2.
人間の作動記憶は、7プラスマイナス2チャンクといわれている。
いわゆる、マジカルナンバーと呼ばれる領域だ。
このエリアにあるチャンク数なら、瞬間的に記憶できる。
あとはそれを長期記憶へ移行するために、リハーサルを繰り返せばよい。
チャンクとは、簡単に言えば塊である。
例えば、ケータイ電話の頭は必ず、090か080で始まるが、この三つの数字は例外なくセットであるから、一塊として覚えることが出来る。
すると、11桁の電話番号は、頭の三桁ワンセットプラス残りの8桁で、9チャンクとなる。
一般的な人間のワーキングメモリにインプットできる最大値というわけだ。
そして私はそれをしっかりと長期記憶に植え付けた。
ということで、
「あ、葛西さんでいらっしゃいますか? 有栖川です。こんにちは」
名刺を捨てられてもケータイナンバーくらい覚えていられるのだ。
そう言えば、私のケータイはどうしただろう。
事故で使えなくなったには違いないのだが、解約はしていない。
新しいのを買わなくてはと思いながら、物柔らかな葛西の声にうっとりする。
声の良い男は好きだ。
それは火村の美点のひとつでもある。
だからあの声で甘く呼びかけられると、本当に彼が私を愛しているのではないかと思ってしまうことがしばしばあった。
その度に自分でそれを否定するのだ。
何の罰なのだろう。
「……嘘ついとるから、やろな、そりゃ……」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
慌てて、テーブル越しに葛西氏に首を振った。
待ち合わせた場所からそう遠くないレストランは、車移動を必要としない距離だった。
少なくない警戒心を発揮させない点で、最初の食事としては合格点だろう。
話題もマナーもそつのない人だ。
病室で会った時よりも仕立てに遊びのあるスーツは、TPOも弁えられるらしい洗練されたスタイルだった。
当然、周囲の目も集まる。
遠めにさえ際立つ外見は、火村と同じようでいて、けれどそこにはクセがない。
すっきり爽やか、といったところだ。
顔もスタイルも性格も申し分ないのに――物足りない。
私はつくづく、火村と言う男にすっかり慣らされてしまったようだ。
どんなに寛いでいても途切れないほんの少しの緊張感。
火村との間にある、いつまで経っても気を緩められないそんな空気を、私はずっと楽しんできた。
初めての外出であることを差し引いても、葛西氏には外見以上の魅力を感じることが出来なかった。
とはいえ、せっかく出会えた希少な同志をあっさり捨てることも出来ず、
「うちに来ますか?」
という問いに首を振りつつも、
「帰ります……今日は」
なんて付け加えてしまういじましさと言ったらない。
じゃあ次回はどうするつもりだ?
そんなことまで考えちゃいない。
そう。
私はなんにも考えていなかった。
全く、これっぱかりも物事を考えたりしていなかったのだ。
だから、タクシーで帰り着いたマンションで火村が恐ろしい顔で待っていた時も、一人で飲んだんや、などと平気で言えた。
もっとよく考えるべきだった。
これは、火村だ。
あの、頭脳明晰で探偵資質を持っていて、冷たいくせに情に厚い火村英生なのだ。
「駄目だ、アリス。どうしたんだよ、お前ともあろう者がそんなちゃちな言い訳するなんてな。全く駄目だ。こっちはとっくに確かめてあるんだ。葛西氏に直接電話で、お前と一緒だったことは聞き出してある。嘘をつくなら、彼に口止めぐらいするべきじゃなかったか?」
そうだ、あの名刺、あれは火村の手元に渡っていたのだ。
捨てるだろうと考えたのは私であって、それは捨てたという事実とイコールではない。
いや、私が簡単に覚えられたのだから、火村だって暗記するのは容易かっただろう。
なんの反証も挙げられない私の腕をぐいと引き、彼は額を合わせんばかりの位置で鋭く睨みつけてきた。
怖い、と、感じた。
それほどまでに、怒りに染まった眼差しだった。
「来いよ、アリス」
「や……め、なに、どこ……」
「決まってんだろう? なあ知ってるか、自転車と水泳は一度覚えたら絶対に忘れないんだそうだ。何年ブランクがあっても、身体が覚えてる。それと一緒さ、アリス。人でなしの脳が消してしまった記憶も、その身体はきっと覚えてる。ベッドの中でお前は言ったんだ」
引きずられ、押し込まれた寝室で、シーツの上に押し倒される。
「俺に抱かれるのが好きだってな」
「ッ!」
なんてとんでもない嘘を!
