注:アリス記憶喪失。ギャグ。

7.すきすき (記憶喪失)






1.




ちょっとした悪戯心だったのだ。
それにしては度が過ぎていると言う人もいるかもしれないが、当初の予定ではほんの数日で事実を明かす予定だったというのは言い訳にならないだろうか。
私自身の頭を整理するためにも、順に事件を追ってみたい。
そう、まさに一大事件である。


きっかけは、三月某日の夜のことだ。
私は長年の友人である火村英生――彼についての説明は皆様よくご存知と思われるため割愛する――に、景気良く振られた。
それはもう完膚なきまでにきっぱりと、「そういう趣味はない」とさも厭そうな顔で言われたのだ。

火村らしいと言えばらしい。
昔から、好意を寄せる女子学生達にさえ、袖にする時は傍で見てハラハラするほど冷たかった。
それが十四年来の友人となれば、あっさりしていて当然とも言える。
私も、「そうやろね」と返したきり、それ以上は踏み込まなかった。

言ってどうなるものでもないと知っていたなら言わなきゃ良い話だが、正直、面倒くさくなったのだ。
男相手に恋愛感情を抱くということは、私にとってもあまり普通のこととは思われないが、その普通を越えてしまうほど我々は近すぎるということだろう。
やれGWだやれ年末だ、果ては桜が咲いたのいい天気だだのと、ことあるごとに誘い合って出かける近さであり、それは嬉しくもあり反面、思いを隠さねばならない場面が非常に多いということでもある。
それが面倒くさい。
チョー面倒くさい。

元来、隠し事には向いていない性格なのに、さらにあの英都始まって以来の秀才と呼ばれ、警察機関で探偵の名をほしいままにしている火村英生を相手にしなければならないのだ、その疲労といったらちょっと計り知れないものがある。
いっそのこと、全部ぶちまけてすっきりし、ついでに関係も清算してさっぱりしちゃおうかな、と魔が差したのも無理のないことだとは思ってもらえまいか。
予定通りに断られ、私はむしろほっとした。
これであの気遣いの日々から解放されるのだと、いっそ祝杯でもあげたい気分だった。


まあそれでもさすがに、判っていたとはいえ落ち込まなかったわけではない。
多分、一夜明けて寝起きの私がのんびりモーニングなど食べに出かけ、うっかり車に跳ねられちゃったのはそのショックのせいだろう。
ぼんやりしてたとかうかうかしてたとか半分寝てたとか、言いがかりも甚だしい。
私は失恋の哀しみに心奪われ、そのせいで事故にあったのである。
断じて間違いない。

とにかく、私は、歩道を暴走する――デートに遅れそうで焦っていた大学生の――自転車を避けそこなって車道によろけ出てしまい、そこに真っ赤なワーゲンが突っ込んできたのだ。
残念ながら、それ以降の場面は覚えていない。
それは本当だ。

けれど、目覚めてそこが病院だと気づいた時に、なぜここにいるか判らないと言ったのは嘘だった。
ついでに、真っ先に覗き込んできた火村のことを知らないと言ったのも、自分の名前も住所も職業も分からないと言ったのも、大嘘だった。

だから、ほんの悪戯心だったのだ。

私は火村を好きになり、自らその関係を壊したが、それまでの友情を彼がどのように捉えていたのかについて聞く機会を逃してしまったということにも気づいていた。
彼は我々の関係をどんな風に説明するだろう。
好奇心が抑えきれなかった。
だから思わず言ってしまった。

「どなたですか?」

火村が悪い。
ここで素直に、「友達甲斐のないヤツだ、俺を忘れたのか?」とでもジョークで返してくれればよかったものを、彼は傍に詰めていたナースに医師を呼べと偉そうに言いやがったのだ。
なんて短気なヤツだ。
おかげで、私はわざとぼんやりした表情をつくり、記憶喪失のふりをしなければなくなったではないか。
ばたばたと検査やらなにやらするうちに、本当は覚えているということが言い出せなくなってしまった。




