2.




朝になって、午前10時ぴったりに婆ちゃんの声に起こされた。
全然寝たりないと全身が目覚めるのを拒否するが、基本的によっぽどの不都合がない限り婆ちゃんの声を無視はできない火村である。
よろよろと起き出し、階下に返事をすると、

「お荷物来てはりますよ、はんこ持っていらっしゃい」

と、不在の時には受け取ってくれるが在宅している時は声をかけるという、彼女のルールに従って呼ばれる。
何かが届くのは嬉しいことだ、というのがその理由らしい。
娘からの贈り物であるとか、通販で買った鍋だとか、お取り寄せの食材だとか、婆ちゃんの受け取るものは封を開ける楽しみがある。
そしてその楽しみというのは、荷物が届いた瞬間が最も良いのだと言う。
ゆえに、火村にもその時を味わうべきだ、ということだろう。


しわくちゃのスーツを見下ろし、一応ジャケットだけを脱いで降りる。
胸元にクロネコを刺繍した作業着を着た若い男が、お届けものです、と律儀に繰り返す。
まだ完全に目が開いていないので、男の顔は見えないが、刺繍は可愛かった。

「では、失礼しまっす!」

爽やかに挨拶された火村の足元には、でかいダンボールが残された。
よろよろと二階に持ってあがる。
眠気でぼうっとしているのに、この荷物を抱えて落ちなかったのは奇跡だと思う。

這うようにして布団に戻りながら、送り主の名前だけちらりと確認する。
有栖川有栖。

「なんだあいつ、荷物なんか送って。直接持ってくればい……」

がばりと起き上がる。
思い出した。
眠気はすっかり覚めていた。
昨夜の死にそうな疲労から、一晩ぐっすり寝て、ようやく普段の回転数が戻って来る。

『ばいばい、火村』

アリスに絶交された。





本日三本目の煙草を吸いながら、床に散らばったダンボールの中身を眺める。
ほとんどが本で、中には学校から火村名義で借り出したものもあった。
スーツが一揃い、ネクタイが数本、靴下、下着、カップ、歯ブラシ、髭剃り、タオル、万年筆、古い名刺入れ、リング型のペンダントヘッド、買い置きの煙草、目薬。
景品で貰ってそのまま置いて来た干支の置物。
最後のは明らかに嫌がらせだ。
ダンボールの底には、まだこまごまとしたものが入っている。

「なんだってんだ、畜生」

本当にアリスはタイミングを狙うのが上手い。
昨夜あんなに疲れていなければ、あっさり電話を切らせたりしなかった。
好きだとアリスは言った。
火村が好きだ、と。
人を混乱させる天才は、勝手に絶交を宣言しただけでなく、その理由まで無茶苦茶だった。

だがアリスの無茶苦茶には慣れている。
解らなければ聞けばいい。
いつだってわが道を行くけれど、聞けば必ず答えが返って来る。
それがアリスだ。
たまにはその答えもあまり分からなかったりするが、そんなことは瑣末なことだ。
聞くこと、答えること、それが二人のつかず離れずの関係を持続させた、一番の理由だと火村は思っている。










チャイムを押してもうんともすんとも応答がないが、火村は驚かない。
車はあった、カーテンが閉まっている、ゆえにアリスはまだ寝ている。
人を朝早くたたき起こす目に合わせておいて良い度胸だ、と火村は若干、口の端が引きつった。
合鍵を使って部屋へと入り、またチェーンをかけていないことに憤慨し、リビングでジャケットを脱いでソファに放り出してから、寝室のドアを開ける。

予想通りアリスがいた。
ほんの少しだけ、声をかけるのをためらう。
いつもは大の字になって天下泰平な寝顔の彼が、今日はなぜか、胎児のようにまるまって毛布に顔をうずめていた。
目から下が隠れた顔は、額の上で乱れた前髪のせいか、なんだか頼りない。
強い視線を塞ぐ瞼は、睫毛も揺れずにぴったり閉じられていた。

