2.
さらなる再会を果たしたのは、それから半年ばかり後だった。
私は火村とともに出かけたフィールドで、見知らぬ番号からの電話を受け取ったのだ。
『もしもーし』
「天農!」
そういえば名刺を渡しておいたのだった。
一声聞いただけで彼と分かった。
『ちょっと用事でさ、大阪に来てるんだ。お前の顔を思い出してつい電話してしまったが、なんだか取り込み中か?』
「いや、火村と一緒に現場に来とるんや。ちょうど帰り際やねん。君、今どこ?」
『ミナミ。ってかお前らはほんと、変わらんな。セットであちこちと』
時計を見る。
夕方の四時を回ったところだ。
「一時間くらい待ってくれたら、そっち着くわ。どっかで待っとけ」
『ああ。准教授様もおいでか?』
私は隣を歩いていた火村の顔を見た。
無言の問いかけに、彼は渋い顔をしてひらひらと手を振る。
「行けへんて。可哀想に、准教授様は講義ぶっ飛ばして参上なさったもんで、仕事が山積みなんやと」
「自分がちょっと締め切り終わったからって、何を偉そうに」
横から火村が憎々しげに言う。
「近くまで行ったらまた連絡する。ほんなら後でな」
電話を切って、火村をせかしながら駅へと向かった。
改札を通り、平日のラッシュまであと数十分ばかり余裕のある車内でなんとか席を確保する。
「ご機嫌だな、アリス」
「そうか?」
内心でドキリとする。
私はすでに、天農のことを考えていた。
年齢を重ねてさらに優しげになった目元や、骨ばった大きな手、私に触れたことのある形の良い唇。
皮肉っぽい火村の声で我に返る。
久しぶりに会ったかつての友人というスタンスを、忘れてはならないのだ。
「お仕事が残ってるセンセイからは、そう見えるんかもな」
「ちぇ、しつこいぜ、お前」
「ごめんごめん、週末にはちゃんとお疲れしたるから、大人しく頑張り」
「その慰労ってのは、俺にメシ作らせて食うってな話じゃねぇだろうな」
「え、君、俺のメシ食いたいんか」
「真顔で聞くな……」
ため息とはどういうことだ。
それはノーということか?
失礼な、これでも一人暮らし歴はそこそこに達しているのだ、料理くらいやってやれないことはない。
京都駅到着のアナウンスがあり、火村は立ち上がった。
「お前も疲れてるはずだ、アリス。深酒するなよ」
ぽんと私の頭に手を乗せて、自分こそ疲れ気味の足取りで降りていく。
ホームで彼は振り返らない。
ほんの少し、迷う。
今夜このまま火村を一人にしていいだろうか。
事件が終わった夜に、本当に大学に行って仕事など出来るのだろうか。
下宿にひきずって連れて帰ったほうがいい気がする。
だが今日は。
今日だけ――。
ゆっくりと車体が滑り出す。
火村の背中が遠くなり、私は目を閉じた。
まだ夕方に落ち合ったにも関わらず、私も天農も最初から飛ばし気味で飲んだ。
二人ともあの事件のことには触れなかった。
不自然なその話題の避けかたに、私はもしかして彼が何か気づいているのではないかと疑った。
火村の能力が高いことは、彼のところまでその噂が届いていたことで知れる。
なのに答えを出さなかったことで、真相を見抜きは出来なくとも、なにか都合の悪い結果であったことに気づいているのかもしれない。
私に訊かない彼を、いいヤツだと思う。
問い詰められれば口を割っただろう。
これは私たちの問題ではなく、本来は天農の問題だからだ。
そのことを十分承知でいながら話題に上らせない。
私が好きになった人は、ずっと変わらずにいたのだなと思う。
「そういや天農、豪快に飲んどるけど、帰りどうするんや」
「ああ……どうするかな」
「おいおい、真樹ちゃんが待っとるんやないのか?」
「え? あれ、言ってなかったか。真樹は今日、ジィさんとこにお泊りなんだ」
「ジィさんてだってお前の……。あ、そか、奥さんの」
天農の父親はもう亡くなっている。
母方の祖父母のところに行っているということだろう。
静かなダイニングバーのテーブルは、少し大きめだ。
真四角の白いそれが間にあって、私と天農は身を乗り出すようにして話していた。
「にしても、真樹ちゃんはほんま可愛い、将来が楽しみや」
「お前、俺の娘になにする気だよ」
「奥さんに似たんかな。でも口元は君かな」
何もかも預けるようなあの無垢な笑顔しか覚えていない。
曖昧な記憶でそう言うと、天農は急に、口元を歪めた。
昔、よく見た。
優しい目元で誤魔化されるが、決して笑っていない笑顔だ。
「ほんとに?」
「え?」
「ほんとに俺に似てるってのか?」
