注:アリス学祭で女装ネタ。苦手な方注意。エロい火村が嫌いなかたも注意。

9.だんだん (身代わり)






1.






ラウンジを通りかかった火村はたまたまアリスを見つけ、その顔があまりに渋い表情を浮かべていたので驚いた。
今年になって知り合いになった男だが、いつも機嫌が悪そうだと評される火村とは逆に、彼はたいてい人当たりの良い笑みを浮かべている。
例外もあるが、それは火村が彼と知り合いになったきっかけに関係があるのがほとんどで、つまりは趣味に熱中している時は場合によって気難しい表情をしていることもあるけれど、という程度であって、普段あんな顔をしているところは見たことがない。

急速に親しくなった者同士の常で、火村と彼、有栖川有栖はお互いの友人達をほとんど知らない。
特に学部も違うせいで、火村がアリスの友人だと認識しているのはせいぜいが2,3人だ。
だから、今彼の目の前で、彼をそんな珍しい表情にさせている男が、友人の範疇に入るのかどうかが分からなかった。
困っているのだろうか。
少し考えたが、困っていたとしても火村が助けなければならない謂れはない。
子どもでもあるまいし、放っておいても大丈夫だろうとその場を去った。
授業の時間が迫っていたからだ。




数日後に顔を合わせた時は、アリスはいつも通りの愛想の良い笑みを浮かべていた。

「おう火村、学食行くん?」
「ああ」
「君、シャツ一枚で寒ないんか」
「ああ」

そっけない口調は直せないが、横に並んでくるアリスに合わせて歩調を緩める。
それが一緒に行くかという火村の誘いだと分かっている彼は、柔らかそうな薄いセーターの袖口になんとか指先を隠そうとしながら、嫌な顔でこちらを見ていた。
見てるこっちが寒い、と呟く。
だったら見なけりゃいいのに、とおかしくなる。

「鍛え方が違うんだよ。お前、その服ちょっと大きいんじゃないのか?」
「おとんのやもん。中年サイズなんやね。けどオッサンものだけにモノはええよ、肌触りとか」

火村と比べればあきらかに、そして平均的な大学生よりも少し、細身のアリスはそれを絶対に指摘するなというオーラを出しながら睨みつけるように言う。
内容だけは親しげだが、コンプレックスへの言及を封じる口調だ。
口元が笑ってしまったのに気づいただろうが、賢明にもからかうのをやめたので、アリスは見なかったふりをしたらしい。

「アクリルのセーターとか、たまに首周りかぶれたりすんねん。でもほらほら、これは平気やねん、めっちゃ柔らかい」

手の甲の半分を覆ったセーターの袖口で、すりすりと火村の頬を撫でる。
アリスの匂いに混じって、かすかに煙草の香りがした。

「お前の父親、煙草吸うのか」
「げ。なに、ホームズ登場?」
「はァ?」
「ああ、匂いか。いや、おとんも吸うけど、でもそれは俺のやな。クリーニングの袋やぶって着て来たんやもん」
「お前、煙草吸うの?」

意外で少し、驚いた。
アリスはそんな火村に、はははと笑う。

「あれ、知らんかったんか。言うても、自分じゃよう買わんし、たまにしか吸いたい思わんからな、貰い煙草ばっかりや」
「ふうん……」
「袖が長いから焼け焦げつくりそうんなって危険やったわー」

煙草を吸っているアリスなんて、想像できない。
なんとなく、クリーンに生きているイメージがあったからだ。
白さが目立つ肌に、ニコチンはあまり似合いそうにないと思った。

「良かったな。焦がしてたら、昨日入ったバイト代はパーだったぜ?」
「なんで人の給料日知ってんねん。ってかセーター代よりは高いわ」

火村は給料の額を威張って告げるアリスに、

「ぎりぎりってとこだと思うが」
「ぅえ? 嘘つくな」
「それ、アンゴラだろ」
「高いん?」
「高いな」

さっきの肌触りからすると、相当の高級品だと思われる。
柔らかな感触がまだ残っていた。
無意識に、そこをひと撫でする。

「なァ火村、アンゴラってなに?」
「うさぎ」
「うさぎ……」

可哀想だなんて言うなよ、と、立ち止まってしまったアリスから数歩行って振り向く。
彼はセーターをめくりあげ、左脇についているタグを、目をくるくるさせながら読んでいた。
滑らかな白い腹が剥き出しになっている。
軽くひねったウエストのラインは、同じ男とは思えない。
裾を戻したことでそれらが隠れ、火村はそこでようやく、自分が視線を釘付けにされていたことに気づいた。
そんなそぶりを見せないようにことさら何気なく顔をあげると、アリスもちょうどこちらを見ていて、視線が合うとにっこりとそれは幸せそうに笑った。

