注:時代も国も背景も不明なとあるお屋敷。
テーマはご主人様のご無体(笑)
跪いて足を舐めな アリスVer.
1.
なんだってこんな大人になってしまったかね、とアリスは今日も嘆いている。
自分のことではない。
目の前にいる、火村家当主、英生について、しみじみと昔を懐かしむ毎日なのだ。
彼はアリスにとっての長年の学友であると同時に、主君でもある。
火村家が何代にも渡ってこの領地を治めてきたように、有栖川家もまた、この家に代々仕えて歴史をともにしてきた。
アリスは随分と遅く生まれた子であったので、両親は今はもう敷地の外れの別棟で隠居暮らしをしているが、やはり母はここのメイドであったし、父は執事であった。
丁度同じ年に生まれたそれぞれの子が、生涯の友とならんことを祈り、当時の旦那様は自分の息子と同じだけの教育をアリスに施してくれた。
その旦那様と、それから奥様が、ばたばたとお亡くなりになってしまったのはつい2,3年前のことである。
アリスとしては、与えていただいた恩恵をまさにこれからお返ししようという頃であり、もっと早くにお役に立てる自分であれば良かったのにと、随分悔しい思いをした。
両親も、ほとんどの人生を捧げた主が亡くなり気が抜けたのだろう、それからすぐに、まだ三十二だった息子に早々に執事の地位を譲り、現役を退いてしまったのだ。
それから二年、大旦那様がまだ生きていらっしゃったらどんなにか良かっただろうと、何度も思うことになる。
それというのも、本来は領地を治めるのが仕事であるはずの当主が、警備隊の仕事に首を突っ込み始めてしまったのだ。
危ないからよしてくれと何度も頼んだが、彼は頑としてアリスの懇願を退け、最近では人を殺めた者を罪人として中央に送る前に連れて来させ、直接お話をなさったりする。
執事としては、兄弟のない当主に何事かがあればお家存続の危機であり、そんなことになれば死んだ大旦那様と奥様に申し訳が立たない。
あまりに心配で、最近はそうした事件があれば必ず主に同行するようになった。
うっとうしがるかと思ったが、彼は平気な顔をしている。
もうすっかり慣れた表情だ。
小さい頃は本当の兄弟よりも仲がよいと評判の二人であったが、ここ数年、主の態度はすっかり親密さを減らし、どちらかと言えば無関心であると言えよう。
ああ、本当に――とアリスはため息をつく。
なんだってこんな大人になってしまったのか。
子どもの頃は、アリスアリスといつも後ろをついてきていた。
早くからぐんと身長が伸びたアリスと違い、主はどちらかと言えば背の小さな華奢な子であり、その手を引いて荒地を駆け回ったり、馬の乗り方を教えたりしたものだった。
ところが、ジュニアハイにあがるくらいから急に伸び始め、最終的にはハイスクールで止まってしまったアリスを数センチばかり追い越してしまった。
同時に、同じように鍛えたはずの体も、遺伝的に一定以上は筋肉のつかぬアリスをあざ笑うように、ぐっと逞しくなった。
そして何よりも、華やかで美しいあの満面の笑みがすっかり鳴りを潜めてしまったのだ。
彼はもう、時々ひどく皮肉っぽく唇の端を上げる以外に笑みを見せない。
アリスは、主の一見冷たそうな顔つきが、ぱっと鮮やかに笑むあの瞬間が好きだった。
若くして自由のない生活に縛られ、将来を決められてしまっている彼だから、あの笑みを見せられればあまりに健気に思え、一生を身を粉にしてお仕えしようとその度に思うのだ。
「アリス。うっとうしい」
「それはそれは。誠に申し訳ありません、英生坊ちゃん」
慣れぬ者ならひと目で震え上がるだろう鋭い視線が飛んできた。
昔の名残で坊ちゃんと呼ばれることを、主は本気で嫌っている。
「説得のつもりなら労力の無駄だ」
ああしんど、とアリスは内心で言ちた。
元々地方の出である有栖川の一族は、プライベートな時間ではそちらの言葉を使う。
アリスは執事の子というよりは学友という立場であったため数年前まで常時そうだったが、父親が引退し、主が徐々に変わっていった頃から、彼の前では改めるようになった。
彼が要求しているのは、そういうことなのだろうと思う。