戸惑った。
「どういう意味や?」
火村が何かを仄めかす時に似ている。
意味を探ろうとやや警戒気味にそう問い返すと、天農は何かを誤魔化すように笑い、店員を呼んだ。
新たな酒を頼み、店員が去ると、もう何事もなかったようになってしまった。
天農は別の話題を持ち出し、私は無理に疑問を解き明かそうとすることも出来ない。
なんとなく、もうこの話が私と彼の間で話されることはないだろうと思った。
ふさわしい瞬間というものがある。
過ぎてしまった。
しばらくお互いの仕事の話などをする。
「じゃあお前もまた、二足のわらじってことか」
火村のことに話が及ぶと、天農はそう言った。
「ああ、そんなんやないわ。俺はただいるだけで、余計なこと言うくらいが関の山や。少なくとも、履いて歩けるほど形にはならん。それに火村も、あれが仕事や。俺らはわらじ履き替えられるほど器用やないしな」
ふうん、と彼は目を細める。
「一本の藁、か」
「え?」
「いや、なんでも。お前らそうやって仕事だ事件だって走り回ってて、プライベートのほうは大丈夫なのか?」
「言うても休みがないほどやないって」
天農は苦笑する。
「そうじゃない、もうそろそろ結婚とか、周りがうるさいんじゃないのか?」
思わず顔をしかめた。
それを見て、さもありなん、と彼は笑う。
「そやかてなぁ、言われてなんとかなるもんとちゃうやろ。火村も、あいつ、今まで何度結婚話が潰れたことか。ようけ出会いはあんねんけどな、まめとちゃうからいつも相手のほうがええ加減にせえって怒るんやと。そりゃそうや、俺でさえ予定が狂って何回もきれかけたし。準備万端整えた東北旅行が、事件だ、のひと言でパァになったときはさすがに泣けたわ」
「女? 火村が?」
「ん? そや。あいつ、ご面相だけはええからな、ようもてはるで」
ニヤリと笑って見せたが、天農はなにか複雑な顔をしていた。
私が不思議に思っていると、彼は不意に立ち上がった。
「有栖川。今日はお前んち泊めろよ。構わんだろ?」
「え、ああ、もちろん。歓迎や」
反射的に答えて、レジに向かう彼を追う。
店の外に出る頃にようやく、一つ屋根の下で彼と過ごすことにたじろぐ。
あの夜以来だ。
正確には彼の屋敷に泊めてもらってはいるが、あの時は火村と、おまけに娘がいた。
ああ、馬鹿な。
何を考えている。
胸をかすめた苦い記憶を押し込め、私は信号待ちの天農の横に並んだ。
わずかに見上げる角度になる火村と違い、天農と私はほぼ同じ位置に視線がある。
並んだ肩は、やっぱり彼のほうが少し逞しい。
同じ引きこもり職だというのに、やはり子育てをすると力がつくものなのだろうか。
「うち今、なんもないねん。何か買うて帰ろか」
「ああ。宿代に安ワインでもおごるよ」
「なんで安いんや」
「コンビニしか開いてねえだろ」
「……一番高い酒買うてやる」
たかが知れてるがな、と笑い、天農はタクシーを止めようと手を挙げた。
その手の先、ずっと伸ばしたところには、明るく月が輝いている。
「すごい月やな、今夜は」
「あ?」
二人揃って、ぽかりと空を眺める。
「……ふむ、満月に少し足りないくらいか」
「些細な差や。酔っ払いには違いも分からんて」
「確かに」
乗り込んだタクシーはかすかに煙草の香りがした。
そういえば、天農は吸わないんだな。
なんとなくそう思った。
少しさっぱりしてから飲みなおそうと、交互に風呂に入り、それからリビングに腰を落ち着けた。
早い時間から飲んでいたせいもあり、時間はまだ10時を過ぎたばかりだ。
案外そう遅くもない。
テレビのボリュームをしぼってニュースを流し、コンビニで一番高かった4980円也のワインを開ける。
天農は始めて訪れる我が家を興味深そうに眺めていた。
とりとめのないことを喋っているうちに、ボトルはあっという間に空いてしまった。
「ビールにするか。それともコーヒーいれよか」
立ち上がった私を、天農が呼び止める。
ソファにだらしなくもたれた恰好のまま、床に座っていた腰をこちらに向けた。
「なんや? ほかのもんがええか?」
「なあ、今は火村のヤツ、女いないの?」
脈絡のない質問だ。
私はしばし面食らう。
「あ? ああ? いや、おらんけど、なに?」
「別に。奥さんの友達でいいひとがいるからさ、紹介でもしようかと思って」
ああ、そういうことか。
私は合点し、キッチンに向かった。
火村に奥さん候補というわけだ。
そういえば、あいつもここ数年ご無沙汰のようだが。
結婚か。
火村が?