「うさぎ100パーセントー」

ふかふかのうさぎに埋もれているさまを想像しているに違いない。
なんとなく、脱力した。









さて、件のアリスが渋い顔をしていたあれ、あの意味が解けたのは、10月のことだった。
正確に言うと、学校祭の日だ。


火村は人ごみを歩いている。
もともとは全く興味がなかったし、ゼミ単位の模擬店も有志だけで当番がまかなえてしまったようなので、これ幸いと不参加を表明してあった。
一年の時は、イヤイヤながら、ラウンジやロビーで流す各模擬店のCFを担当した。
つまり、当日以前に火村の学祭は終わっていたのだ。
だから、二年目にしてお祭騒ぎの構内にこうして初めて足を踏み入れたことになる。

一般の客が多く、歩くのにも一苦労だ。
だが学生らしく、人気の少ない道を選んで目当ての場所に向かった。
目当ての場所。
管理棟前の、特設ステージだ。
全く興味のない文化祭に足を運ばせた理由は、全てここにあった。
アリスがミスコンに出るというのだ。


その情報を火村にもたらしたのは、当然ながらアリス本人ではなかった。
むしろ、ちらりとも匂わせなかったあたり、考えが透けて見えるどころか自分からべらべら公言して憚らないような彼であっても、秘密くらいは持てるのだということだろう。
とにかく、アリスはそのことを必死で隠していたようである。

今思えば、お祭騒ぎの好きな彼のこと、火村を無理矢理連れ出してもおかしくない。
いやいっそその方が自然だ。
なのに、君は行かんのやろ?とわざわざ確認したくらいだった。
肯いたとき、そういえばホッとしていたような気がしないでもない。
いや、いくらなんでもそれは後付けか。
とにかく、アリスではなく、同じ下宿の坂本という学生によってその秘密はあばかれた。

『火村、今年は学祭行くんやろ? 今日やで、今日、あのアリスが女装するいうオモシロ企画や、見逃せんわこれ。しっかし考えたヤツはどんだけやねんな、あの身長やし、子どもみたいな顔つきやし、似合うわけあれへんがな! ああ想像しただけで笑える。そや、写真撮ったろ。卒業までたっぷりからかって笑えるで、これは!』

あっけにとられている火村を尻目に、坂本はウハウハと自室にカメラを取りに行った。
女装?
話の内容にひたすら呆れていた火村は、そこでようやく、ラウンジでのあの不機嫌なアリスを思い出した。
喜んでやるはずのない役回りと結びつけるのは簡単な話だ。

思わず眉間に皺が寄った。
道化役を演じるのはアリスの柄に合わない。
それを面白がる周りの連中を想像すると、なんとなく苛立ちが募る。
そして気づいたら、学校に向かって自転車を走らせていた、というわけだ。


ステージのある広場は、かなりの人出だった。
もうそろそろ始まるという時刻に着いてしまった火村は、前のほうには近づけない位置しかキープできなかった。
これでは、舞台に立つ人間の表情も見分けられない。
参ったな、と思っていると、

「火村君?」

と声をかけられた。
振り向くと、同じゼミの同級生だ。

「どうしたの、来ないんじゃなかったの?」
「そのつもりだったさ」
「あら、じゃあもしかして、アタシの腕を見に来てくれたの?」

何のことかと、陶器のような滑らかな顔に視線で問い掛ける。
くっきりとした二重が、長い睫毛をぱたぱたとさせた。

「違うの? アタシ、このミスコンのメーキャップ担当したのよ」

そう言えば、彼女は将来メイクアップアーティストになりたいといつか言っていた。
飲み会の戯言で、実際は海外勤務のある大手商社への就職を目指していたはずだが、思わず口から出てしまう程度には腕に覚えがあるということだったのだろう。

「担当? 全員か?」
「そうよ。すごい?」
「一人、男がいたはずだが」

そう言うと、彼女はポンと手を打って、なるほどという顔をした。
いちいちリアクションが大きい。

「ああ、あの子を見に来たの? へぇ! 意外、すっごい意外、火村君って結構あれね、物見高いのねぇ!」
「……意外の意味は分からないが、まあそうだ。友達なんだ」
「へぇ、友達いたんだ」

真顔で言われた。
その点について何かひと言あるべきかどうか悩んだが、彼女はさっさと火村の腕を掴み、

「じゃあこんなとこにいても駄目でしょ、こっちこっち。関係者スペースに入れてあげる」
「おい、なにもそこまで」
「来ないと後悔するわよ。一生よ。友達なら見逃しちゃ絶対駄目、絶対駄目よ!」

簡素な柵を避けて、ステージの両脇に据えられたスピーカの正面あたりに並べてあった、パイプ椅子に座らせられる。
実行委員らしき腕章をつけた学生達が少し離れたところにいた。
舞台中央に立った司会者が、驚くほど近い。
これではアリスからも見えるだろう。
火村は居心地が悪くなり、やっぱり戻るよと隣にいた彼女に言おうとしたが、目の前にあったスピーカがオープニングの音楽をがなりたててそれを消してしまった。