つまり、彼にとって自分はすでに友人ではなく使用人なのだから、アリスもまたそれをわきまえて欲しいと、そういう意味でそっけなくなったのに違いない。
だからいつだって丁寧な物腰は崩さないけれど、こんな時は幼い頃から使い慣れた言葉のほうがずっとしっくりくる。
しんどいは、しんどいでしかないのだ。
そういう、言葉の意味や響きについて、アリスはそこそここだわりがある。
そのことは誰も知らない。
「あるいは」
なるたけ感情のこもらぬ声を出す。
「――あなたが当主でなければこうしたことも申しますまい。けれど、そうはいかないでしょう?」
「こう、とか、そう、とか、曖昧だな、アリス」
「はっきり言えばあなたの機嫌に触る。全く、不幸な役回りですよ、私は」
「当主だから結婚しなければならないなんて、クソ喰らえだな」
「下品な言葉は慎みなさいませ」
「お前の言うことのほうが下品だろう? お家存続のために女を迎えて子を孕ませろと、つまりそう言うことじゃないか」
アリスは思わずニヤリと笑ってしまった。
「おや、上品に、愛する女と家族を築きたかったですか。構いませんよ、そんなかたがいらっしゃるならご紹介ください」
主が舌打ちをする。
彼に女がいないと思っているわけではないが、結婚に上品さを求めるほど夢見がちでないことも知っている。
アリスが苦労して探し出す奥方候補を、会いもせず却下される腹いせだ。
いつになく皮肉っぽくからかってしまったが、一体どんな女なら気に入るのか、どうにか聞き出さねばならなかったことを思い出し、宥めるつもりで彼に謝罪の視線を向けた。
その瞬間、アリスはビクリと身を竦ませた。
少し伸びた前髪の間から、漆黒の双眸がこちらを見ている。
そこにあるのは、怒り、だ。
冷えた態度は多くとも、彼が怒ることはほとんどなかったから、アリスにとってその目は慣れないものであったし、それ以上に、本能的に身の危険を感じて震えた。
逞しい彼の身体は、もうアリスなど簡単に殴り飛ばせるし、抵抗の間もなく殺すことさえ出来る。
平和な時世であるとはいえ、それなりに戦いの訓練をしてきた部分が、怯えた。
「馬鹿にしてるのか、アリス」
「いいえ。言葉が過ぎました」
自分でも珍しいくらいに素直に、素早く謝罪する。
だが、主の表情はますます険を増すばかりだ。
そしてその身体が最大限に素早い動作が出来るよう、あらゆる筋肉が準備をしているのが感じ取れる。
しなやかな身体が力を保ち、暴力の気配が立ち昇る。
反応するアリスの身体も、同じように血が巡りだすが、こちらはただ逃げるばかりの準備である。
例え同質の身体をもっていたとしても、アリスは立ち向かわない。
目の前にいるのは主だ。
決して逆らってはならない。
かつて夜通し議論をしたり、酒を酌み交わし下らない遊びに興じた男は、それらの懐かしくも心に優しく残る思い出を全く消してしまったようだ。
自分の立場は弁えているつもりで、けれどアリスは、そんな時間が自分たちの境遇などはるかに超えて、友人と位置付けてくれていたのではないかと思っていた。
冷ややかな視線、関心のなさそうな態度、ちらちらとそれが見えてきた時に、その可能性は捨てた。
彼の意図を読み取り、彼を主として遇してきた。
一線を守り言葉を改め、後ろに控える心構えを忘れなかった。
けれど今夜ちらりと現れてしまった皮肉は、予想以上に主を刺激したらしい。
どうなだめようかと思案しているアリスを笑うように、彼は、
「お前は俺のなんだ? 使用人じゃなかったか?」
と、低く言い捨てた。
「もちろんですとも。仕える者としてお家を案じたつもりでした」
「余計な考えは捨てろ。いい機会だから言っておく、俺は自分の子をなすつもりはない。領主の地位など、今は所詮お飾りに過ぎん。実質的な統治は国がしている。それでももしなんらかの象徴が必要だと言うなら、余所からふさわしい人物を迎えよう。歴史も伝統も俺にはなんの価値もない。火村家は俺で最後だ。これは決定だ」
確かに、今の時代にこの家がしていることといえば、ほとんど国の仕事を請け負っているようなもので、血筋も伝統も意味はない。
