2.
火村が学者になったと聞いて、唐突に望遠鏡を覗いている姿が浮かんだのはきっとそんな記憶があったせいだろう。
あれはどこにいったんだったか。
確か捨ててはいないはずだ。
なにせ面白くて割と結構な量になったため、処分するのが惜しくなったのだ。
彼が大学に残るらしいということは卒業前に有栖川から聞いており、本気で天文学者になったなどと思っていたわけではない。
それでも、犯罪学という選択にはいささか彼らしくないというイメージもある。
皆にそう言うと、むしろぴったりだろうという反論をくらうのだが、私にとって彼はいつまでも道ならぬ恋を大切にするロマンティストなのだ。
そして有栖川は宣言どおりに夢をかなえた。
「ヒナタ!? ヒナタやないか!?」
だから買い揃えた彼の本で、最近の姿はちゃんと知ってる。
久しぶりに里帰りした大阪の駅でそう声をかけられた時、けれど姿よりもまずその声ですぐに彼だと分かった。
少し低くはなったが、嬉しそうな溌剌とした声はあの頃と変わりない率直さだ。
「有栖川! 久しぶりやなぁ、なんや、お前まだこっち住んどるんか」
「さすがに実家やないけどな。君はお盆の帰省?」
「そう。ああ、お前の本、読んどるよ。全部持っとる。頑張っとるんやな」
有栖川は照れる様子もなく、にこりと笑ってありがとうと言った。
自分の書き綴ったものを読まれることに対して、羞恥よりも自信が勝っている、それほど彼は職業としての作家になったのだと実感させられた。
「お前さ、火村が助教授になったっての、知ってたか?」
「あれ、ヒナタ、火村になんか相談? あいつ今も京都に住んでんねんけど…」
知っているかいないかを聞いたのに、全く意味不明の問いが跳ね返ってきて、私は少々戸惑ってしまった。
やがておぼろげながら文脈を半分ほど読み取り、頭の隅がジンと痺れるような驚きに眩暈を感じる。
ああ、まさか、あれから十数年も経っているのに?
「あ」
かすかに傾げていた首が伸び上がり、有栖川の顔は私の背後に向かってあの頃何度も見ていた表情を浮かべた。
さすがにぶんぶんと手を振ることはないが、軽く手を挙げて存在を主張する。
「火村、こっちや」
まだ回る視界をくるりと後方に転じると、改札を抜け、長身の男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
だらしなくネクタイが緩めてあるのは今日が酷く暑いせいだろうか。
「わざわざお迎えご苦労」
「ついでやっちゅうねん。それよりほら、火村、覚えてる?」
彼の視線は真っ直ぐ有栖川だけを向いていた。
そのせいで、正面で話している私が目に入らないというミラクルな展開になっている、などとはさすがに私も思わない。
その証拠に、彼は笑った。
あの時と全く同じ顔で、笑った。
「もちろん。日向だろう」
「あれ、凄いやん君、他人の名前なんて記憶される余地があったんか」
「人による」
「へぇ。印象に残るような何かがあったゆうこと?」
私はまた、一枚ベールを挟んだように彼らと隔たった。
有栖川の声に、かすかに不満な気配が混じったのだ。
火村が私に気付かない風に有栖川を真っ直ぐ見ていたのは、あれは、私に対して教えたのだ。
愛するだけでも見守るだけでもなく、彼は他の存在に目もくれず有栖川の一番近くに歩み寄れる人間なのだと、そう示したのだ。
火村は有栖川を宥めるように、ではなく挑発するような口元で小さく何かを囁いた。
有栖川はぱっと赤くなり、そんなんちゃうわ、と怒り出す。
「そ、そんなことよりヒナタ、火村に相談あるんやないの?」
「相談て、何のことや?」
「あれ、そっちやないの?」
「よく分からんけど、俺はただ…」
もう一緒にいないと思ってた。
私はそれを口に出すのをかろうじて堪え、それから曖昧に笑って見せた。
どうせ何を言っても、火村には見抜かれてしまうのだろう。
本当は分かっていた。
火村はロマンティストではあるけれど、現実的だ。
手に入らないと、そう予想したのは、あれは私の願望だ。
「ヒナタ、せっかくやからメシでも行かん? 美味しいとこ見つけてん」
「いや…一本後でツレが来んねん。残念やけど」
「ああ、結婚したんやね」
「え?」
「それ」
有栖川はにこにこしながら私の左手を指した。
「さすがやん、観察眼あるね」
「えー、ちょお火村、聞いた? 今の録音して何回も聞きたいわ」
「馬鹿じゃねえの」
「馬鹿言うな! 言われつけへんから嬉しいねん!」
「自分で言うなよ」
ポケットを探っている有栖川に先んじて、火村がさっさと名刺を取り出した。
「俺が渡したからお前はいいだろう、アリス?」
わたわたしている彼ではなく、私を見ながらそう言った。
私には肯く以外に出来ることはない。
つまり二度と偶然以外で有栖川と連絡をとることはないだろう。
私が渡した名刺はきっと火村の手で何時の間にか紛失されるのだろうし、火村から貰った連絡先に私が電話をすることもない。
今度こそはっきりと威嚇され、私は自分が完全にはじき出されたことを知る。
「電車、来たみたいやから」
「うん、ほんならまたな、ヒナタ」
「うん」
笑って手を出した有栖川のその指先を、そっと取る。
人殺しの話を生み出す手だ。
けれど私は知っている。
彼の書く話に登場する学生達が、どんなに優しく、若いなりに瑞々しい感性に満ちた子達であるか、そしてどれだけの可能性が彼らに残されているか。
あれは有栖川だから書けるのだ。
「またな」
守られるかどうか分からないが、自ら道を外れた私に残された希望をこめてそう呟いた。
火村は何も言わなかった。
ふたり並んで去っていく背中に、聞こえない距離で呟く。
ずっと君が好きだったよ、有栖川。
あらゆる障害を乗り越える勇気もない私は愛することさえ放棄したが、他人を恐れない火村はとうとう彼を手に入れたらしい。
私にはもう可能性すら残されていない。
けれど後悔はしていない。
同じことだ。
私にとって、有栖川、彼はいつでも星なのだ。
頭上に瞬き暗闇に光る、手の届かない道標。
改札を振り向き、私は妻を待つ。
深呼吸をした空気が、一瞬だけ22歳のあの夏の匂いをさせた。
end
Back
これは一体誰の話なのやら(笑)