全ては解決した。
解き明かしたのは火村であり、これで、実に3ヶ月越しの捜査が終わったことになる。
アリスはその間ずっと行動をともにしていたわけではないが、事件の発生場所が大阪だったこともあり、頻繁に立ち寄る火村から細部まで話は聞いていた。
殺された女は男関係が派手で、当初は単純な痴情のもつれと思われていた。
事件ありきで描かれる被害者像は、奔放で自堕落なものだったが、捜査が進むにつれて彼女は全く別の一面を見せた。
周囲の人間たちによれば、それは大人しい人間だったらしい。
いつも控えめで、女性らしく慎ましやかであったというのだ。
行動面での乱れが裏の取れた事実であるとすれば、彼女が極端な二面性を持っていると仮定することも出来た。
だが、実際に交渉を持ったという男たちが細々と証言するに従って、そうした場面にあってもむしろ大人しく従順な女性であったというのが正しいということになった。
ではなぜ、多数の男とみだらな関係を持つに至ったのか?
男の一人がおずおずとそれに答えた。
『他人の情をはねつけることに、罪悪感があったんやないかと思います。人に頼られたら頑張る、求められたら応じる、流されるいうより自分から巻き込まれるタチいうか』
報告した老刑事は、苦々しい声だった。
事実、彼と組んでいた森下によれば、それを聞いた彼が地面に唾を吐き捨ててさっさと立ち去ってしまったと苦笑していた。
かくいう森下も、非礼を詫びながらその声に空々しさが隠せなかったという。
『おい、先生よ』
老刑事は会議の後に言った。
『一体、世の中はどうしてもうたんや。スベタや思うてたら、情のこわい女やいう。おまけに、行きずりの女にその情を求める男が列つくっておるわ。そんなかにイッコでもほんまもんはあったんかい。にせもんを情と呼ぶんかい。わしには分からん』
『女の心理状態ははっきりしません』
火村はいつも通りのそっけなさで答えた。
『ですが犯人はそれを利用しました。利用した挙句に手にかけた。女は、優しさゆえに殺されたんですよ』
その声音で、アリスには、彼が女についても憤っているのが分かった。
女もまた、利用したのだ。
自分の存在価値を吊り上げようとして、もしくは目に見える優しさを与える優越感にひたろうとして、男たちを受け入れた。
彼女と彼らの周りに真実はひとつしかない。
女が死んだ。
それだけだ。
犯人は列なす男たちのうちの一人だった。
彼は、被害者と飲み屋で知り合い一夜をともにしたが、偶然にも――そして偶然以上に不幸にも――職場が近かった。
男は交際相手がいた。
近々結婚を申し込むつもりだったという。
その彼の周囲に、たびたび被害者が姿を見せる。
単に出勤、退勤が重なっただけのことだが、当然のように職場を知らせあったりしなかった彼は、つけ回されていると思ったそうだ。
プロポーズという一世一代のイベントが待ち構えている彼は、自らの裏切りを棚に上げ、疑心暗鬼にかられた。
そうして、彼女は殺された。
このさびれた街に連れ出され、人知れずこっそりと死んだ。
優しさゆえに死んだ。
だが、男の目に彼女は鬼と映ったに違いない。
火村には言わないが、アリスは、彼女も必死だったのだと思う。
今更生い立ちをほじくる気はないが、人を拒否できない弱さは、見捨てられることへの不安が顕れたものだろう。
嫌われたくない――それは誰もが持つはずの感情だが、彼女はそれが強すぎた。
単なる欺瞞ではない。
彼女の優しさは、全てが自分を守るために働いたとすれば、嘘ではないのだ。
だが、男の保身で曇った目を通し、彼女は鬼として死んだ。
それが一番悲しいとアリスは思う。
逮捕から、実際は二日が過ぎている。
現場検証を終えた犯人が護送のために列車に乗せられた後、アリス達は駅前のホテルに入った。
どうしても見つからなかった彼女の手帳が犯人の指差す場所から掘り出され、これで完全に全てが終わった。
まだ夕方で、帰ろうと思えば夜中前に自宅に着くことはできたが、疲れた様子の火村にアリスは一泊をすすめた。
案外と素直に彼はそれを受け入れ、当日のことゆえツインしか空いていなかったこの部屋に落ち着いた。
火村は無口だった。
いつも以上に表情をなくし、ピリピリした空気をかもし出していた。
外出する気になれず、ルームサービスでとった料理をつまみに、小さなテーブルで差し向かいにビールを舐めた。
「どんくらいの刑になるやろうな」
沈黙が耐えがたくなり口火を切ると、ほとんど食事に手をつけず煙を吐き出していた火村はちらりとアリスを見やり、
