注:アリス→火村。なのに我侭で強引なアリスと振り回される火村です。お話の目的はエロです。
  切なさは控えめ、いや皆無です。痛い話を読んでしまった後のお口直しに(笑)

2.ばいばい (片想い)






1.





学生だった頃、下宿の入り口には昔懐かしい黒電話があった。
あれが白いシンプルな機械になったあたりでは、まだ火村もかなり頻繁に使っていたものだけれど、現在ある小洒落たポップカラーのコードレスになってからはほとんど世話にはなっていない。
婆ちゃんに我侭を言って、部屋に電話回線を引いてもらったからだ。
あれは、給料を貰うような立場になって少しした頃だろうか。

もちろん回線は自分で買ったし、名義も火村のものだ。
下宿に工事の手を入れてしまうことを詫びると、婆ちゃんは、火村さんの頼み事は珍しくて嬉しいもんですえ、と笑っていた。
本当のところ、やれ布団を貸してくれだの、時間外だが風呂を立ててもいいかだの、猫を飼ってもいいかだの、頼み事は沢山している。
けれどもほとんどは火村が直接その恩恵にあずかっている訳ではない――せいぜい猫についてのお願いくらい――と彼女も解ってくれている、ということだ。
大概は、十四年来の友人である有栖川有栖の我侭が、巡り巡って婆ちゃんに手間をかけさせてしまうのである。

信じられないことに、周囲の人間はあの我侭自由業に迷惑をかけられても、ちょっとにっこり微笑んでお礼を言われようものなら、即座に許してしまう。
それどころか、自分から進んで何でもしてあげようと言い出す始末だ。
例えばあの一番頻繁に被害に遭っている編集の片桐、あれなどが良い例だろう。

火村はスーパーナチュラルな現象は一切信じないけれど、もしかしたらアリスから周囲を懐柔する何かが滲み出ているのかもしれないと思ってしまう。
無理と無茶を通されておいて、口にするのが、有栖川さんって人当たりの良いかたですね、とは何事だろう。
もしかして火村一人を残してみんなそういうお芝居の俳優なのかもしれない。
星新一も吃驚だ。

とにかく――。
電話の話だ。

部屋に回線が引かれて良かったのは、下まで階段を降りて行ったり夜中に気を使って声を潜めたり、そんな苦労が減ったことだし、それに数年前にネットを開通することも出来た。
そして悪かったことは、ただでさえ我侭やりたい放題の有栖川有栖が、会社を辞めて勤め人の仕事時間をきれいさっぱり忘れた挙句、それまで婆ちゃんに遠慮していた時間帯にも平気でベルを鳴らすようになったこと。

だがしかし、ベルなんて古式ゆかしい表現をしたが、あの懐かしの黒電話には出来ない芸当がこの部屋のオレンジの機械――オレンジ!――アリスが勝手に買って来た――には備わっている。
呼び出し音をゼロに出来るのだ。
アリスがしでかしたことで唯一褒めてもいいと思える機能だろう。
とにかく疲れている時、急ぎの仕事が終わってぽっかり時間が空いた時、火村は必殺のこの機能を拝むように使わせてもらう。
あまり頻繁だとアリスに気づかれ、別な電話に換えられてしまうかもしれないから、いざというときの火村のとっておきなのだ。
あれは嫌がらせの天才なので、今度はスケルトンのピンク、なんてことをやりかねない。

ところが、昨日はぜひそれを使うべき夜だったのだけれど、あんまりにも、そう、あんまりにも疲れていて、うっかりボリューム変更を忘れてしまった。

なにせそれ以前の一週間と言ったら、破格の忙しさだった。
しかも今回は他の誰のせいでもなく、火村自身が所属学会で研究発表をするという大舞台で、あれこれと批判も多い手法のこと、それなりの結果を提示しなければならないという気負いもあった。
ほとんど寝る間もなく原稿を詰め、発表前日にやっと終わったと思ったら、事前抄録の内容を書き換えなければいけないことに気づいて、ほぼ徹夜で書き上げた。
そもそもあんな抄録など、ぺらりとA4一枚を発表の数ヶ月も前に提出しなければならないのだ、質問やディスカッションの内容を詰めなければいけないとはいえ、あてにならないことこの上ないのは誰もが承知のはず。
けれども、主旨が一貫しないとか目的がそもそも変わっているとか、下手に突っ込まれる箇所はないほうが無難ではある。

