2.
毛先が肩に届くくらいの髪に戻っている。
アリスは、しっ、と人差し指を唇にあて、火村の腕を引っ張ってドアを閉めた。
「ちょうど良かった、君、鏡持ってへん?」
「持ってない」
「……ま、そやろうとは思うたけどさ」
窓際に戻る背中は、まだ剥き出しだ。
ストールは外されヒールは脱ぎ捨てられている。
「何に使うんだ」
「顔落とそうと思うて。うっかり忘れて来たみたいや」
「化粧だろ、小説家志望」
メイク落としのコットンを片手に窓に向かっているのは鏡代わりにしようという目論見だろうが、薄暗いこの部屋では、逆に景色が良く見える。
「やってやるよ」
「ほんまに? おおきに、でも痛くせんでな」
睫毛がまたたく。
ただでさえ大きな目が、くっきりととられたアイラインとマスカラでますます強調されていた。
きょろきょろと周囲を見回したその目が、隅の机を捉える。
古いががっしりとした造りで、アリスはそれにひょいと腰掛けて、手にしたコットンをずいと突き出した。
正面に立ち、受け取ったそれでぐいと頬を拭った。
「イタ! 雑巾がけやないで!」
「だって取れないだろう?」
「そっとでええねん、そっとで」
「はん……初めてじゃねぇんだな、さては」
鼻の横から耳の付け根までをさっとふき取る。
少しずつずらしながら、顎まで。
逆側と、鼻。
「イメージ作りとか言って、3回くらいやったかな。全部違う顔やったで、あの子、凄いな」
「ああ。目指してたらしい」
「詳しいな。仲良さそうやったもんね。自分ばっかもてよって」
ふき取ろうとした唇が、軽く尖っている。
つやつやしたピンクベージュは、濡れて光っているように見えた。
「同じゼミだからな。ほら、口」
促すと、口元が緩んで半開きになる。
端から端までを、今まで以上にそっと注意深くふき取った。
リップの落ちた唇のほうが、赤味を持って色づいている。
「どうやった?」
額の前髪を手のひらで撫で上げ、新しくしたコットンで綺麗にしていく。
化粧などないほうが、肌質が綺麗に見える。
「何が?」
「何がて、俺の女っぷりや」
「女みたいだった」
「そやろ! ちょっとしたもんやったろうが、あれな、歩き方とかめっちゃ特訓されてんで。すね毛剃られたし。しばらく脚は見せられんわ」
「目、閉じろ」
前髪を押さえた手に少し力を込めて押し、上向きにさせる。
アリスは素直に目を閉じたが、顎が上がっているせいか、代わりに口が軽く開いた。
瞼にコットンを滑らせる。
「なんであんなことになった?」
「え? なんで出たかってこと? ほんまは主催者が出ることになっててん。けど、来られへんて言うてた彼女が急に来れる言い出したらしくてな、まだ付き合い始めたばっかりやし、そんなカッコしてるん見せたないって。代わりに頼むって」
「で、断れなかったと」
「うん」
あの主催者の、にんまりした顔を思い出す。
彼女うんぬんはおそらく嘘だろう。
アリスを担ぎ出すため、ひいてはイベントが話題を呼ぶための周到な計画だ。
火村は腹が立って、逆側の瞼を乱暴に拭いた。
「イタいて! なんやの!」
「お人よしにもほどがあるよ、お前」
目を閉じたまま、アリスはむっと唇を引き結び、胸の辺りを手探りし始めた。
V字に空いた胸は少し膨らんでいて、詰め物らしきその間から、アリスは封筒を取り出した。
そしてまた手探りで中身を数センチ引き出す。
結構な額の紙幣だった。
「ただのお人よしちゃうで、ぼったくったった」
に、と笑う。
目はまだ閉じている。
火村がゆっくり撫でているからだ。
「な、火村、これで旅行しよう! あぶく銭や、ぱっと使わな。四国うどんツアーとかどうや?」
「あのな、俺がうどん食ってんのは好きだからじゃない、安いからだ」
「え、そうなん? 知らんかった」
そう、お互い知らないことなんて沢山ある。
まだ知り合って数ヶ月なのだ。
逆に言えば、短い期間の多くを知らない知り合いにしては、随分と気安い仲だろう。
目を閉じて平気でいられるくらい、気安くて、無防備だ。
「うどん好きなんやなーて思うてたわ。教えて貰わんと分からんもんやね」
「うどんは別に好きじゃないけど、旅行は悪くない」
