3.
それから二週間ばかり経った頃、火村から電話があった。
締め切り明けでようやくベッドに沈んだのが昨日。
時計を見ると夕方で、半日近く寝ていたらしいことに気づいたが、まだそれについて驚くような判断力は目覚めなかった。
「ぅぅ…ぁりしがわでし…」
「お前なあ。いくらなんでも大人としてそりゃどうなんだ」
「なまえも、なのらん…くせに…」
「おい? おいコラ、寝るな!」
「んー…、ぁー…ねてませんよ、かいてますよ、かたぎりさんー…」
「話にならねぇ。今からそっち行くぞという連絡だったが、意味ないだろうな、これじゃあ。ちゃんと電話切れよ。勝手に入るから寝てろよ、アリス」
というやりとりがあったらしいことは、後で聞いた。
だが私の耳に残っていたのは、ライターを点けるカチリという音と、最後に呼ばれたアリスという響きだけだ。
夢の中でも聞いた。
アリス。
アリス。
私は懇願する。
今度こそ本当に諦めるから、どうか、まだもう少し呼んで。
どうか。
チャイムの音で目覚めた。
はっきりしない感覚が、じわりと指先まで血の通うような順番で浮上する。
かちゃかちゃという鍵を開ける音で、火村だと思うくらいには覚醒した。
だが、脳だけが先に目覚めたらしく、身体が上手く動いてくれない。
真っ暗な家のリビングに電気が灯される気配がし、足音がまっすぐここへ向かってきた。
開いたドアから光が漏れ入って、私は少しまぶしくて目を細めた。
それが良かったのか、少しずつ身体に力が入るようになった。
もぞもぞとベッドの中で毛布を手繰る。
「アリス?」
「うん。あー……起きた。急にどうしたんや」
火村は小さな笑い声を立てた。
「やっぱり覚えてないんだな。電話したんだぜ」
「え、いつ」
「今日、さっき。ありしゅがわでしゅー、って出たぞ、お前」
「嘘つくな」
「まあ大げさだったけど。まるきり嘘でもない」
あくびをして目を擦ると、何とか起きられるくらいになった。
「嘘つきさん、今日はなんやったん?」
「別に。明日休みだし、メシでも行こうぜ」
言われて見れば、なんだか電話をとったような気もする。
火村のメシという言葉を聞き、時計を見て、驚く。
「えっ、もうこんな時間なん? 十二…三時間くらい寝てた…」
「締め切り間際になると昼夜逆転する癖、直したほうがいい」
「癖やないわ、割ない事情や」
「切羽詰ると掃除したり何時の間にか寝てたりする事情だな」
寝起きは分が悪い。
私は話を逸らすことにした。
リビングへ戻る火村はまだソファにたどり着く前に煙草に火をつける。
その匂いが寝室に少しだけ流れ、さっきの夢を思い出させた。
「アリス」
息苦しさに俯いた。
息を吸って自覚する。
私は今、ちょっと弱くなっている。
けれどそれを認められるうちは大丈夫だろう。
「うん。起きた」
ぺたりと素足を床につけ、ベッドを降りてリビングに入る。
気分は少しマシになった。
なんにしろ、彼はここにいる。
火村はとっくにジャケットを脱いで寛いでいた。
「なんか飲む?」
「なにがある?」
「コーヒー、紅茶、緑茶、ビール、日本酒」
「お前はコーヒーで目を覚ませ。俺も付き合う」
「ごはん、外いこか」
「ああ。買ってきて作らされるのはごめんだしな」
戦い抜いた作家の部屋の冷蔵庫に期待するほうがおかしいのだ。
私が彼のリクエストに従ってコーヒーを落としていると、火村がソファの上でなにやらもぞもぞと暴れている。
何をしているのかと訝る私の前で、彼は背もたれにしていたクッションの下からつぶれたオレンジ色の紙袋を取り出した。
しまった。
あれは処分しようと思っていたプレゼントだ。
うじうじしているうちに締め切りに巻き込まれ、それきりになっていた。
火村は眉を少し寄せた。
「これ、この間買ったってやつじゃないのか? 封も開けてないが」
「わ…忘れてた」
「買い物したら、その日のうちに出して着てみないとすまないくせに?」
長い付き合いというのはこういうときいただけない。
そんなこまかい癖や習慣まで、いちいち気づかなくてもいい。
「じ…」
「じ?」
「じ、実は、サ、サイズが合わんでな、でもこれしかなかってん、で、フィッティングの時はだいじょぶやろ思うたけど、あー後から思い返したらどう考えても似合わんというか無茶やったというか、そう思うたらわざわざ着てそんな自分の間違いを確認する気になれへんかったという話や」
我ながらかなり自分らしいエピソードではないかと思う。
とっさにそんな話を思いつくくらい駄目なところが分かっているならなんとかすべきなのかもしれないが。
火村はふうんと言いながら、勝手にロゴ入りのペーパーシールをはがし、袋を開けてしまった。
ぺりぺりと薄いビニールからセーターを取り出し、広げて見ている。
「いらないのか?」
「う、うん」
「じゃあ俺が着る」
サイズ的にも問題ないだろ、と言いながら、彼はタグを外してそれを頭からかぶった。