「お前はどう思う、法学部卒」
と言う。
ほんの少しだけ軽口めいていて、なんとなくほっとする。
「身勝手で計画的やし、けっこう重いはずや」
「はっきりしねぇな」
「余計なこと言うてもどうせ君にけなされるし」
「心外だ。長い付き合いなのに俺の評価がそれとは」
「長い付き合いやから、やろ」
彼が笑ったのを機に、アリスはひと言告げて風呂に入った。
やはり直接帰らずに良かったと思う。
あがったらもう一本だけビールを飲んで寝よう。
火村は決して、アリスより先には寝ないだろう。
だが、浴衣をひっかけて部屋に戻ると、最後の一本を火村が飲んでいるところだった。
憤然とし、
「こら。俺の分を残しておくくらいの優しさはないんか」
彼はちらりとアリスを眺めた。
だが黙っている。
「もうええ、それを寄越せ」
手にしている残りを指差すと、火村はいきなりそれを一気に煽った。
これにはアリスも珍しくむっときて、
「お前なぁ!」
と彼のそばにぐいぐいと歩み寄って、缶に手を伸ばした。
その手が届く直前で、缶は床に投げ捨てられた。
空っぽになったらしい軽い音がして、けれどアリスの手は落ちる前に火村に掴まれた。
そしてそのまま引き寄せられる。
何時の間にか立ち上がった火村が、アリスのあごを掴んで上向かせた。
覆い被さってくる友人の顔を、呆然としたまま見ていた。
唇が合わせられる。
その隙間から、生ぬるいビールが流し込まれた。
気の抜けたような味に不快を感じたが、わずかに唇の端からこぼれた感覚がそれよりももっと不快で、とっさにごくりと飲み込む。
量はさほどなかったが、二口、三口と喉が動いた。
「……ぅ……んっく」
その喉の動きを、火村の手のひらが確かめるように押さえていた。
もう入ってくるものがなくなってから、ようやく頭が回り出す。
見開いたままの目の前で、火村もまた、じっとアリスを見ていた。
彼の舌がアリスの唇を舐めた。
呆然としていた体が、はっとしたように動き出し、顔をそらす。
唇はあっけなく離れた。
「……なんの、つもり、」
むせた。
ビールの清涼感などひとつもなく、ぬるい苦味だけが舌に残っている。
「お前が飲みたいって言うからさ」
「ふざけんなッ」
さほど面白くも無さそうな物言いに、怒鳴りつける。
火村は口元を歪めて笑った。
アリスは彼のその笑い方が好きになれない。
彼に笑われているのは、彼自身だからだ。
「そう怒るなよ。せっかく事件も終わったってのに、なじみの女もいないこんな寂れた田舎じゃあ、溜まったストレスも解消できやしない」
一瞬、怯んだ。
だがアリスが拵えてきた仮面は、わりと強い。
「逆に田舎やから好き勝手できるやろう。駅向こうが花街や。行って来い」
「お前は?」
「俺は金で買える人間に興味がない」
「奇遇だな。俺もだ」
掴まれたままだった手首が、ぐいと引かれた。
ほとんど出歩きさえしないアリスでは、若い頃に鍛えていた筋肉が衰えないままの火村に敵うはずも無い。
よろめいて、踏みとどまったところを、窓に押し付けられた。
「まっ……」
待てというより早く、顎を固定され口付けられた。
温かいキャメルの匂いのする唇が、ぎゅっと閉じたアリスの唇を食む。
望まなかったとは言わない。
火村は知らないが、アリスは彼に対して友人以上の気持ちを抱いてきた。
けれど恥ずかしくも純粋な想像のなかでは、女の代わりにされるはずなどなかった。
遠ざかった唇が、右の耳の、そのてっぺんに押し付けられる。
体が震えた。
「まともに眠れる気がしない。付き合ってくれよ、アリス」
低い声が流れ込み、体の中をかき回していく。
「なにが……そんなに」
「なに?」
「この事件のなにがそんなに、気になるんや。君、今回はずっとピリピリしてたやないか」
すぐさま落ちそうな意識を必死で保ち、はっきりした声を装って聞いた。
火村は表情を硬くした。
だが、それはあの自嘲の歪んだ笑いに変わる。
「言えばベッドに行ってくれるのか?」
「それは……!」
「唐突に欲情されてもまともに向き合ってくれるのは、長い付き合いってやつがあるからだろう? 後で埋め合わせする。今はその俺に対する理解に免じて、条件を呑めよ」
「埋め合わせってお前……飲み代一回分とかやないやろうな」
迷いに結論が出せず、時間稼ぎで毒づいてみる。
火村はいつものような、ニヤリとした笑いになった。
その顔は、好きだ。
「応相談、だな」
腕を引かれ、ベッドの方に連れて行かれる。