私の激しい抗議はしかし、もっと荒々しい火村の口吻けによって塞がれた。
舌がべったりと唇の裏を舐め、歯列を味わい、口蓋をねぶって私の舌に絡む。
火村の唾液が流れ込み、否応もなく、脊髄反射で喉が蠢きそれを飲み込む。
粘膜の全て、柔らかな部分の細胞が全て性感帯になったかのようだった。
ざらつく火村の舌先がいやらしく舐め取っていく場所から、いちいち鳩尾まで痺れが走る。
息が上がり、身体が震え、目尻が濡れた。
「みろ、アリス……キスだけで骨抜きだ……」
「ぅ……ぁ、ぁ……」
ノーネクタイだが襟の高いシャツを着ていた私は、スリムなジャケットごとそれを何時の間にか剥ぎ取られていた。
火村の言う通り、そんなことにも気づかないほど、私は火村のキスに夢中になっていた。
慣れたとさえ思えていた軽いキスなど、入り口ですらなかったと思い知らされた。
火村の指が、胸を這ってのたうつような痺れを残し、やがてその一部にたどりつき、弾く。
「……ぁ、ン!」
ビクン、と身体が勝手に跳ねた。
なんだ?
そんなところを攻められて感じるような身体ではないはずなのに、現実は、かすかに残った痛みの痕跡にさえ疼きを覚える。
戸惑いに半身になりかかった私の肩を、火村が押さえつける。
そして、火照りをもったような首筋に、思い切り噛み付いた。
「ぁ、ぁ!」
痛みを凌駕する、背筋を駆け上る快感。
ありえないと思う暇もなく、柔らかな唇が肩に落とされ、今度はその繊細な感覚に腰を跳ね上げる。
怖いくらいに身体の全部が感じていた。
「ひ、む」
「こんなんじゃ足りないだろう? お前は少しだけ痛くされるとたまんないんだよな? ココも」
ピン、と強めに指で乳首を弾かれる。
痛い、と思うより先に、甘えるような声が出ていた。
「舐められるのも好きだ。そうだよな?」
耳元で優しく囁かれる。
その声で、いっぺんに脳天まで蕩ける。
火村の唇が、舌が、私の乳首を弄び、反対側を指先が遊ぶ。
さっきまでほとばしるように指先まで痺れさせていた感覚は、次第に内にこもり始めた。
私は身体を捩る。
そのたびに一度離れ、冷やりとする乳首の先が、再び熱い舌にぬるりと絡め取られると、例えようもないほどの快感が走った。
「ぁぁ、ぁ、ん、や、ぁ!」
「やぁ、なのか? それとももっと?」
面白そうに言った火村の口は、さっきまで吸いたてていたそこを含み、けれど柔らかな舌ではなく鋭い強さで歯を立てた。
「ぅ……ぁぁン!」
私は耐え切れず、ぎゅっと火村の頭を抱え込んだ。
カシカシと甘噛みされて、痛みの奥に悦びを感じさせられる。
たまらず私は、とうに反応しきっている下肢を火村の身体に擦りつけた。
こちらもいつのまにか、スラックスどころか下着まで脱がされている。
「お行儀が悪いぜ、アリス。して欲しいなら、まず自分からだ」
抑えているが、火村の息も上がっている。
感じているのか?
私の身体に触れながら?
信じられない思いながら、身体を起こして膝立ちになった彼を恐る恐る見上げる。
同じく全裸の身体は、彼もまた興奮しきっていることを示していた。
「ほら、どうしたアリス? 何がして欲しい? お前が俺を受け入れるなら、俺はなんだってしてやるよ」
浅く息を吐き、私は起き上がった。
手を伸ばし、ゆっくり触れた火村の腹筋から、指先を下に滑らせる。
痛いほど視線を感じた。
私の仕草のひとつひとつを、余さず眺めている。
私はそれを知りながら、彼の腰骨を掴み、一度も手で触れることなく、そそり立ったそれに唇をつけた。
はっとしたように身体が引かれるのを、腰に置いた手で押さえる。
「アリス……?」
口の中に彼を迎え入れはしたものの、どうしていいか分からない。
先端から滲む苦い体液を舌先でなめ取ってから、戸惑いつつ彼を見上げる。
「ど、したらええの?」
一瞬、落胆の表情が過ぎったのを私は見逃さなかった。
だが、それはすぐに激しい色合いに変わる。
「やり方なんてそう多くはないだろうさ。男なんだ、分かるだろ。どこをどうすればいいか、分かるだろう?」
先を口に含んだとたんに、火村がさっきとは逆に、強く腰を押し付けてきた。
反射的に引こうとした後頭部に、彼の手のひらがあたる。
喉を激しく突かれ、私はえずきそうになりながら顔を振ったが、ペースは緩いものの奥までねじ込もうとする行為はやまない。
私は苦しさに涙を滲ませつつも、奥歯に擦れてしまわないよう口を開け、喉を開く。
そして自分から顔を動かして舌を絡めると、ストロークのリズムが気に入ったのか、無理に押し込むのをやめたようだった。
懸命に唇を這わせ、裏側を丹念にしゃぶる。
何時の間にか、頭を押さえていた火村の手が、ゆっくりとそこを撫でていた。
髪を梳くように、優しく動く。
そして髪の中にもぐりこんできた時、私はその優しさにさえぞくりと快感を見出していた。
ぺちゃぺちゃと音を立てて咥える。
そうしながら、私は明らかに感じていた。
怖い。
いくら火村に好意と名づける以上の気持ちを持っていたとはいえ、こんなふうに口淫に夢中になるような生々しさなど、覚えがない。
「……ッ」
本当に?
