天農×アリス。R20。
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ばっちこーい!なかたは、イっとけ、イってまえ!
ただし黒鳥亭を読んでいることを推奨します。
君もこの月明かりをどこかで見ているでしょうか。
一緒に空を見上げたあの夜のことを、思うのでしょうか。
1.
それなりに顔の広かった学生時代の私、有栖川有栖でも、すっかり気を許し寛げる友人というのはそんなにはいなかった。
例えば、今では疎遠になってしまっているが同じ学部でずっと一緒だったヒナタ、そしてこちらは今でも腐れ縁の続いている火村。
父親が亡くなったためにほんの短い間で帰国してしまった留学生の大龍も、過ごした期間にしてみれば随分な回数飲んだものだ。
もし卒業まで一緒にいられたら、もっと仲良くなれた気がする。
そしてもう一人。
これも卒業式を共に迎えることのなかった友人がいる。
天農という名のその人は、浮世離れした友人達のなかにあって唯一まともな常識を備えていると思っていたのだが、あの連中と付き合っていたことを思えば、やはりしょせんは変わり者だったというところだろう。
なにせ、それなりに偏差値の高い英都大を3年まで勤めておきながら、画家になるのだ、などと夢みたいなことを言ってさっさと退学してしまった。
――私たち二人が共有した秘密も、彼と共に消え去った。
懐かしい、とは言えない。
昔のことだとも思えない。
今でもふとした時に記憶から浮かび上がるあの夜の記憶は、若かりし頃の青き時代の潔さと、そしてそれを思い返す大人としての苦々しさを私に味わわせる。
黒鳥亭での再会まで、忘れようとしてきた記憶。
十年ぶりに見た彼は私の知らない顔をしていた。
それを言うなら、あの夜だって、天農、君は見たことのない男になっていた。
学校を辞めると聞く、ほんの半月前だった。
*
「ほら、しっかり歩けよ、有栖川」
天農に抱えなおされる。
アリスはしたたかに酔っていたが、本当は一人で歩けないほどではなかった。
自分でも子どもみたいだと思うのだが、今日は誰かに甘えていたい気分だったのだ。
「いいだけ飲むんなら、宅飲みにすりゃ良かったのに。月にも笑われてるぜ」
「うるさぁい、笑いたけりゃ笑わせとき! 天農、部屋に酒はあるんやろな? 俺は飲む、まだ飲むでぇ!」
「やれやれ。火村に女が出来たのが、そんなに寂しいのか?」
そう、アリスは今日の昼間に、火村から直接その話を聞いていた。
皮肉っぽくて毒舌で、飄々としているくせに、何時の間にか勝手に彼女など作った火村に腹が立っていた。
お互いに独り身であることをからかいあっていたのに、アリスがうかうかしている隙を狙って抜け駆けしやがったのだ。
世間はもうすぐクリスマスで、恋人の一人くらいいたほうが楽しく過ごせる時期に突入する。
年末年始だって、代わりばえのしない男どもが顔つき合わせて激飲みするより、可愛い彼女といちゃいちゃ年越ししたほうが楽しいに決まっている。
油断した。
身近な友人達はみんな女なんかに興味がないという顔をして、アリスの知らないところで虎視眈々と彼女獲得に燃えていたのだ。
「裏切りや、これは重大な裏切りやで!」
「こら、近所迷惑だろ」
自宅の部屋の鍵を探していた天農に、こつんとやられる。
ありふれたアパートの一室は、底冷えのする京都の冬に早くも敗北宣言を出していた。
冬将軍を撃退すべく、ヒーターとこたつを最大電力でオンにした天農は、まだぐずっているアリスのためにホットウイスキーを作ってくれた。
「うう、ありがとアマノン、心の友よ」
「はいはい」
「それに比べてあのムッツリ火村め! 許さん!」
天農は呆れたように、
「お前ね、作ろうと思えば女くらいなんとでもなるくせに」
「こら! なんてこと言うんや! あんなぁ天農、俺が欲しいんは女とちゃうねん、好きな子と過ごす記念日やねん。要するに俺は、まず恋をせねばなるまいよ。その後おもむろに、交際へと手続きを踏むことになる。先は長い、その点で火村にすでに周回遅れの差をつけられとんねん!」
くすりと笑われる。
「要するにやっぱり、有栖川は女がいなくて腹が立つんじゃなく、火村と離れちゃったことが寂しいんだろ? 彼女に取られたみたいで悔しいんだな」
うう、とアリスはうめいた。