なんとか矛盾のないものを仕上げ、1時間だけ仮眠して、朝早くに列車に飛び乗り、名古屋のコンベンションセンタに着いてすぐ発表、質疑応答を潜り抜けて、午後はスライド発表の司会、ふらふらしながら懇親会に付き合い、二日目は何の割り当てもないのを良いことに最終の電車で帰って来た。
そしてそのまま、スーツも脱がずに布団に倒れこんだのだ。

ああ明日は絶対に午前中には起きないぞと誓い、すっと眠りに入ろうとしたその瞬間、電話が鳴った。
こんな夜中に遠慮なくかけてくる、というよりも、こういう絶妙な嫌がらせのタイミングでかけてくるのは、アリスしかいないと確信していた。
そう解っていながら出てしまうのは、無視したことがばれるとどんな仕返しをされるか解らないからだ。

これまでで一番酷かったのは、火村がいない間に勝手に部屋に入り、どうしても必要な資料を駅のコインロッカーに入れて鍵の場所を示した暗号だけを残し、消えていた時だ。
しかも無駄に難解で、ひらめきの問題ではなく解くのに時間がかかるタイプだった。
進まないモニタを前に、仕事とは全く関係のないロジックを必死で解いたあの焦燥感と言ったら、怒ったり泣いたりを通り越してあははははと大声で笑いそうになった。
人はこうやって狂っていくのかと納得したりしなかったり。
後々つらい思いをするくらいなら、今少し眠気を我慢したほうが得だった。

「はい、火村です」
『うわ、暗っ、明らかに寝てましたみたいな声やし』

ビンゴ。
嬉しくない。

「アリス、済まないが俺は物凄く疲れてて、物凄く眠い。悪いけど話なら明日にし」
『すぐ終わるからまあちょっと聞けって!』

お前が聞け。
今気づいたが、アリスはやけにハイテンションだ。
何かが確実に脳内で分泌されている感じだ。
昨日今日の締め切りなんて聞いてないし、追い込まれているというほどの原稿もなかったはず。
何があったか知らないが、こっちのエネルギィが今にも切れそうな時にこの浮かれっぷり、実に実に、さすがとしかいいようのないタイミングである。

『重大発表です!』
「あ、そう……」
『まあさっき思いついて決めてんけどな』

悪いが突っ込む気力はない。
唸り声で返すが、どっかにいってしまっているアリスは気にしないようだ。

『あれです、今日限り、俺は君と絶交することにしました!』

でれれってれー、とドラえもんが道具を取り出す効果音でもついていそうな語尾でアリスが嬉々として叫ぶ。
タケコプタは現実では人間のほうがぐるぐる回ってしまうらしい。
火村はスモールライトもお座敷釣堀もタイムふろしきもいらないが、どこでもドアだけは欲しいと思ったことがある。
移動時間を短縮できたら、今日だってこんなに疲れていないかもしれない。

とにかく眠くて眠くて、言っている意味が普段のスピードでは理解されなかった。
いやそもそも、普段から火村のような常人には理解し難い言動をする推理作家である、お互いのテンションがこれだけ食い違っているときにはもう絶望的と言える。
それでも、幾多の講義、講演、発表、検討会に参加してきた経験は伊達ではなく、文章の中から自動的にキィワードを拾った。

「……絶交、って言ったか、今」
『うん』

回らない頭を必死で探り、さて最近何か怒らせるようなことをしただろうか、と考える。
だがどうも思い当たらないし、そもそも忙しくて全然会ってもいない。

「悪い、心当たりがない」
『へ? 何が?』
「いや、だから絶交なんて今時なかなか聞かない言葉をいただく心当たりが、ない」
『そんなん当たり前やん、まだ理由言うてないもん』

がっくりきた。

「おま……俺の預かり知らない理由で怒ってんのか」

アリスは呆れた声を出す。

『誰が怒ってるって言うたんや。別に君は何も悪ないで?』
「うーん……なァアリス、それ今じゃなきゃ駄目か」
『駄目。ええと理由はやね、ほら、君、最近になって彼女が出来たやん?』
「はァ?」

少しだけ、さっきよりマシになった頭のなかで、ああと思いつく。

「別に彼女じゃない。ただ顔を合わせる機会が多いから、頻繁に食事行ったり、お疲れ様ですって飲みに行ったりするだけだ。それがどう絶交の理由に繋がるんだか知らないが、早くしてくれ、眠いんだ」
『それが理由』

アリスの声がちょっとだけ小さくなった気がした。
だが気のせいだったのか、はァ?と今日何度目になるか解らない声を出すと、

『聞いて驚けよぅ、実は俺、君が好きみたいやねん。まあ彼女やないかどうか知らんけど、君、そこそこ顔だけはええからな、そのうち好きな子でも出来たらよっぽどやない限り上手くいくわな、そしたらほら、オッサンやし結婚てことになるやんか?』