どうせ起こしただけでは話が出来ないし、ともぞもぞ口の中で言い訳をして、コーヒーを落としにキッチンに退く。
がりがりと頭をかいて、考えるまでもなく二人分の分量で豆をミルに放り込む。
スイッチを入れると、がりがりがりがりういいいんという音が響き渡る。
よきところでスイッチを切り、ペーパーフィルタに粉を移しているその時、バタン!と少しあけておいたはずの寝室のドアが閉まった。

「あ、クソ! こらアリス、出て来い!」

しまった、珍しくたかがミルの音なんかで起きるとは、予想外だった。

「何や君は! なんで勝手に入ってんねん!」
「そのための合鍵だろうが」

今まで何度、寝たまま人知を越えたいずれかへ旅立とうとしているアリスを引きとめ食事をとらせたり、締め切りに必死の形相で追い立てられている傍らで家事をこなしたり、熱と咳と鼻水でとても世間様には見せられない姿を看病したりしてやったと思っているのだろうか。
それもこれも、いちいちアリスの出迎えを待っていたら出来やしなかった。
なのに今更になって咎めるとはどういう了見だ。

「そうや、合鍵も返せ」
「いいとも。きちんと理由を説明してくれたらな。そして俺がそれに納得したら、だ」
「なんやと、お前、昨日の話聞いてへんかったんかい!」

ドアをとんとんと叩き、落ち着けよと示す。

「悪かったよ。言っただろ、まともに寝てなくて頭が働いてなかった。聞く分には聞いたが、まだ聞き足りないところもあった」
「そんなん、君の都合やんか。知らんで、俺は昨日で君と絶交したんや」

この方向は駄目らしい、と、素直に謝る路線を素早く切り捨てる。
周囲を見回し、ソファまで戻って用意してきたものを掲げる。

「よしアリス、ここにお前の欲しがってた某ミステリ最新刊の原書、しかも日本未発売がある」
「え!?」

釣れた。
容易すぎる。

「ドアを開けて確かめてみな。本当は先月のうちにジョージに頼んで向こうの友人とやらに探して貰っていた。クリスマスに進呈するつもりだったから研究室に隠しておいたが、今朝わざわざ取ってきたんだぜ。ちなみに日本で翻訳発売されるのは来年の冬だ。ほら、俺はここから動かないから」

そろそろとドアが三センチほど開く。
火村は手にもった本の表紙を向けてやった。
ごくりとアリスの喉が鳴る。
なにせ嘘はひとつもない、全部本当のことだけに、餌としての効果は高い。
声に混じる欺瞞も一切ないから、アリスもすぐに食いついた。

「う、うー、嫌や、人の話をきちんと聞かんかったお前が悪い」

なんとか踏ん張ってます、というような声で拒否される。
やはりな、と火村は肯いた。
大事な話はきちんと顔を見て言うのがいつもの彼だ。
よっぽど面と向かっては言い難かったのだろう。
だから電話だったし、あの時間で、あのタイミングだった。
しかし火村とて、伊達に長くアリスに付き合っていない。
餌が一段階だと思ったら大間違いだ。

「よし、じゃあほら、お前の大好きなハーゲンダッツチーズケーキテイスト」
「舐めとんのかい、俺がオヤツでつられるか!」
「を、この本に落とす」
「な……なんやと!?」

ドアが5センチ開いた。
ニヤリとする。
本が持ち帰られることも、アイスが食べられないことも、まあなんとか我慢できる範囲だろうとは思っていた。
けれども、それが誰かに楽しまれるならまだしも、本来の機能を果たせない状態にされるのはアリスには絶対に耐えられない。

「幸い、アイスは食べごろに柔らかくなってるしな」
「鬼! 鬼畜! なんちゅうえげつないことを平気で言いよるんや君は!」
「落とすより、浸すほうが被害がでかいか」
「ひぃぃッ、聞くだけで背中が凍るッ、中年サディスト!」