当たらずと言えども遠からず、と言ったところがなきしもあらず、な感じで、きっぱりと否定はできない。
火村とは二回生の春からという短い付き合いだが、おそらく今の自分が一番理解されていると感じる相手だ。
友達だなんて大げさに言って回るつもりはないが、暇さえあれば一緒に出かけたり飲みに行ったりと、多くの時間を彼と共に過ごしていた。
なにより、アリスが自分の小説を読ませるのは火村にだけだ。
アクシデントみたいに読まれてしまったとは言え、それから後も原稿を渡しつづけているのは、彼が冗談抜きに口にした、続きを催促するあの言葉が大きかった。
頑張れなんて言ってくれるわけじゃないし、自分もそんな簡単な言葉が欲しいわけじゃない。
ごく短くそっけない感想の中に、嘘がないこと――それが一番嬉しい。
例え酷評されたとしても、根拠があり納得できれば、ただ褒められるよりずっとためになるではないか。
火村の暇な時間のほとんどが、そうやってアリスとの交流に費やされていたというのに、これからはそれがまるまる彼女に受け渡されてしまう。
それもこんな突然に。
唐突に。
なんともあっけなく。
「ええねん!」
アリスはダン!とグラスをこたつに置いて、ほとんど脅迫しているような調子で天農を睨みつけた。
「俺にはアマノンがいる。そうやろぉ? 君は俺を裏切ったりせえへんやろぉ? 俺ぁねぇ、信じてるんやでぇ」
そしておもむろに、きゅっとグラスの中身を干す。
温かい喉越しが、食道を通りながらぱっと発熱する。
酒に強いアリスも、さすがに酔いが回ってきた。
胃が焼けるような感覚に、ふうと息をつく。
そうして気が付くと、なぜか、床に押し倒されていた。
毛足の長いラグがこたつの敷布の代わりに敷いてあるのだが、それが視界の左右に広がっている。
そして、真っ直ぐ見上げた先には、蛍光灯の青白い灯りを背にした、天農の顔があった。
かすかに微笑んでいる。
「もちろん。俺はお前を裏切らないさ。ご期待通り、寂しくないようにしてあげよう」
「あま……」
の、という語尾は、本当は疑問の形に跳ね上がる予定だった。
しかし、斜めに降りてきた彼の唇に塞がれて、奇妙にこもった音になる。
柔らかい冷えた唇が、アリスのそれと重なっていた。
呆然としている間に舌先が触れ合う。
その濡れたざらりとした感覚に驚き、思わず顔を振って避けた。
「なにやってんの、有栖川。ちゃんと、ほら、こっちだ」
優しい目もとの柔和な印象の彼が、不意に男の匂いをさせる。
アリスの顔の両側についた肘から肩までの、しなやかな筋肉が張りつめる。
不思議に怖くはなかった。
ただ彼から立ち昇るオスの気配に、驚きだけを覚えた。
いきなり深いキスを仕掛けられる。
舌の脇をざらりと舐められ、吸い出されたそれに軽く噛み付かれる。
動けなかった。
応えるなんてことはもってのほかだが、逃げることすら出来ない。
ゆっくりのしかかってくる身体や、前髪をかきあげてくるかさついた手が、アリスを少しずつ剥き出しにしていく気がした。
頭の中が、今起こっていることで一杯になる。
口蓋をべったりと舐めあげられて、喉の奥が鳴った。
それがかすかな快感だと気づく。
自分はこの行為に嫌悪感を抱いていないらしい。
そう思った時、天農はふいっと顔を離した。
上から覗き込んでくる。
頬が熱くて息が切れているから、そんな彼の顔も朦朧としてよく見えない。
「ばーか、お前、抵抗しろよ」
「……え?」
「いくら寂しいからって、男にキスされてその顔はないだろ。そんなんじゃあお前、ことあるごとにつけこまれる人生になっちまうぞ」
突然に、いつもの天農に戻る。
からかわれたのだとようやく分かって、アリスはまた違った意味で頬に血を上らせた。
「……なんやねん、抵抗もなにも、いきなり乗っかられたら吃驚するやろうが」
「へぇぇ、その割にエロい顔してたけどな」
「してへんわ!」
くつくつと笑いながら、彼はアリスを抱きこむように横に並んだ。
そしていたずらに耳に口を寄せ、
「あのまま、どこまでなら許した?」
そう聞いた。
ふざけた口調。
だが――アリスはその声のどこかに、本気で答えを知りたがっている真剣さをかすかに読み取る。
いや、そんなはずはない。
またからかっているのだ。
でも。
腰を掴む指先に妙な力がこもってはいないか?
