3.
三日後の水曜日、火村は講義を終えたその足で大阪に向かった。
途中、夕食の材料やらなにやらを買い、夕陽丘の見慣れたマンションで来客用のスペースに車を止める。
合鍵がないので、チャイムを鳴らした。
『はーい、どちらさまでしょう?』
「俺」
インタフォンの向こうでアリスが絶句している。
逆はあっても、火村がアリスの口を利けなくするなど―フィールドでさえ――実に珍しいことだ。
なかなか悪くないなと思いながら、機先を制する。
『ふざけんな、かえ』
「銀だら買って来た。焼いたの、好きだろう? あとこの間食べた水菜とキウイのサラダ、お前が美味いって一人でほとんど食ったあれな、それと里芋の味噌汁と、鶏と大根の炊いたやつ。今夜のメニューだ」
「いらっしゃい」
鍵を持たない開かずのドアは、あっさりと開いた。
しかもにっこり笑顔付きだ。
大量の荷物を抱えながら、全く手伝う気のないアリスのあとについてあがる。
「今回は予想してたみたいだな」
後姿に声をかけてみる。
「まあな。とはいえ、8:2で来ないだろうとは思っとったんやけどな。ちなみに来ないほうが8な」
「へえ。二割の根拠は?」
「……ったく。『合鍵返せ』『納得したらな』いう会話したやろ。最後に君は納得した言うて合鍵返した。それだけや。絶交する言う話には、いっこも答えてへん。わざとかなとは思った。けど結構ヘビィな告白しとるし、さすがに能天気におさんどんに来るとは思えへん。そやから、8:2」
「聞き捨てならないが俺は飯を作りに来たんじゃねえ」
「ええッ!?」
今日一番の反応をいただいた。
例によって例の如く、顔一杯にショックと悲しみを貼り付けたアリスを見て、火村は肩を落とし、
「いや、作るには作る、作るって」
「なんや吃驚させんなや、心臓止まったわ。頭ん中が熱々で出汁たっぷりのほくほくお大根になっとったのに食えへんのかと」
「お前、自分で作るって選択肢はハナっからねえのかよ」
「ないな。ほんで、じゃあ何しに来たん?」
冷蔵庫にとりあえず食材を詰め込んでいるアリスを見ながら、落としてあったコーヒーを勝手に飲む。
ビニール袋がふたつ空になったが、まだひとつ、紙袋が残っている。
アリスは首を傾げながら、しかも冷蔵庫を足で閉めながら、それを開けた。
「……!!?」
どさりと袋が投げ出される。
火村は感動のあまり拍手しそうになった。
あのアリスが動揺している。
だが、残念なことにすぐ消えてしまった。
この一瞬のためだけに、恥をしのんで袋の中身を買って来たといっても過言ではない。
なかなか物騒な目つきで睨まれていることを差し引いても、甲斐があったというものだ。
アリスは自分が落としたものをかがんで拾い、顔をしかめながら中身をダイニングテーブルに転がり落とす。
「火村、君……」
「おう」
「どんな顔して買うたんか見たかった!」
そうきたか、と、知らず入っていた肩の力が抜ける。
理由や意味を尋ねられると思っていたが、本気で悔しがっているアリスは、多分本当に見たかったのだ。
冗談じゃない。
さり気なく周囲を見回し細心の注意を払って棚から素早く商品を取るあの緊張感、レジに差しだしバーコードを読み取る間に後ろの客の視線を遮るあの努力、レジ係りの顔を決して見ないようにするあのいたたまれなさ!