さて、問題はそこではない。
この程度のことならば、むしろどこまでやれるか楽しんでしまえるのが、私の長所である。
そんな臨機応変な私を大いに慌てさせたのは、もう少し先の話なのだ。

目覚めた翌日には、身体に大きな異常がないということで、一般の病室に移された。
大盤振る舞いの個室だったので、気を使う必要もない。
振舞っているのは私の財布だが、そこはそれ。
目覚めた直後に顔を合わせたきりの火村と、検査やらなにやらで身柄を拘束された私が再び話せる機会が巡ってきたのは、その移動の後だった。
何冊かの本を携えてやってきた火村は、ノックに答えるより前にずかずかと入り込み、見舞いだ、とそれを渡してくれた。

「あ、おおきに」

出たばかりの某作家の新刊だ。
買おうと思ってうっかりしていた二冊だったので、私は大いに喜んだ。
さて、どのように打ち明ければ最も怒られずに済むか、ということを今の今まで考えていたが、ちっとも良い案は出ずにいた。
どの手を使っても、簡単に許してもらえそうもない。
かといって一生このままというわけにも行かず、私は大いに迷っていた。


この時、また別の客があった。
今度の客は常識を備えていたので、ノックに答えてからおもむろに顔を見せたのだが、その瞬間に私は思わず口も利けない状態に陥ってしまった。
そのくらい、綺麗な顔立ちの男だった。
といって女っぽいところは少しもなく、切れ長の目にすっきり高い鼻筋、モデル体型というのか、肩幅があるのにウエストの位置が高い、正真正銘の色男だ。

さて、私の知り合いではない。
まさか嘘をついているうちに本当に記憶喪失になってしまっただろうかと思ったが、私が知らないのも道理、彼は事故の加害者だった。
状況的にはむしろ被害者とも言えるだろうが、その辺は保険会社が上手く折り合いをつけてくれるのを祈るしかない。

「このたびは本当に申し訳ありませんでした」

差し出された花束も、真っ白なカラーをメインにした趣味の良いものだった。
いい男はセンスも良いらしい。

「ありがとうございます。……綺麗ですね」
「お体のほうは如何ですか」

その直前の微妙な躊躇いで、彼が私の記憶喪失を承知しているのだとわかった。
私はあまりに申し訳なく、出来るだけ愛想良く笑って見せた。

「擦り傷くらいのもんで、大怪我はないんですよ。あなたのほうは……ええと、」
「ああ、申し遅れました、葛西と言います」

くれた名刺には、葛西樹という名前と、さる大手の電器メーカの肩書きが入っていた。
おそらく何歳か年上だろうが、まだ若いのに、と評してもおかしくない役職がついていて、なかなかのやり手らしいとわかる。
窓際に立っていた火村にも、そつなく一枚手渡していた。
当の火村は、自分は返す気がないらしく、一礼してそれきりだ。

「私はシフトレバーに足をぶつけた程度で。有栖川さんはあちこちすりむいていらっしゃいましたよね。痛むでしょう」
「救急車を呼んでくれはったんですよね。ありがとうございました。私のほうこそ、こんな大げさにするほどの怪我やないんですけど」
「数日のうちに退院と窺いましたが」
「あ、はい。明後日には」

葛西氏は、座っていた丸椅子から急に少し身を乗り出した。
綺麗な顔がアップになって、なぜか赤面してしまう私である。

「お迎えに参ります」
「え?」
「幸い、時間に自由の利く立場ですので。それくらいはどうぞさせてください」

嫣然と微笑まれて私は気づいた。

こいつ――ご同類や。

なんとも言い難い勘というか匂いというか、つまるところ、ゲイなのだ。
自分をそこに含めることには多少の抵抗を感じるが、客観的に見て、男くさい火村に欲情するのだから否定は出来まい。
それにしても、整った顔だ。
どうせ火村に思い切りよく振られた直後であることだし、いっそ遊んでみるのもどうだろう。

「えっとぉ……」
「いえ、結構。私が参りますので」

さり気なく承諾しようとしたのに、横から火村がいきなり口を出してきた。
切り口上でばっさりお断り申し上げる顔は、一見、無表情である。
だが私には分かる。
なんか怒ってる。
そして葛西氏もそれを感じ取ったのか、私と火村とを交互に眺め、

「残念」

と、小さく呟いた。
違います誤解です、私はこの冷酷無情な中年男に振られたばっかりにあなたと遭遇したんです、言わば共通の敵、そして私たちは運命の出会いを!

