4.
「俺のだろう?」
「だ…」
目の前に真っ直ぐに立つ彼のせいで、陽光が遮られて視界が暗くなる。
明らかに赤くなっているだろう顔を隠すには都合がいいかもしれない。
「だ、だったらなんやねん」
火村は呆れた顔をした。
「お前ね、それって俺の台詞じゃないか?」
ごもっとも。
「ああでも…買った理由より、くれなかった理由のほうが興味があるな」
「知らんわそんなん…そんな威嚇せんでもええやろうが、ちょお離れろや」
「…威嚇ってお前。なんだ…俺の勘違いなのか?」
「何訳の分からんこと言うてるんや、いいからのけ」
「まあそうだよな。俺の下心がいけないんだろう、多分」
よく聞こえないことを呟いた火村は、少しだけ、苦しそうな顔をした気がした。
暗がりによく見えなかった私は目を凝らしたが、そのときにはもういつもの顔に戻っていたので、光の加減だったのかもしれない。
私はそれ以上彼を見ていられず、くるりと後ろを向いてカップを用意し始めた。
そうしながら、どうすれば事態を切り抜けられるか考える。
いずれにしろ、恥ずかしい思いはしなければならないのだが。
「…確かに、君に似合うなあって思うたんやけど」
「けど?」
すぐ後ろで響きの良い声がして、ちょっと吃驚した。
「け、けど、ほら、今井さんの買うてた色のほうが似合うような気もして、こんな地味なん、いい年なのにますますオッサンくさく見えるかなあとか」
「今井? …ああ、イズミ君ね」
呼びなれたふうの名前にちくりと胸が痛んだ。
ふたり並んだ光景は、今も私の記憶に焼きついている。
よしないことを想像する希望のようなものの戒めとして、私自身が忘れぬように繰り返し思い描くからだ。
その度に指先までが痛むような一瞬を、いくつも重ね、いつか諦めるのだろう。
「彼女、お前の名前に親近感があるらしいぜ」
「ん……そういえば最初に会うた時もそんなこと言ってたな。親戚にアリスいう子でもいるんかい」
「いや。彼女自身が惹かれたそうだ。というか、あれは共感かな。さぞご苦労されたでしょうね、なんてことを言っていた」
「共感?」
なぜそんな言葉が出てくるのか分からず、いつもの癖で火村の顔を尋ねるようにみあげた。
首だけをぐるりとひねって見た彼が、さっきよりも近い位置にいて思わず少し怯む。
ポケットに指を引っ掛けた格好で、なぜか火村は楽しそうだ。
「そうか、なるほどね、アリス。いや、これはいくら推理作家といえども責めたりは出来ないな。だがいくつかのことに気づけば、可能性くらいは見出せたはずだ」
「あんな、なんや知らんが、言っとることがいっこも分からん」
「うーん、大丈夫、お前は意外と記憶力が飛びぬけているから」
「褒めとるようやけど、明らかに馬鹿にしとるな」
「彼女といる時、俺の行動でいつもと違うと思ったことはないか?」
そんなのは知らないし、考えたくも無い。
けれど火村はまるで生徒に問題を出す教師のような顔をして、私の回答を待つつもりのようだ。
私は首をひねりつつ、ぽつぽつと数え上げる。
「レディファーストを心がけてるとこ」
「は。俺はフェミニストじゃねぇ。彼女を気遣っただけだ」
「名前で呼ぶところ」
ふふ、という感じで火村が笑った。
普通なら腹を立てるところだが、彼がこんなふうに笑うのは珍しい。
目を細めて、やさしい顔をしている。
「もっとさ、分かりやすい行動があるはずだ。いや、するんじゃなくてしないこと」
慣れない表情を見せられてどぎまぎした私は、うろたえていることを悟られたくない一心で、彼のヒントを懸命に考えた。
分かりやすい行動。
つまり、普段はよくするのに彼女の前ではしないことということだろう。
呑気なあくびとか?