お前だって中年じゃねぇか、の声を必死で押しとどめ、ゆっくりと二つを差し出してやる。

「だったらここに来て座れ。この本を助けられるのはお前だけだ」

カチリと静かに閉まったドアの向こうで、葛藤にのた打ち回る音がしばらく聞こえていた。



5分後、火村はソファに座り、正面でハーゲンダッツのカップをひたすら味わっているアリスを眺めている。
もう少しかかると思っていたが、予想以上に早すぎなんじゃないのか。
まあ多分、どっちにしても逃げられないと踏んだのだろう。
火村がアリスのことを解っているくらいには、アリスも火村のことを知っている。
閉じこもったところであっさり帰るような男ではないと知っているのだ。

「で?」
「なんや、で、って。聞きたいことがある言うたんは君やろ。もっとまともな質問せえ」

むすっとしている。

「つんけんするなよ。こうして会うのだって久しぶりだろう? せっかくの訪問が不機嫌で台無しだぜ」
「不意打ちで来て何がせっかくの、やねん」

その言い方に、火村は眉を寄せた。

「なんだ、お前ほんとに、昨夜の電話だけで何もかも終わると思ってたってことか? いくらなんでも、俺を見くびりすぎだろう」
「君の何を見くびった言うねん」
「電話一本でお前との付き合いを切れるほど、俺は人付き合いを馬鹿にしちゃいない」

プラスチックのスプーンを嫌うアリスは、アイスをすくった自前のデザートスプーンをくわえてため息をつく。

「うーん、君の非常識ぶりを見くびっとったかも」
「なんの話だ」
「そやから、電話一本言うたかてな、手段とか時間とかの問題ちゃうやろ、内容が内容だけに、もう来んやろうと俺が思うておかしくないはずやねんで、君ほんとに覚えてんの? 全く、危機感がない言うか当事者意識がない言うか」

世にも悲しそうな顔になった。
と思ったら、アイスが空になったのが悲しかっただけらしく、いじましくカップをかりかりと引っかいている。
だがやがて諦めたらしく、キッチンに立ってゴミを捨てスプーンをシンクに置いてから、サーバからコーヒーを注いだりしている。

「覚えてるさ。俺が好きだって?」

背中にそう言うと、唸り声が聞こえてきた。

「……言うかぁ、普通? まあええけど」
「俺が女と出かけるのが気に食わないのか」
「あ!」

冷凍庫を覗いたアリスが、大声を上げて、それから期待に満ちた目を火村に向けた。
少女漫画もかくやという勢いで、目に星が散っている。

「駄目だ、それは俺のだ」
「えー、ええやん、どうせお前すぐ帰るやろ、途中でまた買えばええやん!」

火村の分のハーゲンダッツを発見したのだ。
さっきまでの憂鬱そうな気配が微塵もない。
火村はこれに弱い。
はちきれんばかりの期待を込めて見つめられると、じりじりとそれに応えたくなってくる。
思えば、周囲のアリスをかまいつける人間たちというのは、このじりじりが一瞬なのではないだろうか。
耐え切れずに引き寄せられてしまうのだ。

「すぐ帰るって決めるな。……半分だけだぞ!」
「やっほぅ!」

新しいスプーンを出して、あっという間にカップに突き立てる。
満面の笑みが悔しいったらない。

「ああ、まだあると思うたらさっきのももっと楽しめたのに。これしかないって思うよりそのほうが美味しい気がせえへん?」
「恋人じゃないって言ってるだろう」
「今回はな。そのうち出来るやろ」

素早く話題を変えたが、アリスは遅れず着いて来た。
こういう息の合い方をどれだけの時間かけて作り上げたと思っているのだろう。
なぜそれをあっさり切ったり出来るのだろう。