「気が向いたら電話してください」

引き止める間もなく、彼は出て行ってしまった。
全く残念だ。
だがチャンスはまだある。
私は手の中の名刺にケータイの番号が書かれているのを確認し、にんまりした。

「てか火村さん、明後日はお仕事ちゃうんですか?」
「アリス」

私の質問をまるごとスルーした火村は、やおら腕組みをしてベッドサイドに仁王立ちした。
そう言えば何か怒っていたっけ。

「お前、俺を忘れたのみならず、他の男に色目を使うとはどういう了見だ?」
「は? い、色目? 誰がそんなもん!」

火村は私の手から名刺を取り上げると、くしゃりと握りつぶして自分のポケットに仕舞いこんだ。
ここで捨てたら後で拾うと思っているのか?
馬鹿な!
拾うけど。

「ちょっと火村さん、あなた……なんなんですか」
「なんなのかって? そうだな、病人をいたわってもっとゆっくりやっていこうと思ったが、こうも浮気癖があるようじゃそうもいかない。いいか、」

ぎしり、とベッドに手をついて、火村が屈んだ。
呆然としている私の唇に、彼のそれが触れる。

「お前は俺のだ。俺たちは恋人同士なんだぜ、アリス?」
はい?
「また明日来るから、その可愛い脳味噌でしっかり覚えこんでおけよ」

さっさと帰り支度をした火村がドアの向こうに消える。
病室に、疑問符つきの雄たけび。





火村にキスされた。
いや、そうじゃなくて。
問題はそこじゃなくて。
いやそれも問題だけれども。

「何をたくらんどるんや……」
「何か言ったか、アリス?」

私のうっかりした呟きに即座に反応した火村は、慌ててぶんぶんと首を振る私に、ふっと笑って見せた。
その余裕っぷりと言ったら、うっかり見惚れてしまうくらいである。
思わず視線を避けて、毛布に顔をうずめた。
退院してここは自宅のリビングだというのに、落ち着かないことこの上ない。

ベッドに寝かせられるのには抵抗したが、火村はソファに座った私を毛布でくるんでしまった。
病人扱いなのか、とも思うが、時折触れてくる指の使い方といったら、絶対にいたわってるなんてことはありえない。
エロくさいのだ。
視線だってそうだ。
こんな火村、見たことない!

病室で衝撃的な発言をした火村は、翌日も当たり前の顔をしてやって来て、その翌日、つまり退院にもしっかり付き添いに来た。
オッサンの過保護さに、ナースたちが失笑していたような気がしてならない。
なんて恥ずかしい。
一体、なんのつもりだろうか。

私の記憶喪失が嘘だと見抜いている様子は微塵もない。
だからその仕返しという訳ではないはずだ。
いやし返しにしたって、キスはやりすぎだろう。
物凄い偶然で、私が事故に遭ったと同時に火村も何かしらの外傷を受け、どっかのネジが緩んでしまったのだろうかとも思ったが、そんな様子も見られない。
ならばなぜだ。
なぜ、恋人のふりなんかする?

そっと毛布の端から、隣の火村を盗み見る。
分厚いテキストを持っている手さえ、見慣れた彼のものなのに、そのたくらみの意味が分からない私にはまるで未知の生物だ。
恐ろしい。

「アリス」
「は、はい?」
「そんなに見つめちゃ、穴があく」

くすりと笑った火村は、本を放り出し、その手で私の頬をとらえた。
二度、三度と口吻けられる。
随分と優しいキスが出来るものだ。

好きでもないくせに。














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