苛立ちを溜め込んでそれを消化しようとじっと黙りこくっていることとか。
恐いほど表情のない顔で、殺人を報じるテレビに目を据えていたり。
コンビニ弁当を買いに出掛ける私の襟首を掴んで、スーパーに方向を変えさせたり。
料理をしたり、そのくせ猫舌だからそれを熱々のうちに食べられなかったり。
私が食べる様子を、ぼんやりと煙草を吸いながら見ていたり。
「あ。あれ。そう言えば」
「思いついたか?」
「煙草や。君、彼女の前で煙草吸ってへん」
あの夜、夜景の見えるバーでもそんなシーンは見た覚えが無いし、いつもは駅から出るなり煙草に火をつける火村が彼女が降りるまでただ座っていた。
手持ち無沙汰でネクタイを弄っていた指を覚えている。
「正解。よく出来ました」
「なんややっぱ馬鹿にされとる。彼女、煙草駄目なんか」
「去年までは喫煙者だったな」
「禁煙と同時に周囲にも協力を迫るタイプ? 見えへんかったけど」
「あと、俺は学生をファーストネームで呼んだりしない」
ようやく、本当にようやく、私のなかでひらめくものがあった。
小さなパズルのピースが隙間なくはまる回答は他にはありえないとさえ思えた。
「彼女…結婚したんか! 旧姓はイズミ? イズミ出海?」
「ああ、どっかの親と同じくらいに、何を考えてつけたのか知りたくなるだろう? 井戸の井に住む、で井住。去年子どもが出来たことが分かって、結婚した。今年の夏から休学に入るが、いずれ戻って来るらしい」
井住出海。
有栖川有栖のように字面的には回文っぽくはないが、自己紹介の時にはさぞや何度も聞き返されてきただろう。
随分とユニークな親であることについてはうちの両親にも負けないらしいが、込められた願いは明白だろう。
安全な井戸に住む小さな私たちの子、いずれ大きな海へ出てゆくべき子。
願いどおり、彼女は学問の大海に漕ぎ出し、火村という水先案内人を得て立派にやっている。
「なんでいまだに旧姓を」
「何度も呼び間違えて…もういいから旧姓で構いません、という半ば呆れ気味の許可をもらった。いちいち言い換えるための時間がもったいないとか」
「へえ。君と話せるならなんでもええ、いう子が大勢おるのに、なかなかシビアな子やね」
「ああ。『社会学をやっているくせにフェミニズムの本質を理解しようとしない先生に、子持ちで学業を続けることの意味をじっくり目の前で見せてあげますからね』、だと」
火村は苦い顔をする。
私は思わず笑った。
彼女にそう宣言されたその時も、きっとこの顔をしたのだろう。
さぞかし楽しかっただろう彼女の心中を思い、こっそり同感の拍手を贈る。
「楽しみやねえ。君のステレオタイプな女性観を根こそぎに壊してくれそうやな。期待がもてる。いずれ君も女嫌いを克服して結婚も出来そうやんか。良かったな、ええ生徒に恵まれて」
「なるかよ、馬鹿らしい。それより、名前から惹かれた作家がうちの卒業生で、しかも指導教官の同級生なばかりか頻繁に会うらしいと仕入れた彼女は、人脈とネットを駆使してあのホテルのバーを予約したんだぜ。ところが肝心の作家はぼけっとあらぬ方向を見つめてるしな、お前、ファンをひとり無くしたかもしれねぇぞ」
「ぼ、ぼけっとなんかしてへんわ。あん時はちょお寝不足で…ってどうでもええやん、そんなん」
ちゃんとしていたつもりだったのに、やはり身が入っていないことはしっかり見抜かれていたらしい。
誤魔化すつもりで、首を戻してカップを見下ろした。
意味もなくサーバーを覗いたりしている私の後ろで、そうだな、と火村が肯いた。
「どうでもいいさ。要は、彼女が知っている俺なんてのはほんの数パーセントに過ぎないってことだ。その頼りない印象で選んだ色より、お前の選んでくれた色のほうが俺は好きだ」
心臓が、どくりと打った。
セーターのことを言っているのだと分かっていても、好きの言葉は心臓に悪い。
「アリス」
「な、なに」
「彼女のくれたものを、もらえないと突っぱねることも出来た。それをしなかったのは、少しはお前が嫉妬してくれないものかと思ったから」
「なんで、そんな…そんなん、あれやん…友達やのになんで嫉妬なんか」
言いかけて、失敗にさっと血の気が引いた。
違う、馬鹿、また自分のことばかり考えていたから。