けれど、数百年と言う歴史の重さをあっさり捨てようとすること、そこには沢山の使用人たちが含まれていることを思うと、アリスはショックを受けた。
「……御心のままに」
他に何を言うことも出来ず、我ながら弱々しい声で言う。
良かれと思った答えも、主を苛立たせたらしい。
「ほらみるがいい、アリス。結局、どんな判断も責任は俺にかかる。お前たちは好き勝手を言うが、結局は保身なのさ」
せせら笑うような調子に、さすがに反抗心が頭をもたげる。
だが、出来るだけ穏やかな口調で、
「こころないことを。私たちはいつだってあなたのために」
「それが余計なことだって言うんだ。それに、少なくともお前に関してはそんなこと信じられないね」
思わずぐっと拳を握る。
口元が震えるのを隠し切れない。
「馬鹿なことを……!」
「無礼な物言いだな。自ら証明しているようなものだ」
「本気でおっしゃっているようなのが信じられない。なぜ? 私は誰よりもあなたに尽くしている。それだけの自負がある。それが全部、自分のためだなんて、一体どこから思いついたんです?」
自分の言葉で興奮し、言葉尻が乱れる。
ともすれば出そうなプライベートの言葉遣いを変換するのが間に合わないからだ。
「怒っているのか? 危うく信じそうな迫真の演技だな」
「言いがかりも甚だしい。根拠があるならはっきりと言ってください。片っ端から否定して差し上げますよ」
声が低くなったが、主はますます皮肉な笑いを口の端に上らせた。
それはとっておきの厭味を言う時のようで楽しげにさえ見えるのだが、その印象を裏切っているのが、睨みつけるような目の表情だ。
暗く燃えている。
「なら言おう。俺が何も知らないと思っているお前に、飛び切りのニュースだ。ほら」
主はバスローブ姿のまますたすたとデスクに近寄り、そこから床にぽんと薄い冊子を投げ出した。
その表紙を見て、思わず驚く。
顎で拾えと示され、
「24ページ」
の声に従い、そこを開く。
見慣れた文字が目に飛び込んでくる。
――大賞 有栖川有栖 『月光ゲーム』
一瞬、喜びが身体を駆け抜ける。
何度も何度も落選を繰り返し、それでも書き続けた物語が、大賞をとった。
誰にも秘密にしてきた、アリスだけの小さな楽しみ――いや、本当はそんなものではない。
幼い頃にこの家の書斎に入った喜びを今でも覚えている。
父の集めた数冊の書籍ではとうてい足りないアリスの活字中毒を、あのずらりと並んだ本の背表紙が鎮めてくれた。
読む者から書く者へと、その憧れが変化したのはいつだったろうか。
実際に始めて筆を取った時のことは覚えているが、書きたいと思い始めたきっかけはもう記憶にもないほど昔のことだ。
いずれにしても、その時からこちら、応募しつづけたアリスの作品は、候補に名は上がっても賞を取ることはかなわない位置に甘んじつづけてきた。
それがとうとう実を結んだ。
喜ばずにいられるだろうか。
だが、喜色を浮かべているだろう顔は、主の視線にぶつかりすぐに歪んだ。
冷ややかでいっそ青白く燃えてさえいそうな目は、どう考えてもアリスの成した結果を祝福しているようには見えない。
「たいした賞金額だ」
「金なんて……!」
デスクに寄りかかっていた主が身を起こし、歩いてくる。
その身が発する怒気に気おされ、抗議の声は語尾が消えた。
「金じゃないなら何だと言うんだ、アリス。こそこそとこんなものを書いて、何を得ようとした?」
「私は……何を、なんて、そんな、別にこそこそしていた訳では」
「少なくとも俺は知らなかったな。主に隠れて何かをするのはこそこそしているとは言わないのか、作家先生?」
完全に馬鹿にしきった口調に、元々が大人しいタチではないアリスは怯えが一転して反抗心に変わる。
「プライベートまで報告する必要はないでしょう!」
「ほう。お前の父親の献身ぶりは時間を問わず見事なものだったが、息子には引き継がれなかったようだ」
「あなたに仕える時間を惜しんだりするものですか、これは寝る時間を削って……」
「ッ、馬鹿か、お前!」
「なんやと!」
その物言いに、アリスのどこかが切れた。