「タダやし!」
「タダだし」
目を閉じて笑うアリスがあんまり手放しで火村を信頼しているから、少し困って、そして気づいた。
アリスが好きだ。
コットンの代わりに、瞼に唇を寄せた。
一瞬のことだったが、アリスはぱっと目を開け、驚いた顔で火村を見た。
「……今、何した?」
「ごめん」
「や、謝れ言うてんのとちゃうし……」
「うん」
「だから、うんやなく……て!?」
傾けた顔を近づけると、飛び上がるようにして手のひらで火村の口を塞ぐ。
それをぐっと押しながらアリスの太ももの両脇に手をついた。
仰け反るようにした体がバランスを崩して倒れる寸前、背中に手を当てて支える。
素肌に触れた。
ビクン、と震えたアリスは、直後に顔を赤くして火村を睨む。
「なんやの、君! 俺は女とちゃうで!」
もごもごと言葉を呟いてやると、アリスは素直に手を外した。
だからお人よしだというのだ。
抱き寄せながら触れるだけのキスをする。
また固まった。
「なん、ほんと、なに! そっちの趣味か!」
「ああ……そうらしい。自分のことでも分からないものだな」
「しみじみすなや。女のカッコしたんが好きなら、その手の店行けっ」
「馬鹿だな、もしそうなら化粧落とす前にするだろ。俺はこんなの邪魔だと思うけど?」
言いながら、かろうじて肩口にひっかかってるだけのようなワンピースを外す。
背中が大きく開いているせいで、とろりとした生地はそれだけで腰の辺りまで落ちてしまった。
「ぉわっ! な、お前、あの、ちょっと、俺そういうのよう分からんし、ってかマジで、吃驚しすぎて何が何やらっ」
焦りながら胸元に布地を引寄せようとしている。
頬が赤らんでいて、それがとても可愛く見えた。
なるほど同意を得ないままこれはまずいなと、頭の隅では解っていたが、半分痺れたような感じがして行動が伴わない。
理性と身体が切り離されたように、腕は勝手にアリスを引寄せていた。
素早く胸を突いてきた腕が伸びきる前に収めてしまったから、自然に両手を挟んで封じた形になる。
「賭けてもいいけどさ、お前、騙されて客寄せに使われたんだと思うな」
「うるさい。あくまで代理や、そやから問い合わせにも一切情報公開せえへんて約束とりつけられたし、なによりバイト代っちゅう名目で旅行代稼げたんやないか」
火村はちょっと呆れた。
「知ってたのか。嘘って知ってて出たのか」
「ギブアンドテイクやろ。ってか、放せ、俺は……。……て、火村……? 何怒ってんの」
「怒ってない」
びしりと言ってやったが、その口調も、自覚できるほど眉間に深い皺が刻まれているのも、確実にその否定を裏切っているだろう。
腕の中で見上げてくるアリスの額に、ゴツンと頭突きをしてやった。
「たッ! なにッ!」
「イヤだな、そういうの」
「なにがッ! 金貰うたことか!」
「そうじゃない」
たった今攻撃した額の真中に、唇をつける。
アリスが固まる。
構わず、こめかみに、目尻にキスを落とし、最後に耳の傍に口をつけながら、
「みんながお前を見てた。ああいうのはイヤだ」
「い、イヤなんは俺、や、も、離れ……」
「誰にも見せたくない。聞こえてきたぜ、『俺、有栖川ならいける』とか『有栖川でもいいなぁ』なんてさ。そんなふうにお前が見られるのはたまらなくイヤだ」
「だって、そんなん……そういうの狙うたんやもん、ええやんっ」
「良くない。みんなお前に女をかぶせたり、好みのタイプをあてはめたりしてみてるんだぜ? その程度で可愛いとか好きとか言って欲しくない」
耳朶に唇を触れさせると、アリスの身体がピクリと動いた。
支えている背中の手で、指だけをそっと滑らせる。
「君……もの凄い恥ずかしいこと言うてるで、自覚あんの?」
「ある。一応。でも言わないと伝わらないだろうし、お前、鈍いから気づいたりしないだろうしな」
「悪口!?」
「ただの感想」
「余計に腹立つわ!」
身を捩らせたアリスは、火村の手を振り払い、けれど目の前に立ちふさがるのを押しのけることは出来ないと知っているのか、ずるずるとデスクの上を後退していく。
自分から追い詰められたいのか?