私が嫉妬するのは、彼女ではなく、火村だ、普通は。
「や、いや、あの、」
いい訳じみた、けれど意味の無い言葉を発しながら右に首を振り向けた。
仰いだ先に彼の顔はなく。
左の肩に温かく重い感覚。
ウエストに、背中に、寄り添う身体。
抱きしめられている、と気づいた瞬間に、信じられないくらい体中の血が沸騰しそうに熱くなった。
眩暈で倒れそうだ。
「アリス」
「は、な、なに、」
「8割の確信が報われるのか、それとも期待値が広すぎるのかな。罵られても仕方が無い状況だが、最後なら言うべきことはある」
「ちょ、待って、ひむ」
「お前が他の女のためにドアを開けてやることすら許せない。俺を伴侶にしてそれだけで生きているならいいのに」
がくん、と膝の力が抜けた。
慌てた様子の火村は、それなりに支えてはくれたものの、さすがに同じくらいの背丈をもつ男相手に完全に抱え上げることはできなかったとみえ、ゆっくりと私を床に座らせた。
だが、張り付くように背中も腰も触れたまま、まるで抱きしめるようにして首に顔をうずめたままだ。
「どんなに付き合いが広がっても、パートナーと呼びたいのはお前だけだ、アリス」
「火村!」
「なんだよ。帰れというなら帰る。もう、少し、」
「そうやなくて…」
「なに?」
「そッ…」
私は首を逸らして懇願した。
「そんなとこで喋らんといてくれ…!」
ふっと火村が顔をあげた。
見なくても分かる、彼は今、絶対に笑っている。
それも心底楽しそうに。
心なしか腕に力が込められ、私は火村にすっぽりとくるまれる。
「じゃあどこならいい、アリス?」
「…ッ」
耳のすぐ側で、予想通り嬉しそうな声がした。
抜け出せない腕の中で必死で身をよじるが、容赦はしてくれないようだ。
「お前は、アリス。井住君の尽力で俺が女を実に尊敬できる生き物だと全面的に認めたとして、それでどっかの誰かと結婚するなんてぞっとする話になっても全然平気?」
「そ…それが君の幸せなら」
「ずるいな、そういうのは。どう行動するかなんて聞いてない。どう思うか聞いたんだ」
冴え冴えとした月と、オレンジ色の街灯。
長身の火村が歩くその横に、完璧なバランスで存在する彼女。
その子は井住さんではなかったが、他の誰でもいいのだ。
他のどんな誰でもそこにいる権利を持っている。
「…い、や」
「なに?」
「聞こえた、くせに…!」
「まあな…けど、ちゃんと聞きたい。不安だから」
そんな言葉は初めて聞いた。
実際に見たことは無いが、フィールドにいる時の彼でさえ、きっと不安などという心理状態からは程遠いだろう。
折れそうなくせに、いつだって確信をもっているのが彼だ。
傷つくと分かっていても、それ以外の答えを許さない。
その火村が、ましてや人間関係で不安だなどと言うことは、全く予想だにしていなかった。
「お前のことが、俺はいまだに分からないよ。誰よりも知っている自信はあるのに、それが全部だとは絶対に思えない。確信が持てない。先が見通せない。だがそれも全てひっくるめて、お前以外にこういうことをしたい人間はいない」
頬に唇を押し当てられて、フライングだ、と思ったが、観念するしかないようだ。
いつでも諦められると思っていた。
それが間違いだと知った。
もう、逃げられない。
「火村」
腕を重ねて手を握ると、互いに贈り合った服が触れた。
本当に、君に似合うと思ったんだ。
黒雲が去り、残ったごく薄い雲に覆われてはいるが今まさに、光こぼれる直前の淡く明るい空の色。
太陽が透けて見える雲の、澄んだ空気の放つ色だ。
「君が…俺以外の名前を呼ぶことなしにいてくれたらいいのにと、思う」
ほら、もうすぐ、晴れる。
着せられたばかりのシャツを脱ぎ捨てて、火村のセーターとともり放り出す。
私たちのように絡み合うそのグレィの下から見えるのは、彼が選んだ薄いサンイエローだ。
まるで雲間から落ちる天使の梯子のようだと、火村が言った。
end
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Happy birthday、 Himura & Alice !
ひとつの話でふたりぶんのお祝いでした。
我ながら完璧な計画だ。