なんとなくすっきりしない気持ちを抱いた。
けれどまあ、あいつが旧友に紹介された女性と付き合う図というのは、どうも現実味がない。
「どんな人? 心の広いひとがええな」
言ってから、くるりと振り向いた。
「……ってか何で俺を飛び越えて火村やねん。俺ら二人とも資格あるんとちゃうんか」
割に真顔で突っ込んだ。
「ダメだね」
「なんでや」
「火村に女が出来たら、またお前、寂しいって俺に泣きつくかと思ってな」
薄く笑っている彼の前で、私はこらえようもなく狼狽した。
私が持っている、仄かな甘さと同時にいたたまれない若かりし頃の羞恥を含んだ思い出を、天農が口にした。
忘れていると思った訳ではないが、それを持ち出されたことで瞬間的に混乱する。
ダメだ。
狼狽えてはダメだ。
「あ……そ、そんなこともあったな。っていうか寂しいなんて言うてへんし、泣きついた覚えもないけど」
「昔の思い出みたいに話すんだな。話せるんだ。そういうことかい?」
彼が何を言いたいのか分からない。
まるで嘘を指摘されたように、心拍数が上がる。
手のひらが汗ばむ。
「みたいもなにも、昔のことやろうが」
「ここへ来なよ、有栖川」
ソファに肘をついていた手が、人差し指を立てて彼の隣を示す。
私は首を振る。
「コーヒーが」
「そんなものはいらん。ここへ来い」
「なんで。わざわざ隣や」
「火村のことがなけりゃ、お前は俺の側には寄れないのか? 俺たちはもうガキじゃない。けど、どうするのが一番かなんて考えられるほど、冷静でもいられん。隣に来て欲しい。それだけだ」
どういうことだどういうことだどういうことだ。
にわかに混乱が増す。
「どうして?」
「お前に惚れてるからだ」
「嘘や!」
私は後じさった。
天農が急に、他人に思えた。
見知らぬ他人。
本当に、そうであったら、どんなにいいか。
「もうとっくに、火村のものになってるかと思っていた。あいつは何をやってるんだ? 何かの遊びか?」
「何を言うてるんや。遊んでるんは、お前やろう!」
「冗談を言うな、おい、冗談だろう? ああ、けどまあそうだろうな、あの時俺がどんな思いで諦めたか、これっぽっちも伝わってんだろうから。画家なんてもんを目指して、大学生やり直して、ゼロかイチかの人生踏み出す若造には荷が重すぎた。後悔するって分かっていても、分かっていながら、俺は、あの時……!」
私がへたりこんだのを見て、彼はクレッシェンドで上がっていく語調をぴたりと止めた。
あの時、を思い出す。
最後の最後にあの夜を決定付けたのは、私だ。
一線を越えることを許さないと口にした。
ああ、でも。
「はっきり、言うてくれてたら、何かが変わってたはずや。なんでや。なんで一緒に決めさせてくれへんかったんや。不安とか、将来とか、お前……後付けに決まっとる。そうやろう? だってあの時、俺は」
私を怯えさせないようにか、目の位置を同じにして天農が膝でにじり寄って来る。
「全身で君を受け入れとったはずやろう?」
開いて立てた膝の片方を、手のひらで包まれる。
それだけで、じわりと痺れる。
横から私を抱きこむように、天農の身体がぴったりと触れた。
耳元に唇を押し付けるように、囁く。
「そうかもしれない。火村がいなくて寂しがってるお前を、言い訳にしたのかもな。自信がなかった。お前らみたいに十何年と側にいるなんて、嘘みたいだよ。でも……お前、気づいてる? 火村との話をする時はいつも『俺ら』だ。俺とお前は、そんなふうには言ってもらえない。いつまでたっても『You and me』で、『us』にはならないんだ」
吹き込まれるテノールと柔らかな息にぞくりとする。
その反面、
「い、いがかりや。そんなふうにしたんは、半分君のせいや!」
意固地な台詞を吐く。
ふ、と耳元で天農は笑った。
視界のぎりぎり端っこで、昔のとても意地悪だったときの彼を髣髴とさせる顔が見えた。
「ならやり直そうか」
傾いだ彼の顔が近づく。
どちらも目は閉じなかった。
唇が触れ、幾度か小さく押し付け合っていると、やがてするりと舌先が入ってくる。
こらえきれず目を瞑った。
閉じた目の裏で、動く天農の影がちらつく。
絡め取られた舌から心臓を直撃するみたいな痺れを感じるころ、やっと唇が解放される。
暑いし、息苦しい。
体温が上がっている。
酔いのせいばかりではなく顔が熱かった。
うっすら目を開ける。
天農が覗き込んでいて、思わずその視線から逃げかけるが、それより先に、彼の両腕が私を抱きこんだ。
ぎゅうっとしながら、天農の頬が私の顔にくっついてくる。
「可愛い、有栖川、昔と変わらん可愛さだ」
なぜだか激しく恥ずかしくなり、とりあえず、ひっぱたいておいた。
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