4.
チャイムに答えて私は玄関を開けた。
お疲れの准教授が立っている。
私はそのくたびれた様子に苦笑しながら、彼を招き入れた。
「割と早かったな。夜中んなるんやと思うてた」
「煮詰まってんだよ。途中で諦めて、ほうり出して来てやった。無駄に座ってるより、満月眺めながらドライブしたほうがマシさ」
「それはそれは。悪くないひと時やんか。君のあくどいとこもちょっとは浄化されたか」
「あくどいとはね。まさかお前に言われるとはね」
「あほ」
逃避の気持ちは分からないでもない。
気分転換も必要だろう。
リビングに腰を落ち着けた火村は、早速煙草を取り出している。
「メシどうする」
「作る気になれんやろ。どっか行くか、出前か。うわ、ほんまや、満月や」
カーテンを開いてから、そういえば今日は一度も外を見ていなかったと気づく。
作家家業と火村が笑う理由か。
さすがに自分でもがっかりする。
「通天閣も形無しだな。ほら、かすんで見えるぜ」
「自然に勝とうなんて大それた主旨やないわ」
「ほほう」
「なんや」
「別に。さあ、兎でも探したい年頃は分かるが、腹を満たすほうを優先させてくれ。面倒だし出前にしよう。……チッ、味気ねぇな」
「しゃあないやろ、男二人で贅沢言うな」
私はふと思い出し、
「そういえば、天農が君に誰か紹介するとか言うとったで。最初は……ジョークかと思うとったけど、本気やったわ」
「天農が?」
何気ない軽口に、火村は思いがけず鋭い反応を示した。
彼は何か急に、ぐるりと周囲を見渡した。
私はどきりとする。
火村ほど勘の鋭い人間を、私は他に知らない。
おそらくそれは勘ではないのだろうが、私に気づけない観察結果や情報を繋げて推論するやりかたは、勘となんら変わりないと思っている。
学生時代、天農が消えてしまった学内で、私は少し元気がないと言われたことがある。
葉書がきたことを伝える友人達から、不自然に離れてしまったこともある。
火村はあの頃から、何か気づいていたように思うのだ。
この再会に、彼はどれほどの意味を見出しているだろう。
「ここに来たのか」
私のふらつく視線を捉えて、火村は聞いた。
探るような目つき。
私はさいぜんまで迷いに迷っていたことに、思い切ってきりをつけた。
火村の目を見返す。
「ああ。そうや」
きっぱりと言う。
何か口を開きかけた火村を制する。
「君に無駄な隠し事はしたないから言う。俺と天農は」
「待て」
心臓が苦しくなる思いで告げようとしたのに、今度は私が止められた。
火村は煙草を挟んだままの手で額を押さえている。
「……待て、アリス。くそ、今日は俺を慰労してくれるんじゃなかったのかよ」
「君は性癖で人の評価を変える男か? 君には知っておいて欲しい。分かってくれると期待している」
何も答えない。
彼は厳しい顔つきのまま、ゆっくりと煙草を吸っている。
私は不安になる。
火村なら分かってくれると思っていた。
私が男と付き合うような人間でも、変わらず友人でいると思っていた。
違うのだろうか。
徐々に落ち着かなくなる私の前で、火村は急に立ち上がった。
そしてテーブルに投げ出していたケータイや煙草の箱をポケットに入れ始める。
「ひ、むら」
「今日は帰る」
私も立ち上がった。
今日は、とつけてくれたことにほんの少し安堵するが、少なくとも手放しの祝福ではないのだと感じ、このまま帰してしまって良いのだろうかと迷う。
もっときちんと話をしてもらうべきではないか。
思い切って引き止めようと顔をあげると、火村の睨むような視線に当たった。
「アリス。お前、天農が好きか?」
至極単純な問いに、私はびっくりしてぽかんとする。
ぎこちなく肯く。
「あ、ああ」
「それは錯覚だ」
「……え? なに?」
あまりにきっぱりと言い切られて、私は怒ることも出来なかった。
こんなふうに、人の感情を決め付けるなんて、彼らしくない。
「錯覚だ。お前、学生時代に天農となんかあっただろう?」
「な、なんかって」
「それも中途半端に終わったはずだ。お前はな、あの時に止まってしまったんだ。はっきりと始まりも終わりもしなかった恋に、いまだにぐずぐずと足を止めているだけなんだよ、アリス」
厳しい調子に、徐々に腹が立ってくる。
言葉が刺々しくなる。
「なんでお前にそんなこと言われなならんのや」
「俺はお前を知ってるからだ。あの頃だって本当にヤツを好きだったかなんて、怪しいものさ。不確かな模糊とした感情を、後から好意だったと思い込んだんじゃないのか?」
「火村……いい加減にせんと怒るで」
「ほらみろ、目をそらす。思い当たることがあるからだろう?」
私は言われて自分の仕草に気づいた。
かっとして、思い切り睨みつける。
「ない!」
「嘘だね。お前……何にも知らないくせに、よくも俺に勝手な期待なんかするものだ。本当になにひとつ知らないんだ、お前、知ろうとしなかったからな」
激しい口調のくせに、私を見返す彼の目にあるのは決して怒りではなかった。
そこに思いもかけない意味を読み取り、私は息を飲む。
火村は黙って立っている。
私を見ている。
そんな、馬鹿な。
否定するがそれも端から消えていく。
唐突に胸を突かれる。
身体が動かないくらいに、逆巻く記憶の勢いに巻き込まれていく。
私たちの十四年は、ただただ流れてきたわけではないから、視点を変えてみればどれもこれもとても強い意味を持って私をさらう。
それとも引き戻すのか。
私は――かろうじて踏みとどまる。
流されるのはもう嫌だ。
決めなければ。
私が決めなければならない。
何を?
そんなの――決まってるはずだろう?
ケータイが鳴った。
天農の曲だ。
何かに傾きかけた気持ちが、ぐっと引き戻される。
味わった彼の皮膚の滑らかさが舌の上に乗せられる。
火村は私の顔でそれと気づいた。
動きかけた私を彼は鋭く止めた。
「選べよ、アリス」
決定的な要求。
「口にする名が俺じゃなければ、もう二度と会わない。話もしない。お別れだ。俺であるなら、天農とは二度と会わせない」
「勝手な……」
「それはお前だ、アリス。今まで待った。もういい。もういい。選べ。俺はもう今が全てだ」
愕然と立ち尽くす私と火村の間でケータイが鳴っている。
*
カーテンが少し、開いていた。
妙に明るい光の筋が、寝室の床に落ちる。
私はそれを眺め、ゆっくりと愛する人の身体を抱きしめる。
この人の体温に息をつく。
こみ上げる幸福となくしたものへの痛みとが、もはや慣れのように入り混じって私を満たす。
君もこの月明かりをどこかで見ているでしょうか。
一緒に空を見上げたあの夜のことを、思うのでしょうか。
end
Back
ごめんなさいいろいろとごめんなさいかきたかったのかきたかったの。
ラストをどう解釈するかは自由なの自由なの!