モルタルの壁に背中が触れ、冷たかったのか慌てて身体を反らした。
すかさず肩で押し付けるようにしてアリスを固定し、首筋に顔を押し付ける。
唇に触れる肌にはまだ化粧の匂いが残っていた。
「アリスの匂いがしない」
「……ッ、俺は、お前のやらしい匂いでむせ返りそうや、アホ……何する気や、ぁ、こ、コラ!」
アリスの足首を両方掴んで、膝を開く位置で机に押さえつける。
ワンピースは腰の辺りに溜まり、裾から色気のないボクサーパンツが覗く。
さすがに無茶苦茶に抵抗する拳が胸に痛い。
「アリス。嫌なのか?」
「当たり前やろ!」
「ホントに? 俺のことは嫌いか?」
「き……、や、そういう問題とちゃう!」
「どうして? そういう問題だろう?」
大真面目な顔で言う。
アリスが戸惑ったように、身体を引く。
「……そ……いや、ちゃうやろ。……多分」
「どうして?」
「そやから……そやって、君のこと嫌いやないし……」
「じゃあいいだろ」
「だからなんで! そこがおかしいやろ!」
「どういうふうに?」
耳朶に唇を触れさせたまま、低く問い掛ける。
この手のスキルはさほど高くないが、火村にはアドバンテージがある。
アリスはいつか、火村の声は人を虜にするように出来ていると、酔っ払ってぐだぐだと言ったことがある。
君の声はズルイ、すごく良い声でズルイ。
「せやから……」
「おかしい?」
「ん、おかし、……ちょ、ぁ、あかんて……」
ちゅ、ちゅ、と耳の丸みに沿ってキスをするたび、アリスの抵抗が緩んでいく。
必死で膝を閉じようとしているが、足首を固定されている上、火村が身体を割りいれていて上手く行かないらしい。
我ながら滑稽なほど切実な声で名前を囁くと、困ったように俯く。
ひたすらな好意を撥ね付けられないでいるお人よしに、つけこんでいる自覚はある。
同時に、彼を自分が立つ場所へ引きずり込む自信もあった。
「気持ち悪い?」
「そういうこととちゃう……」
「違わないね。拒否するのはそういう本能だ、一瞬のことだろう?」
すぐ近くに立てられていた膝に唇を押し付ける。
そのままゆっくり、内側を通って、曲げられている膝の裏側に軽く舌を差し入れる。
ビクン、と逃げようとするが、せいぜい数センチ動けるだけだ。
「なに、舐め……」
くすぐり、骨を味わってから、太ももへ移動する。
筋肉が時折痙攣していた。
半ばまで降りた時、アリスの手が火村の頭を押さえた。
「待て、待て、ヤバイ、マジで」
本格的に焦った声を聞いて、それを後押しするように、白い腿に歯を立てた。
あ、とアリスが小さく叫ぶ。
吐息混じりの、喘ぎにも似た音だった。
じわりと腹の奥が熱く重くなり、堪えきれずに身体を起こしてアリスの顎を捉えた。
火村の髪にもぐっていた手がぱたりと落ちる。
唇を寄せていく。
キスしたい。
声には出さず、目と仕草だけで伝えた。
ひむ、とアリスも声を出さないまま呼んだ。
あと一センチの位置で、それまでも少し閉じかけていた瞼が降りたのを見た。
受け入れたのか流されたのか、それは分からなくとも、求めるものは同じらしい。
キスしたい。
キスをした。
さっきの触れるだけのより深く、何度もした。
少しだけ唇を舐めると、アリスが小さくうめく。
それを合図に、歯列を割って舌を絡めた。
おずおずとしてはいるが、わずかに舌先を吸われる。
「ん……ん、ふ……」
鼻にかかった声とともに、ぎゅっと首に腕が回った。
たまらなくなって、壁から引き剥がすように腰を抱き寄せる。
瞬間のことで、机から落ちた足の行き場を失いバランスを崩しかけたアリスは、その片足を火村の膝に巻きつけた。
口吻けはますます深くなり、時折、唾液がいやらしい音を立てた。
確信犯的に、腰を押し出す。
互いのものが擦れあう感覚に、タイミングを計ったはずの火村でさえ、うめき声をおさえきれなかった。
ましてや突然に触れられたアリスは、ひ、と声を洩らして身体をひくつかせる。
強い波が引く前に、グラインドさせるように密着し続けた。
「ぁ、な、なに、してん、」
「言おうか?」
「あほ、やめろってことやっ」
「今更うるさいね、お前」
今更、の意味を思い知らせるために、隙間から下着越しのそれを指先で撫でる。
押し黙って顔を真っ赤にさせたアリスの手を素早く掴み、自分のものに導く。
本当はそんな必要もないくらい、はっきりと張りつめていることが分かっているだろう。
だらりと力の抜けた、されるがままの手を、さらに押し付ける。
けれどそれは、拒否もしていないということだ。
「脱がせて。直接触ってくれないか」
「っ、なに、言うてん、君」