空いた口が塞がらない、というのはこの場合、慣用句としては妥当ではないかもしれないが、現象としてはぴったりだ。
逆にアリスの口はよく回る、今日はいつも以上に絶好調だ。

『君、友達おらへんもんね、恋の相談とか受けたら俺どないしよ思うてな、しかも結婚式でスピーチとか頼まれたら目も当てられん、あ、ほら俺って一応、作家やし、文化人として完璧なスピーチしたらなあかんねんよ、でもなぁ、君に結婚おめでとうとか言える気せえへんわ、むしろ今すぐ離婚してしまえと叫べかねん。大体俺にずっと恋人がおらんのになんでお前だけ!』

明らかに最後は主張が変わっている。
しかしそんな細かいところに突っ込んでいる場合ではないし、何気にかなり失礼なことばかり言われたことについても、とりあえず聞かなかったことにしてもいい。

「アリス、アリス、落ち着けよ、お前自分が何言ってるか分かってんのか?」
『おう。あ、もしかして君がついて来れんかったか? まあそうやろ、俺も自分が君を好きやなんて気づいた時にはパニックやったもん、思わず芋焼酎なんか一本からっと開けてもうた』
「あッ、もしかしてそれ俺が頼んだヤツじゃないのか!?」

電話の向こうから、しまったつい口が滑った、という沈黙が5秒、それから何事もなく、

『そういう訳で、一週間前に俺は痛む頭を抱えて、自分の気持ちを認めたわけや』
「時期もぴったり合う。頭痛は二日酔いだろう、てめえ」

恨みがましい声が出た。
ある老舗の酒倉から、取って置きの芋焼酎が限定で蔵出しされるというので、後でお返しに何を要求されるか分かったものではないと知った上で、ちょうど講演でその地に出かけるというアリスに土産を頼んでいた。
決死の覚悟だったのに、一人で飲んだという。

『ええっと、そういうことで、俺はこれ以上、君の傍で幸せを見守るのに耐え切れんやろうと思うのよ』
「そうだ、まさか俺が忘れてきた日本酒は!」

新潟の出張をわざわざ引き受けて買って来た、今年の冷やおろしは、ちょうど今がぎりぎり飲み頃のはずだ。

『うわ、君あれやばいで、さすがに若いけど香りがええのなんのって!』
「アリス」
『また買うてきたらええよ、うん』
「限定なんだ」
『君、意外と好きやんな、限定』

疲労がたまりにたまった身体に、失望まで押し込んでくれたアリスは、しみじみとそう言った。
二本の酒は、ちょっとないくらい楽しみにしていたものだったが、まずこの程度で本気で腹を立てていてはアリスの友人など務まらない。
なので、激怒というほどではないにしても、さすがにむっとする。

「今の話が先だったら、絶交ってのは俺から言ってたかもしれない」
『あ、そう? 賛成してくれるん? いやぁ、君ほんまに友達おらんし、嫌やって駄々こねられたらどないしよう思うてたわ』
「俺をなんだと思ってんだ、人付き合いならきちんとしてる。飲みに行く相手だっている」
『彼女とかな!』
「彼女じゃない」
『まあ大阪に宿泊場所がなくなるんだけは困るかもしれんけど、いざとなったら船曳さんとこで留置所でも借りたらええねん、ははは、ついでに鍵もかけてもらえ、ええ経験や!』

火村は疲れていた。
一週間まともに寝ていなかった。
朦朧とした頭で、顔の見えない電話の向こうの言葉をきちんと受け取ることは難しかった。
これが警察からならば違ったかもしれない。
だが、アリスの声は緊張と正反対のものを生む。

『ほんならな、もう電話もせえへんからよく寝なさい、会うこともないやろうけど本が出たら見たってな、ちゃんと買うてからな。二冊くらい買うてくれてもええねんで。俺の生活に貢献せえ。なんなら十冊買って配れ。君のもん色々うちにあったけど、全部まとめて送ったから。宅急便や。宅急便てクロネコのマークで御馴染みの会社しか使われへんねんで、知っとった? 商標やね。他んとこは宅配便言うの。君の猫マニアなツボをくすぐるかと思うて、宅急便にしといたから。今日送ったから、明日届くで。時間指定しといた。えーっと、着くのは……明日の午前中』
「午前……!」

明日は午後まで寝ているとついさっき決めたばかりなのに、

「アリス!」
『ばいばい、火村』

電話は勝手に切れた。












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