しっかりと腕を掴んで放さない彼女は、目を輝かせて食い入るように前を見ている。
つかめなかった夢の切れ端だ。
最初で最後の晴れ舞台なのだろう。
ため息をついて、火村は椅子に沈みこんだ。


各ゼミの代表らしい女子学生が次々と出てくるたびに、手元のリストと照らし合わせながら隣の彼女が名前やらメイクのポイントやらを教えてくれる。
正直どうでも良かったが、熱心に話している様子にとてもそうは言えなかった。
そしてようやく、

「つぎで大トリよ、ほら、有栖川君よ」

と言う声で、うとうとしていた顔をあげた。
音楽が大音量で鳴っている。

「男と女は、身体だけじゃなく顔の骨格も違うのよ。目立つのは額の形、頬骨の位置、頬のライン、顎の形ね。陰影でいくらか誤魔化せるけど、中身までは変えられない。だから女装しても男ってなんとなく分かっちゃうのね」

『さあラストはいよいよ、法学部某ゼミ代表、匿名希望さん!』

司会者の声に合わせ、全員の視線が下手の袖に向かう。

「有栖川君はちょっと童顔だけど、だからって女の子みたいにしようと思ったら駄目よ、逆よ、中性的な顔立ちはむしろ思いっきり大人っぽくつくるの」

ストールを羽織った女がゆっくりと歩いてきた。
膝丈のシンプルな、しかし綺麗なカットのワンピースを着ている。
歩き方の微妙な加減で、女じゃない、とようやく気づく。

アリスだ。

柔らかそうな生地が歩くたびにとろりと揺れた。
大きな巻き毛が顔をとりまき、輪郭と喉のあたりを隠している。
それでもなお、柔らかく微笑んだ魅力的な目元と、対照的にやけに色気のある唇の艶は観客の全てがしっかりと目にしただろう。

「膝の形も変えられないからぎりぎり隠した位置で、大事なのはその膝と足首の向き、そしてつま先から入る歩き方ね。彼はとても肌が綺麗。筋肉のつきかたはやっぱり気になるけど、それは仕方がないわ。見て……笑うわよ」

言われなくとも、火村は目がそらせなかった。
舞台の真中で止まったアリスが静かな動作で顎を引き、かすかな上目遣いで観客を見回す、と、つま先が優雅にターンしてゆっくりと身体が反転する。
下からすくうような視線だけが残る。

半ば振り向けた背中越しに、アリスは火村を見た。
そして、凄みさえある妖艶な笑みを口元だけに浮かべ、視線は鋭く一瞥をくれる。

一瞬のことだった。
すぐに顔が見えなくなる。
そうして向けた背中は、半分ほどがストールに隠れ肩の不自然さを隠していたが、残りの半分は大きくえぐれ、あと数センチで尻かと思うようなところまで素肌を曝している。

突然、物凄い歓声と拍手が起こった。
それまで呆然と見ていた学生達が我に返ったのと、アリスを知らない人々が彼の性別に気づいたのがほぼ同時だったのだろう。
耳が痛いほどの指笛と、男子学生の下品な野次が飛ぶ。
アリスはそんな観客たちを完璧に無視し、後はまったく正面を見ることなく、上手の舞台袖に消えた。


場は騒然となる。
性別を問う声と、匿名だったその名前を周囲に問う声、時々聞こえる、アリスという響き。
黙れ、と思う。
隣の彼女が火村の腕を引き、

「行くわよ!」

と一言、スタッフオンリーの幕をくぐった。
舞台の両端は長く暗幕が張られていて、広く目隠しされていたのだ。
ずらりと並ぶ出場者達の間を縫って、アリスを探す。
見当たらない。

「ねぇ、有栖川君は?」

彼女の声に、悲痛な実行委員の叫びが重なる。

「「「「逃げやがった!」」」」

一人、にんまりと微笑んでいる男がいた。
あの、アリスを不機嫌にさせていた男だ。
どうやら、ここで消えるのは打ち合わせ済みだったらしい。
火村は憤慨している彼女の肩を叩き、ありがとうと礼を言ってその場を離れた。
行き先に心当たりがあった。





並木道を横切り、図書館の入り口に飛び込む。
たいした距離でもないのに、少し息があがってしまった。
運動不足かな、と苦笑しつつ、司書の鋭い視線にたしなめられる前に息を整え歩き出す。

二階の、古典文学の棚のさらに奥、誰も読まないような埃っぽい一角があり、その左手の暗がりに短い階段がある。
人が一人通れるかどうかの幅で、ほんの数段を上がって小さなドアを開けると、換気用の小窓がある狭い部屋に出る。
空調設備が整った十数年前から使われていないせいか、新しい司書などは存在を知らないだろう。
アリスが偶然見つけたこの部屋は、時々、閲覧室での書き物に飽きた火村がこっそり煙草を吸いに来る隠れ家だった。

階段に足をかけると、ギィ、と板が軋む。
中から息を潜めるような気配があった。

「アリス」

小声で呼ぶと、数秒を置いてぱたぱたと足音がし、ドアは中から開いた。












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