どんなに贔屓目に見ても、挙動不審さは隠せなかっただろう。
あんなのを見られていたら、この先3年は同じネタで笑われる。
「うーん、誤解があるようなや、君」
「どんな?」
「俺は寝たいとは言うたけど、寝るだけで満足なわけやないねん。ってか君ほんまはええやつやってんな。なかなか努力してるやん」
「誤解してんのはお前だ、俺がいいやつなのは周知のことだ。……哀れそうな目で見るのはやめろ。そもそも、そのくらいのことが解らないとでも思ってるなら、馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。お前の我侭っぷりにどれだけ耐え抜いてきたと思ってんだ、寝るだけで満足なんて可愛らしい柄かよ! 欲しいものはとことん欲しがるのがお前だろ、身体だけなんて半端でいいもんか、何もかも独占しなくちゃ気が済まないことくらい、身に沁みて知ってるさ」
アリスの拳がぷるぷる震えた。
「ぬぉぁぁ、お前ッ、誰が我侭やねん! ってかどんなイメージ!? 俺は謙虚で売っとる作家やで、そないに欲しがっとったら新本格なんか書けんのじゃ!」
「謙虚って言葉に謝れ!」
「お前が俺に謝れ!」
「ごめん、アリス、合鍵返してくれ」
がたんッ、と音がして、アリスが寄りかかっていた椅子が倒れそうになった。
それを中腰で慌てて押さえるその拍子に、テーブルの上のオレンジ色のボトルが横倒しになって転がる。
縁から落ちたのを、火村は空中で受け止めた。
「ひ、ひ、火村がおかしなった! こんなに素直なんは火村やない、ごめんやて、ごめんやて! ひぃ! 誰やお前!」
「食いつくのはそこじゃねえ。ああほら、いいから早く返せよ。あれ、俺んだろうが」
「君は合鍵の意味を知ってんのか、俺の部屋のスペアやで、俺のんやろ、どう考えても!」
「このマンション買う時に、散々引っ張りまわされてあちこち見学させられて、おまけに契約の時も引越しの時も家具を買うのも全部付き合ってやった俺を騙せると思うのか? いいか、お前の隣で俺は話を聞いていたね、合鍵は確かに3つだった。いいか、そのうちひとつは管理人室、ひとつは実家、そしてひとつは正しくスペアという意味であの」
指を指す。
「電話台の引き出しに入っている。自分でも鍵を無くさない自信がなかったんだろう。まあいい判断だ」
そろそろとアリスの視線が逃げていく。
その顔を、手にもっていたボトルで頬を押しこちらに向けさせる。
「つまり俺に渡したあれは、わざわざ作ったのさ。俺のために。だったら俺のでいいだろう?」
「ううう、探偵に追い詰められた犯人の気分や」
「観念したか」
「いいものが書けそう」
書斎の方を見ている。
冗談じゃない。
アリスも言っていたではないか、ちょっとやそっとの覚悟ではここには来られるはずもなかったが、火村は来た。
今度は手のひらで顔を掴み、そのまま、目も開けたまま、唇を塞いだ。
長い付き合いの間でもさすがになかったくらい近い場所で、アリスの目が僅かに見開かれる。
火村より色素の薄い虹彩までが見て取れた。
次の瞬間、腹にものすごい衝撃を喰らって思わずうずくまる。
「……本気で蹴るか、普通……っ」
「ひぃむぅらぁぁぁ、お前はッ、なんのッ、つもりやねんッ!」
「がッ、てめ、蹴るな! 痛え!」
「おのれ見損なったぞ!」
「人の話を聞……いてッ、このッ、やめッ、アリス!」
どんなへなちょこ色白万年運動不足中年でも、一応はそれなりに身長もある成人男性である、腹をかばいながら転がる火村がいくら体力的に優位と言っても、怒涛の攻撃をかわすのはなかなか難しい。
が、昔取った杵柄とでも言おうか、それなりに残っていた動体視力と体力で、アリスの足首をがっちり掴む。
アリス、暴れる。
火村、凌ぐ。
「今はやりのDVか、アリス、俺の身体は明日にはさぞ見ものだろうよ!」