「頼むよ、アリス」
いっそ懇願といってもいい声を出すと、アリスは困ったのを通り越して泣きそうになった。
こんなことになろうとは、予想もしていなかっただろう事態に、かなり追い詰められているようだ。
残念ながら、そんな悲愴な顔をしたところで、火村は彼を逃がすつもりなど毛頭ない。
反論しようとした口を塞ぎ、指をベルトに導く。
うっすら目を開けたままの火村の眼前で、アリスのぴったり閉じられた瞼の睫毛が濡れて束になっている。
流されるようにバックルを探っているのを確かめてから、彼の下着のウエスト部分に指先を引っかけ一気に下げる。
慌てている身体を抱きしめ、手のひらで優しく扱いた途端、きゅっとアリスが仰け反った。
「……ッ、ぅ、ぁ!」
「アリス、俺のも」
「ぁぁッ、待っ……うそ、なんでっ……」
「悪くないだろう?」
とろとろとこぼれた雫を推し戻すふうに、親指を押し付けていく。
せっかくベルトに導いた手は、火村のシャツをただ握っていた。
その手をむしろ乱暴に掴み、再び下肢に押し当てる。
ジーンズ越しの苦しさを理解しているゆえか、浅い呼吸のままもどかしそうにバックルを外してくれた。
前をくつろげ、下着の上から昂ぶりをおずおずと握る。
「どうしても嫌ならやめていい」
親切ごかして逃げ道を示しながらも、それはしょせん、警告はしたぞという事実をつくりたいだけでしかない。
今の火村には、そんな自分に嫌悪を覚える余裕さえなかった。
むしろ、そんな手を使ってまでも追い詰めたいと思っているその執着に、我ながら驚くだけだ。
アリスは火村の手淫にほとんど身を委ねている。
この場を逃れようとするさっきまでの構えが崩れ、快感を得ようとする姿勢に変わってた。
半ば朦朧としたような表情で、アリスは火村の下着を押し下げ、生身のそれに触れた。
思わず小さくうめく。
目の前のアリスの首筋に顔を押し付け、背中を抱く。
「ひ、ひむら……」
呼ばれたとたんに、自分でも分かるほど下肢がびくりと力を得た。
アリスはそれに驚いたように手を止める。
「やめんなよ」
「ちから、入らんのや……」
助けを請うように言われたその声には、行為の先への期待が色濃く滲んでいた。
深い満足に、火村は笑みを洩らす。
自分の手や声にあからさまに反応する火村に、ばつが悪そうな顔をしたアリスが、それでもようやく本気を悟ったようだった。
その隙を逃さず、互いの手が入るくらいに離れていた腰を押し付ける。
引かれそうになる背中を抱いたまま、空いた手で、触れている互いをまとめてアリスの手ごと握りこむ。
「ッ……」
目を閉じ喉を反らす。
息を詰めた後、掠れた声で、火村の名前を呼んだ。
女を重ねるわけでもなく、現実から逃げようとするでもなく、火村と確かめた上でシャツを掴んだ。
膝に絡んでいたアリスの脚が、力を失ってぶらぶらと揺れる。
それに気をとられている間に、頭をぽかりとやられた。
「……あほっ!」
「ごめん」
「ごめんで済むか!」
「責任とるって」
「なんのじゃぁ!」
漫画なら青筋のマークがつきそうな顔で、また拳が飛んで来る。
本気ではないがそれなりに痛い。
なのに笑いがこみ上げて止まらない。
そんな火村の様子を見て、アリスは耐えがたいというように足をばたばた机に打ち付けた。
「なんやねん、なんやねんな! お前な、そんな顔どこに隠しとったんや、ニヤニヤしやがって、浮かれた火村なんて変や!」
「変か?」
「おおいに」
アリスが諦めにも似たため息をつき、火村を押しのけて、自前の服に着替え出す。
自分も身繕いしながら、隠しもせず眺めていると、またため息だ。
「お前、なにがしたいんや」
「そりゃあ……」
ここに至ってようやく、了解もなしに手を出したことが、今後の交渉に不利に働くだろうと悟った。
気持ちから口説き落とすべきだったか?
言葉に詰まる火村を前に、アリスは持ち前のしたたかさを取り戻している。
「ただでさえ高いハードル、自分からかさ上げするとは見上げた根性や。ま、お手並み拝見てとこやな」
立ち直りまでが見上げた早さだ。
それとも、時間を必要とするような落ち込み方はしなかった――ということはないだろうか。
「都合のええ考えにひたる暇があったら、学外まで人に見つからんルートを検索せんかい」
見抜かれた。
その回転の速さも、得難いものだ。
ならばやはり、全力でいかせてもらうしかないだろう。
早くもその内心を見抜いたらしいアリスは、ニヤニヤしていた顔を少しだけ引きつらせた。
end
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