少しだけ鎖骨が見える襟首から、厚い胸板も綺麗に見せてゆったりした裾へと火村の手がすべる。
やっぱり、彼の身体にはよく似合う。
思いがけず最初の目論見どおりになってしまったが、渡さないつもりでいただけに戸惑いが大きかった。
けれどなんだか火村がそれを気に入ったふうだったので。
突然私は嬉しくなった。
とても嬉しかった。
「いいだろ?」
「…うん。あー…しゃあないなあ、どうせ着れへんし、進呈するわ」
「どうも。それじゃあ明日、サイズの合う服でも買いに行くか」
「は、お、俺の?」
「ただでふんだくろうなんか思ってねぇよ」
にやりと笑った火村は、おいコーヒー落ちてるぜ、と言うと私の後ろを指差した。
その日、彼はジャケットを置いて食事に出掛けた。
隣を歩く彼は、私の選んだセーターをずっと身につけていた。
分かち合うことの無い幸せだが、私はそれで十分だった。
翌日、火村は本当に私を買い物に連れ出した。
夕方にマンションに戻り、いつもならこれで帰るはずの火村は少し疲れたようで、車に見向きもしないまま部屋に入った。
人ごみが好きではない彼にしては、なかなか頑張った。
ソファに座ると、落ち着いたのか急に元気になったようだ。
「コーヒー飲むか?」
「ああ…いや、それより、着てみろよ」
「買ってもらったやつ? 店で見たやんか」
「いいからさ」
私は先にコーヒーをいれたかったが、火村があまりにしつこいので根負けし、新しいそれに袖を通した。
春色の、ちょっと襟が高めのシャツだ。
ボタンをいくつか外して中に暗めのトーンのインナーを着ればいいかなと思ってこれにした。
「似合いすぎて吃驚するやろ」
火村はくすくすと笑った。
本当に機嫌がいいらしい。
「ああ。30には見えないさ、アリス」
思わずぽかんと口を開けた。
30というのは年齢だろうか。
私はまだ20代だと思っていたのだが、錯覚だったろうか。
はっとして壁のカレンダーを見た。
締め切りまであと何日、というカウントダウンでここ数週間を過ごしていたからか、すっかり忘れていた。
今日は私の誕生日だ。
「まさかとは思ったが、本当に忘れてたとはな」
「…自分でもさすがに呆れたわ。締め切りやらなんやらで不規則な生活しとったから」
「大台だぜ? おめでとう、我らが世代」
一足先に大台とやらを迎えた火村に言えなかったことを、冗談のように告げられた。
「も、しかして、そのケーキ…」
「別に。これは食いたかったから」
「あ、そう…」
急に、雑貨店に併設しているカフェのケーキが食べたいと言い出した火村は、そこで無理矢理私に2ピース選ばせていた。
そっけないが、口元が笑っている。
私はぎくしゃくとペーパーフィルタを用意し、そわそわと豆をコーヒーメーカーに放り込んだ。
ガガガガーという凄い音で豆が粉にされ、オートで止まってドリップが始まる。
ああ、そうだ、これもいちいち豆を挽くのが面倒だと泣き言を言った締め切り前の私に、彼がくれた。
春の終わりごろ。
もしかしたら今日と同じ日だったか。
「…君の誕生日は祝ってないのに、なんか申し訳ないやん?」
出来るだけ軽い調子でそう言った。
「これくれたろ」
着ているセーターを指す。
彼は今日もそれを身に付けていた。
「そんなん、あれやん、廃品回収みたいなもんやんか」
「最近嘘つきだな、アリス」
こぽこぽっ、と蒸気の音がしてから、火村のほうを振り向いた。
酷く真面目な顔をしていた。
「お前はいつも着るものにはきちんと気を配るだろう。今日だって、もう一枚の色が気に入ったようだったのに、着丈が合わないからやめてた。サイズの合わないセーターなんか、間違っても買わないさ」
まだ火をつけて間もない煙草を、灰皿に押し付ける。
私はどんな顔をしているだろうか。
何か反論しなければと思うが、気ばかり焦って言葉が出ない。
同じくらいに、火村がそうした私の行動に気づいていながらこんなふうにシャツを買ってくれたのはなぜか、とても不思議だった。
「店のタグはあったが、プライスタグが切り取られていた。贈答品じゃなければそんなことはしないだろ。袋の封は切られてなかったし、初めから、あのサイズを選んで買ったんじゃないのか?」
ほぼ湯が落ちきったのか、しゅん、という音がする。
コーヒーを飲みたい。
気を落ち着けたい。
しかし火村の雰囲気はそれを許さないものがあった。
「それとも…他に贈る相手がいたか。寝ぼけて呼んだ担当者か? いや、彼はお前と同じくらいのサイズだろうな」
恥ずかしすぎる。
火村のために服を購入したというだけでも赤面ものなのに、それを渡せずにいたことまで見破られたなど、ちょっと例を見ないくらいにいたたまれない。
立ち上がってこちらへやって来るその短い間に、どうやったら逃げられるか考えてしまった。
どうせ、逃げられやしないのに。
Back Next
ありしゅがわでしゅー…。
書いていて…可愛すぎて悶えた馬鹿がここに。
我慢できず火村にも言わせてしまった恐れ知らずもここに。