押さえつけた手首を、素早くテーブルの足を挟むように固定し、くぐらせたネクタイで縛り上げる。
そして、アリスの頭上ぎりぎりにさっき飲んでいたコーヒーカップを置く。
暴れてテーブルを引きずり自由度を確保することは可能だが、同時に落ちてくるカップから熱いコーヒーを浴びるはめになる、という仕掛けだ。
アリスは射殺さんばかりの剣呑な目で火村を睨んでいる。
「社会学の助教授がテクニカルタームの使い方を誤るなんて、お笑い種やな」
「本気で蹴りやがって、畜生、絶対アザになるぜ、これは。……で、何が間違ってるって?」
「DVの意味や!」
「お前は十分バイオレンスだろ」
慎重にアリスの腰の脇に膝をつき、肘を押さえて覆い被さる。
ぎゅっと閉じている唇に、自分のそれをそっと押し当てた。
「そして今からドメスティックになるんだ。ひとつも間違っちゃいない」
「うぅ……っ」
アリスが唸ったのを聞いて、慌てて顔を引く。
今まで火村の唇があったところの空気が、がうっと本気で噛み付こうとしたとしか思えない勢いで食われた。
「あぶっ……危ねえだろうが!」
「危ないのはお前の頭じゃ! ボケ! 去ね、去にさらせ!」
後ろに反ったところに、アリスの膝が容赦なく飛んできて、背中にものすごい衝撃を受ける。
息が止まるかと思った。
その瞬間、火村は切れた。
多分、14年分の何かが溜まりに溜まってとうとう爆発したのだろう。
今度こそ膝が曲がらないよう太ももの上に跨り押さえつける。
そして、低い笑いを洩らしながら一気にアリスのシャツを押し広げた。
ぱらぱらとこぼれるボタンに構わず、自分もジャケットだけを脱ぐ。
「火村お前どういうつもりや!」
「ヤられたいっつーからヤってやんだろうが」
「そんなんは嫌やってさっき言うたやろがボケ!」
「うるせえ! こっちだって色々と考えて来たんだよ、その結果をどうせお前はもう知ってんだろ? あの理論展開なら、たどり着く答えはひとつだ。俺がお前をどう思ってるか、知ってんだろう、アリス?」
すすっと指先をわき腹から滑らせ、アリスが身をよじよじさせるのを楽しむ。
あまり暴れるとカップが落ちてしまうからか、あまり移動しない。
それがその場で身をくねらせているようにしか見えなくて、火村は、好き勝手出来ないアリスというものを目でじっくりと覚えることにする。
「でもまだ言わない」
ピンッ、と乳首を弾くと、白い肌がうっすら染まった。
「言葉で挑発しても駄目だぜ、お前をヤっちまうまで教えてやらない。そっちが勝手に絶交だなんて訳の解らない宣言を押し付けて来たんだ、俺だってお前を翻弄してそれでなんとかおあいこってことさ」
「どこが……おあいこやねんッ、無茶苦茶や、君!」
赤く色づいてきた粒を指で揉み潰す。
アリスが唇を噛んで顔をそらした。
しかし、ひくりと動く肩先が火村を楽しませる。
首筋に吸い付くと、頭を振って嫌がるが、唇の端から堪えきれない吐息が洩れていた。
指先を乳首に遊ばせながら、わざと低い声で、
「勃ってるぜ、アリス?」
と呟き、空いている手でいきなり脚の間を握る。
ビクンと仰け反る身体に、丁寧に舌を這わせる。
「単なる生理現象や。意味なんかあるかい、ボケ!」
「そんなはずはないな。大いに意味はあるだろう」
「触んな、もうええかげんにせぇよ、アホんだら! 変態! 変態中年!」
「二回言いやがった」
「うるさいわ、もう、放せって! 猫マニアは帰って猫撫でてろ!」
二の腕の柔らかな内側を撫でた瞬間に、アリスは反射的な動きでぐっと腕を縮めた。
手首をくくったネクタイが、ガタンッとテーブルの脚を引きずる。
「あ……っ」
その衝撃で、縁に置いてあったコーヒーカップがアリスめがけて落ちた。
その寸前に、火村は素早くその間に覆い被さるように身を入れた。