「まだ、ええって言ってへん……!」
「あの女は母親に似てる」
放たれた言葉に衝撃を受けて、何もかもがおろそかになった。
どさり、と背中がベッドに落ちて、ようやく、無理やりに契約させられたのだと気づいた。
今更遅くもあり、けれどそれ以上を拒むために耳を塞ぐことができない。
「身持ちが悪いって意味じゃない。品行方正だったぜ? だが、似てるんだ」
顔、ではあるまい。
あの女と火村の見た目に共通するところなど、ひとつもない。
恐らく優しさだ。
中身の無い、誰にでも与えられる、その実愛しているのは自分だけだという、後に残らない優しさ。
元から解けかかっていた浴衣の帯が、頭上に放り出された。
アリスは動けない。
かろうじて、震える声で聞く。
経験はあるのか、と。
「さあな」
火村の顔は、天井の薄暗い灯りを背負っていて、よく見えなかった。
これは無理強いではない。
アリスは納得ずくで提案に乗った。
だから、本来なら火村に対して何らかの行為を返すべきだろう。
だが彼はアリスを女に見立てているのか、責め苛むばかりで奉仕を望んだりはしなかった。
身体中で火村の触れなかったところはない。
執拗と言えるほどに快楽を与えられる。
自分の技巧を見せつけるつもりか、指で、舌で、唇で、強く、軽く、焦らされ、喘がされた。
「ちょ……ちょと、待て、もう……」
「まさかもうやめるなんて言うんじゃないよな? まだ何もしてない」
「ぅ、ぁ、……ッ、せ、せめて休憩……」
休み無く攻め立てられて体力が持たない。
アリスが身を捩ると、火村は諦めたように体を離した。
「ったく、冗談じゃねぇぞ、閉じこもり作家」
明らかに不満そうだが、仰向けになって煙草を吸いつける。
アリスの持論では、女は快楽に強いのだ。
鈍いのではなく、いくらでも飲み込める。
火村が女と比べるようなことを言ったらそう言い返そうと思ったが、彼は黙ったきりだった。
「……まだ何もって、お前、もしかして、その……」
「当然だろ」
濁した質問を、当然のように肯定された。
男同士でも挿入までは至らないカップルが多いと聞くが、ノーマルなだけに、最終的な行為をしたがるのだろう。
「……でも準備もないし……」
「へえ」
ひょいと火村が片眉をあげる。
「準備? 詳しいな、アリス」
いつものようにからかわれただけだ。
そうは分かっていても、内心を見透かされたような気になって、上手く言い返せない。
特別調べたわけではないが、持っている雑学のなかからそうした事柄を何度か思い起こしたことは確かだ。
煙草を押し潰した手が伸びてくる。
それを押さえた。
「待てって、まだ無理や」
身体を起こすと、予想以上に動きが重い。
明日の朝が怖い、とため息をつきつつ、焼かれるような快楽を与えられつづけるよりもマシだと思い、火村の太ももを跨ぐ形で上になる。
吃驚したような彼の腰に腕を差し入れ、片側にずれていた身体を真中に引きずった。
「なんのつもりだ?」
「さあ。自分でも分からんわ」
火村の顔の両側に腕をつき、そっと唇を噛んでやる。
女のように振舞うことに、抵抗などなかった。
下にいる男の身体を、乱暴にならないよう気をつけて探る。
肩に口付け、軽く噛み付いてやる。
ぴくりと火村が動く。
「痛かったか?」
「いや。もっと強く噛んでいい」
「あほ。痕がつく」
そう言ったとたんに、片腕で半身を起こした火村がアリスの肩に噛み付いた。
強く、きつい痛みに声をあげる。
どさりと再び身体を落とした火村に罵声を浴びせながら確かめると、我ながら生っ白く薄い肩に、くっきりと噛み痕がついていた。
彼は声を出して笑っている。
「何の真似や、阿呆! くっそ、痛いやないか!」
「……ああ、すまん。お詫びに、」
と言いながら、足の間に手を差し入れてくる。
腹が立って、その手を払いのけながら火村の口を両手で塞ぐ。
筋肉のついた固い肩に歯を立てる。
手のひらの下で、彼がうめいた。
血こそ出ていないが、くっきりとついた痕は、明日には青くなるだろう。
そのまま首筋に口付けると、明らかに彼の体が固くなった。
今の勢いで薄い首の皮膚に噛み付けば、血が出るに違いない。
とっさにそう感じたのだろう。
だがアリスは、この上なく優しく舌を押し付けた。
押さえていた手を外し、指先を火村の唇の間に割り込ませる。
ざらりとした舌に、人差し指が絡め取られた。
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