分からない。
本気か。
冗談か。
そもそも、本気って、なんだ。
「……ッ、許すか、あほ!」
追い詰められた気分で結局そう叫んだ。
他に答えなんかない。
そんなつもりで。
天農はやはりけらけらと笑い、離れていった。
与えられた毛布をかぶってアリスは眠り、翌朝目覚めたとき、部屋に一人残されていることを知って少しほっとした。
どういう顔をしていいか、分からなかった。
先に講義が入っていた彼は、テーブルにメモを置いていってくれていた。
鍵はいつもの下駄箱の上――生まれる前の古い歌謡曲の歌詞のようで、アリスは少し笑った。
*
あの翌日、学校で顔を合わせ鍵を返すと、天農は普段通りの顔でそれを受け取った。
私は少なからず動揺していたが、それを見せたつもりはないから、彼は気づかなかっただろう。
彼が父親の容態が急変したとの連絡を受け、実家に帰ってしまったのは、それからほんの数日後だった。
あっという間に亡くなってしまったらしく、そのまま葬式から納骨までを終えて彼が戻ってくるまでに、二週間以上が経っていた。
そして、直後に彼は実にあっけなく学校を去った。
誰にも言えないあの夜のキスのことを、私は忘れることが出来なかった。
幾度か交わした手紙にはもちろんそんなそぶりは毛ほども見せなかったけれど、どこかで、また会えたら何かが変わるのではないかと期待したものだ。
だが月日は良き思い出に残酷なもの。
何時の間にか疎遠になった私たちは、季節ごとに数回の葉書を交わしあい、それきり連絡は途絶えてしまった。
繋ごうと思えばなんとでもなる距離であったはずなのに、私はそれをしなかった。
去っていった天農が新しい環境で馴染み始めた頃、私のほうもなんとなく、これでよかったのだと思うようになったのだ。
何がよかったのか、よく分からなかったくせに、簡単な近況を知らせるだけの天農の葉書を見るにつけ、そう言い聞かせるしかなかった。
やがて、彼が結婚したと噂で聞いた。
二十代も後半になっていた私は、その時になってようやく、自分が天農を好きだったことに気づいた。
今はもう届かない、ずっと昔の恋だ。
戯れのキスは私の中でそれを確認する思い出になっているが、同時に、今思えばあんなにやすやすと受け入れた私のことを、天農はどんなふうに感じただろうと思い至り、逃げ出したいほど恥ずかしくなる。
冗談に驚いたとしても、私はやはりすぐさま拒否するべきだった。
そうされることを前提にしかけたいたずらに息を弾ませられて、天農はきっと、戸惑いと驚きを感じたはずだ。
その理由を考えもしただろう。
当時は私自身が知らなかったこの気持ちに、芸術家らしく繊細だった彼はきっと先にきづいてしまっていたのかもしれない。
私を起こさずに行ってしまった朝や、別れの挨拶もそっけなかった出発の日、そして短い近況が記されたのみの簡素な葉書――。
その上で火村と私に助けを求めた彼は、本当に悩んでいたのだろう。
それとも、十年以上が過ぎてもはや思い起こすこともない思い出だからか。
顔を合わせた時の彼は私たちを純粋に労う笑顔を浮かべていた。
少し距離のあるその顔が、娘の真樹に向かうときには愛情のこもった優しいものになる。
亡き妻をそんなふうに大事にしていたのだろう。
いい年をして、私は彼が幸せな家庭の中で妻と子どもを愛していた時間に、胸を痛めた。
火村によって明かされた真実――と思われる結果――を、私たちは結局、天農には伝えなかった。
それが正しいことかどうか、今でも分からない。
けれどあんな結末は、火村に投げつけられた煙草のように、折れてこぼれて、もう役には立たない小さな棘だ。
確かにあるが、感じられない、その程度の。
私はそう信じている。
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