ちょうどさっき蹴り飛ばされた背中の真中にカップがあたり、思わずうめき声が出る。
アリスがぴたりと固まった。
「ひ、むら……?」
「……っつ……」
「あ、ひ、火村、火村、君、早う……冷やせ、嫌や、火傷になる! 火村!」
さっきまで眦を吊り上げて怒鳴っていたアリスが、おろおろとし始めた。
そっと身体を起こして顔を合わせると、彼は軽く涙さえ浮かべている。
「なにしてん、はよ冷やせって、なぁ」
必死で言う顔は心配が一杯に溢れていて、火村は迂闊にもそれに感動した。
照れ隠しとしてもあまりに実害のありすぎる普段の行いから、一転してこういう本気を見せられると、相手がアリスだけにそのギャップはかなりのものだ。
とはいえそのせいばかりでもなく。
ただ純粋に、嬉しいと思う。
「馬鹿アリス」
「ぅ……、く、悔しいけど確かにその通りや、ごめんな、熱かったやろ。なぁ、頼むからこれ外して、冷やしてやるから」
「頭回ってねぇって意味だよ。落ちたのは俺が飲んでたカップだぜ?」
「……う?」
「火傷するほど熱かったら、飲めるわけねぇだろ」
息を吸い込んだ直後、アリスは言葉もなく一気に真っ赤になった。
自分の慌てぶり――といよりも素直すぎた心配の仕方に狼狽したのだろう。
言い訳すら出来ずにひたすら黙り込む彼の手首から、ネクタイを外す。
自由になった腕をそれでもそのまま万歳の形にして、アリスは固まっている。
「悪かったよ。からかったんじゃないんだ」
「……タチ、悪いわ、君……」
「そんなに心配してくれるとは思わなかった。驚かせてすまない」
「も……ええわ、どいて」
火村はアリスを引っ張り起こし、ぼんやりしたように床に落ちたカップを眺めて座り込む傍らで、シャツを脱いでこぼれたコーヒーを拭った。
「それ、もう着られへんな」
「そうだな」
「合鍵、まだ欲しい?」
「ああ」
短く返事をすると、アリスは黙り込んだ。
その唇が、拗ねたようにちょっと尖っている。
「なんだよその顔。そもそもお前が一方的に絶交なんて言い出すから悪いんだろう?」
「なんで君の意見聞かなならんねん」
「お前の我侭は散々許してきたけどな、それは駄目だ、許容範囲を越えてる。俺なしで俺との関係をお前が決めるなよ」
「そやって……嫌やってんもん」
俯く顔を上げさせて、睨む。
「女と出かけるのが嫌なら、そう言えばいいだろう。いきなり絶縁じゃなく」
「ちゃうわ、君が出かけんのが嫌なんやなくて、そういうんに嫉妬する自分が嫌やってんもん。ええ年してふらふらしとったら何かと良うないし、身を固めるんは悪いことやないと思うねん、それはしょうがない言うか、喜んでやらないかんのに」
「嫌だった?」
「自分がこんな心の狭い人間やとは思わんかった」
アリスの言葉に、温かい歓びが満ちる。
悪趣味かもしれないが、そうやって落ち込んでいる理由が全部自分のことなのだと思えば、我侭放題の彼も自分にだけは弱いのだと実感した。
「まあいいさ。彼女とはプライベートでは会わないことにする。それでいいだろ」
「投げ遣り……」
「そりゃそうさ、どうでもいいんだよ、女のことなんか」
「いくない」
「なんだよ、いくない、って……」
「嫌や……」
キスしようとしたが、逃げられた。
恨めしそうな顔で見ているくせに何も要求しないのは、彼なりに申し訳ないという気持ちがあるゆえだろう。
もう少しこらしめても良いかとも思ったが、涙目で火傷を心配した時の顔に免じて許してやることにした。
耳元でこちらも素直に気持ちを囁いてやって、ようやく笑顔が返ってくる。
結局、周囲の人間のことをなんだかんだと言いつつも、アリスに一番甘いのは自分なのだろう。
それでもいいと今は思える。
もう二度と、さよならなんて言わせない。
end
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