舌に感じる味も、匂いも、なぞりあげるやり方も――?
コクン、と、口の中一杯に吐き出された体液を飲み下す。
残ったものも啜り上げて、綺麗に舐め取る。
その行為に躊躇のかけらもないことは、どんな意味を持つのだろう。
トン、と肩口を押されて、ふらりと枕に頭を預ける。
はぁはぁと息が弾む。
何をされているわけでもないのに、身体が勝手に熱を上げる。
「これから何が起こるか、知ってるからだ」
「あ……?」
「俺を咥えて興奮したのか、アリス? だから言ったろう。覚えてるはずだって。この後、ココに……」
「ヒッ!?」
ぐぷり、と後孔にいきなり指先が割り入る。
驚きと恐怖と、拒否の気持ちが入り混じる。
逃げを打つ私の身体を、火村がしっかりと押さえつけた。
ジン、と入り口が見知らぬ感覚に疼く。
チョコレートの香りが鼻を掠めた。
ぬるりとした滑らかさの正体だろう。
そんなもの、どこにあった?
「ぁ……いぁ、きもち、わる……」
ず、ず、と奥へと進む指先が、ろくに動きもしないのに酷い不快感を引き起こす。
火村は容赦しない。
一番奥で、ぐるりと指先でかき混ぜる。
「ぅ、ん!」
「どう思う。男の身体が、こんなに簡単に他人の指を咥え込むもんか? けど、ほら……お前は力の抜き方を知ってる。すぐに柔らかくなって、やすやすと飲み込む。これがどういうことか、分かるか?」
「知ら、ん、いやや、その先はいやや!」
「嘘つきだな、アリス」
指が抜かれ、すぐに、私はそれ以上の質量に貫かれた。
入り口のかすかな痛み。
内壁を擦りあげる熱。
一番奥に届いてすぐに、私を抱きしめる腕は、ぐっと力がこめられている。
引き締まった筋肉に強く拘束され、内側いっぱいに火村を含まされて、私の全てが明渡される。
「……んっ……ぁぁぁッ!」
「アリス、アリス」
「ぁ、ぁっ、んッ、……!」
一瞬全てが消えた。
そして吸い込まれるように落ちる浮遊感の中で、下から順に世界が再び構築されていく。
畜生。
「……誰が、抱かれるのが好きやねん……!」
「ア、リス……?」
「俺は、俺を抱いてる君が好きやって言うたんやろうが!」
私しか見えていない時の君が好きだと私は言った。
私は火村に振られた。
こっぴどく撥ね付けられた。
三月のことだ――去年の。
そのすぐ後に私は事故に遭った。
自転車をよけようとして車道に飛び出し、真っ赤なワーゲンに正面から跳ねられた。
その時私は、記憶を飛ばした。
ほんの三日ほどのことだったらしいが、自分の名前も職業も、親も友人もなにもかも綺麗さっぱり忘れたらしい。
もったいないことに、私はその時のことをよく覚えていない。
火村は反省したそうだ。
記憶を失った私を見て、長い付き合いだというのに冷たく跳ねつけてしまったあれが最後の私との会話であったことを酷く後悔したのだそうだ。
そして私と言う人格を失って初めて、埋められない喪失感に絶望するほど私を愛していたことに気づいた。
と――去年の私はそれを聞いた瞬間に、全ての記憶を取り戻した。
そして、ありがとうと言った。
さらにこうも言った。
でも火村。
それは同情や、と。
あの時、私は彼がどれほど自分を近しい人間として認めてくれていたかを実感した。
そして、苦しいからと全てを打ち明け勝手に関係を清算しようとしたことを深く悔いた。
ごめん、ありがとう、できればこれからも友人でありたい。
そう告げた。
じっと考え込んだのちに火村が言ったのは、こんな台詞だった。
『アリス、俺の研究手法を知ってるか? 机上の理論や精神論じゃ、どんなに頑張っても得られないものがある。それは、今、この時の、基点になるべき全ての始まり……その瞬間の自分に生まれる、確かな感覚だ』
「そう言ってお前は俺を押し倒したんや。なんや、それ! 毎回毎回、君はよくもまあ同じ手をつかえるもんやな!」