「誰とも付き合わなければ、こんな馬鹿げたことは撤回するのか?」

アリスは笑った。

「君それ、どんな罰ゲームやねん。今はええけど、ほんとに好きな人出来たらどうすんの、自分の一時の気持ちに、一生縛られる気か?」
「……その時になったら俺のほうが撤回するかもな」
「君の方が俺を絶交する言うこと? 今の約束を破って? うーん、それはない」

あっさり首を振る。

「むしろ君は約束を優先して、泣く泣く好きな人を諦めるね。賭けてもええよ。まあ話に乗る気はないから、賭けは成立せえへんけど」
「好きってさ、そもそもどういう程度の好きなんだ? 俺たちは友達じゃなかったか?」

アリスはちょっと考えるふうに首を傾げた――ふりをして、アイスを味わっている。
あれがなくなるまでは話になりゃしない。
火村は煙草に火をつけた。
なんだか、久しぶりのニコチンのような気がした。

「確かに友達やったけど、その時の好意とは明らかに違うねん」
「どう違うんだ」
「えー、どうって、うーん、どう説明せえっちゅうの」
「仮にも作家だろ、なんとかわかるように言葉にしてくれ」
「仮やないわ!」
「あッ、てめぇ何全部食ってんだよ!」
「うっかりや」
「今最後に無理矢理口に運んだのもうっかりか」
「うっかりや」

あくまで言い張るアリスは、空っぽになった火村の分のカップを軽々とした足取りで捨てに行った。
そしてスプーンをシンクに置こうとして、はっとしたように振り向く。

「おお、そうそう、どんくらい好きかっちゅうとな!」
「あ? ああ、うん」

にっこりと笑う。

「ヤられたいくらい好き」

豪速球に目が飛び出るかと思った。

「マジか!?」
「マジや。吃驚したか、俺の完璧な表現に」
「完璧の意味を聞きたくなるくらいには」

せわしなく煙草を吸う火村に対し、アリスは今度こそコーヒーを飲んですっかり寛いでいる。
どうにもおかしな光景のような気がしたが、まるまって寝ていたアリスを思い出すとなんとなく何も言えない。
けれどふと、

「ヤられたいってさ、ヤりたいではないわけか」

と、好奇心で聞いてみた。
アリスはこれまで男と付き合ったことはないはずだ。
隠せるほどプライベートを知らないわけではないし、むしろ女との付き合いは開けっぴろげに痕跡を残して平気なヤツだ。
ゴミのなかにゴムを発見したのはあれは、5年前?
いや、6年前?
思った以上に昔のことで、学生時代になんだかんだと途切れず女がいたアリスにしては、随分一人の期間が長かったんだなと改めて気づく。

「ええー? ヤる? つまり、俺が君を?」

アリスは心底嫌そうな顔で、火村の姿を眺め回した。

「君は色々と固そうやもん、全然その気になれん。っつか萎える」
「萎え……お前、好きだって言った相手になんてことを」
「うげ、想像してもうた」
「想像で吐くな!」
「いやぁ、無駄にリアル」

自慢じゃないが、告白された人数ならそんじょそこらの一般人に負けない自信がある。
その数多い経験の中でも、裸を想像されて本気で気持ち悪そうな顔をされたのは初めてだ。
さすが、腐ってもアリス、普通の範囲に納まらないヤツだ。

「よし」

火村は煙草を消した。

「納得した」
「え?」

キィケースから、アリスの部屋の合鍵を外してテーブルに載せる。
そして、あまりに物分りが良すぎる火村に警戒している彼を置いたまま、じゃあなとひと言。

「お、おお? なんや拍子抜けやな」
「不満か?」
「いいや、全然」

玄関先で見送るアリスは、おなかのあたりを気にしていた。
アイスの食べ過ぎに違いない。

「じゃあな」
「本、ありがとな」

閉じかけたドアの隙間でもアリスは笑っている。











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