言葉遣いに気を配る余裕がなくなった。
「迷惑かけとるわけでもない、君に不自由な思いをさせとるわけでもない、そやったら時間外に何をしようが俺の勝手や!」
「ふざけるな、お前、この夏に3回倒れただろう! 丈夫なほうじゃないから余計に自分の体調管理に気を配ってたくせに」
「あ、あれは……」
思わず怯む。
確かに、学生時代はあまり規則正しいとはいえない生活をしており、不摂生から体調を崩すことが多かった。
ゆえに、父の跡を継いでからは、滅多なことで仕事を放棄しなければならなくなる事態を引き起こさぬよう、生活には気を使って来た。
けれど、今回の原稿は自信があったし、それだけに今年の締め切りに間に合わせたかったのだ。
「寝不足だったんだろう。あの原稿を書くために? みろ、どこが不自由させてないんだ、あの時俺がどんなに……」
主は途中から言葉を飲み込み、吐き捨てるように舌打ちをした。
アリスの言葉を咎めるでもなく、けれど苛立たしさを増したようだった。
「アリス、お前は昔俺に聞いたな。もしもこの家に生まれてなければ何がしたかったか、何をして暮らしたかったか。お前自身の答えがこれなんじゃないのか。使用人の子に生まれたからお前はここにいる。お前の意志じゃない。本当はここを出て、もの書きをして暮らしたいんじゃないのか?」
即座にノーを言いたかったが、なぜか言葉が出なかった。
主は昔からそうだ、人を観察し分析し、心の奥を探って本人さえ届かない場所を見てきてしまう。
だからアリスは、まだずっと若く幼く、家系や伝統について身に沁みて知るということがなかったころに、そんな質問をしてしまった。
彼ならば、与えられたものよりもむしろ自らやるべきことを見つけられるだろうと、無邪気に憧れていたのだ。
それが決して叶うことのない人生であるといつからかアリスは知った。
火村という友人は、生まれた時から決まったものになるしかない、そういう人間だった。
あの時、彼は何も答えなかった。
今ここにこうしている主は、あの頃の彼と同じであるはずなのに、自由な思想を語ることが出来た学生時代とは同じでいられない。
それが彼の運命だ。
アリスはその彼の傍らに控えともに歩こうと決めた。
主の言う通り、作家になりたいと思っていたし、今も思っている。
けれどそれが彼の傍を離れるという結果に繋がるならば、捨てても構わないと思う。
アリスの人生のなかで、火村英生だけが絶対の価値を持っている。
人心に聡い主にはそれが伝わっていないらしい。
それが酷く悲しかった。
ようやく震えそうな声を抑えて否定しようとしたが、主のほうが早かった。
「許さないぞ、アリス」
「……え?」
「ここを出て行くことは許さない。勝手な真似も、自由な時間も、お前にはそんな権利がないんだ」
息を飲む。
確かに、実はアリスの学費は火村家に借金と言う形で残っている。
本当は全額出してくれるというのを、律儀な父はせめて折半にと食い下がったのだ。
頑固で、そしてひたすら火村家に尽くしてきた父は、アリスが当然のように自分の跡を継ぐものだと信じて疑わなかった。
アリスとてそのつもりではあったけれど、自分の学費を将来の自分の給金から後払いという形にした父に、僅かな反抗心が芽生えたときもある。
今はそんな気持ちにも折り合いをつけたが、借金は依然として残っている状態だ。
それでもそんなことは関係ない。
例えその枷がなくとも、自分は火村家から離れようなどとは思わないのに。
「お前は俺と同じだ。火村家が有栖川家に施した全ての恩を、その背中に背負っている。そのことを忘れたわけではないだろうな」
「忘れて、なんか……。私は、生涯をあなたに、そう、ずっと、決めて、だから」
「なら誓え。希望も意志も捨てて、お前の言葉と行動を俺に捧げろ」
主はベッドに腰を降ろし、足を組んだ。
「お前の主人は誰だ?」
「ひ、むら、様」
「なら跪け。主と認める者の足に口吻け、忠誠を誓え」
アリスは床に膝をついた。
身体が震えていた。
かつて隣で笑いあっていた人の足元にひれ伏し、その素足に、キスをした。
Next