肘を突いた姿勢で煙草を吸っていた火村は、ちらりと私を見下ろした。
「前回とは目的が違うだろ。だいたい、それで俺を信じたんだから間違っちゃいないやり方だったってことじゃないか。そう言うお前は、まさか毎年この時期に事故るのを恒例行事にしようとしてるんじゃないだろうな。しかもその度に記憶を吹っ飛ばして」
そろり、と私は視線を外した。
振り返ってみればおかしな齟齬がいくつもあったはずなのに、のほほんと暮らしていた自分が憎い。
去年に引き続き、私は今年も三月末に事故に遭った。
角を急に曲がってきた自転車――年配の女性が乗る真っ赤なママチャリ――に押し出されるように車道に飛び出し、ちょうど走ってきていた葛西氏の深いグリーンの外車にぶつかった。
頭部を打った私は、再び記憶を失った。
今度は半端に、一年分の時間を。
舞い戻ったのは、あの火村に拒絶された夜だった。
そして微妙なずれを補正しながら、私は葛西氏の乗る真っ赤な車にはねられたという一見筋の通った話を自分の中で作り出し、それを信じた。
どうりで、記憶喪失のふりをした――実際はただしく記憶を喪失した――私の話を、火村があんなに簡単に信じて医師を呼んでしまったわけだ。
おまけに、曜日に関わらない仕事をしていたことも痛かった。
ちょうど締め切りも差し迫っておらず、自分の仕事内容を照らし合わせる機会もなかった。
入院している私に火村が持ってきたのは、あれは去年の新刊だった。
どうりで、どこか読み癖がついているなと思ったのだ。
いちいち引っかかれよ、俺。
幸いなのは、実際に失われたのが一年分だけであったと火村が気づいていないことだ。
丸ごと忘れたというあれは、その僅かな真実を含んでいなければ絶対に通用するはずのなかったつたない嘘だったが、なまじその僅かさが動かし難い過去の事実であったがために、火村でさえも真相を見抜くには至らなかったようだ。
首の皮一枚、といったところか――恐ろしい。
「それで? 俺を忘れて他の男と遊びに行った詫びは、どう入れてくれるんだ?」
そらした顔を、ぐっと掴まれた。
口の形は笑っているが、これは楽しい話ではない。
目が本気だ。
イっちゃってる。
「……お……覚えてへん」
「あン?」
「全然、ちっとも、覚えてへん。誰のことやらさっぱり」
ひく、と火村の口元がひきつった。
明らかに目が泳いでいる私は、先から述べている通り、嘘は、下手だ。
だが、記憶喪失という非日常の経験をたてに、私はそれを押し通そうとしている。
「……なるほど。覚えてない」
「そうや」
「そうか」
「そうや」
「じゃあ、次に葛西氏から電話があったり、偶然行き会ったりしたらこう言うんだな?」
声が平坦になる。
「『どなたですか?』」
それは目覚めた私が真っ先に火村に言った言葉だった。
ああ。
どうしよう。
火村が泣きそうだ。
「ごめん。ごめんな、火村。もう絶対忘れへん、約束する、絶対や。火村。火村」
もちろん実際に泣いたりはしない。
けれど感情が限界まで溢れそうになった黒い瞳は、確かにそれほど強い思いをたたえていた。
「……あてになんねぇ約束……!」
苦笑し私を抱きしめる火村を、同じ強さで抱きしめ返す。
どうしよう。
悪戯のはずが、度を越えた。
何気ない言葉が人を傷つけることを、私は、知っていたはずなのに。
でも、それでも。
「それでも、なぁ、火村……」
出来ればそれを救う言葉が存在しますように。
「愛された記憶もないくせに、俺は君を好きやったよ」
振られようが冷たくされようが、私は君を好きでしかいられなかった。
end
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そこ。私の小噺に緻密な整合性を求めないように。