2.




新年度が始まり、前年度末から多忙を極めるこの時期の火村とはあまり連絡をとらないのが毎年のことだ。
4月に入り、あの夜以来の連絡があったのは、数日後に東京で行われる全国学会の帰りに行ってもいいかという電話だった。

「お前も発表するんか?」
「いや。イズミ君が修論の結果を発表する。本当は次の近畿ブロック大会のほうが詰める時間があっていいんだが…まあ指導教官だからな、一緒に行くんだ」

彼女がドクターコースに残ることはあのときに聞いていた。
指導教官は通常、共同研究者となる。
アドバイザーとして一緒に行くのは当たり前の話だ。

「彼女、緊張しとるんやない?」
「ああ。学会発表自体は2回目だが、前回はパネルディスカッションだったからな」
「今回はスライド発表なんか。凄いな」
「当たり前だろ。誰が指導してると思ってる?」
「特異な研究手法で有名な助教授や。かわいそうに、意地の悪い質問の嵐やね」
「彼女のテーマは犯罪とは無関係だがな」

研究者が浮世離れしているなどというのは幻想に過ぎない。
どこの領域も、それぞれの権力をふりかざし他を排除しようとする、どろどろとした世界なのだ。
火村のフィールドワークを私は実際に見たことはないが、彼がその手法を選んだことで様々な論議を呼んだことは想像に難くない。

排他的、保守的な研究を地道に積み重ねてきた研究者達が、反発心や恐れを抱くのは当然ともいえた。
学会における口頭発表は、例え発表者が学生だとしても、その指導する立場にある教授連中の対立と無関係ではいられない。
厳しく、また重箱の隅をつつくようなねちっこい質問が浴びせられる可能性は十分にあった。
火村は私のからかいに鼻で笑ったが、それを想定していることはよく分かる。

「そしたらお疲れやろう。わざわざなんでこっちに?」

そう言うと、彼は呆れたような音を発した。

「お前が本を頼んだんだろう。もう忘れたのか?」
「あ。そうやった」

本当に忘れていた。
どちらかが東京に出るときは、ここぞとばかりに必要な本を依頼しあうのだが、互いの手元にあるメモを先に活用する機会にあたってしまったのは今回は火村になったというわけだ。

「別にその日やなくても構わんよ」
「急ぎじゃないのか」
「うーん、あれば助かるけどな」
「それだったらお前、こっちに来いよ。ちょうどいい、京都駅まで迎えに来てくれ」
「えー」
「なんだよ、えーって。締め切りはまだ先だろう?」

確かにまだ余裕はあるが、火村を迎えに行くということは、当然彼女も一緒だということだ。
また彼らの並んだ姿を見なければいけないのかと思うと、平静でいられる自信がない。
だがここで突っぱねることは、長年の習慣や積み重ねたやり方を突然変えるようなもので、少しでも不審を抱かれるような真似は避けたい私にとってはかなりの葛藤だ。


結局私はそれを承諾し、数日後のその日を憂鬱な気分で待つことになった。
そんな鬱々を払拭しようと、前日はあれこれと買出しをするために外出することにした。

生活用品を後回しにして、まずは駅前をぶらぶらと歩く。
私は、世の男性が理解できないというウインドウショッピングがそう嫌いではない。
ものを手に入れるということと、それを眺めるということは、一続きのようでいて全く違った行為なのだと思う。

外の気温が随分と暖かいことに気づき、せっかく出てきたのだし春物の服を買うことにした。
よくいく店に立ち寄り、自分用のシャツを見繕う。
手触りの良いくったりとした生地と、軽い薄手の生地とどちらにしようか迷っている時、その隣にあったセーターに目が止まった。
ナイロンの毛糸などではなく細く柔らかな糸を織り重ねた軽いそれは、濃いグレィで少し裾が長めのデザインだ。
だが広げて見れば、おそらく身体にぎりぎりのゆるやかさで沿うだろうこだわりのラインがウエストのあたりにできている。

痩せぎすの自分には似合わない。
けれどそれはとても火村に似合いそうだった。

私よりもワンサイズ大きいその春用のセーターを、それと似た手触りだったほうのシャツとともにレジに持っていく。
別々に入れてもらった、暗いオレンジにチョコレート色のロゴが入った紙袋を下げて歩く私はとても上機嫌だった。
きっととても似合う。
それを着ている火村を見ることが出来るのだから、彼女と並んでいる姿くらい見てやろうではないかと思った。
久しぶりに、幸せな気分だった。









「お疲れさん。今井さんもご苦労様やったね」

火村は、お迎えご苦労、などと言いながら助手席に乗り込んできた。

「すいません、わざわざ送っていただくなんて」
「いえいえ、手間は変わりませんから。後ろ、狭くないですか?」
「平気です」

さすがにふたりとも疲れたような顔をしている。
成果を聞きたかったが、まあ上手くいったのだろうとあまり詳細を聞くことはやめた。
疲れてはいるが、意気消沈しているふうではなかったからだ。
彼女の表情はとても満足そうで、自分のやり遂げたことに十分な手ごたえを感じていることがありありと分かった。

若い時分にそうした経験をすることは、とても重要だ。
良い師を得たばかりではなく、彼女自身の力があってこその今回の結果なのだろう。
火村もそれなりに一仕事終えたという顔をしている。
両手を所在なさげにネクタイにかけたりしているあたり、どうやら気も使って来たらしいが。

「あ、そうだ、先生」

マンションに車が近づいた頃、彼女は伸び上がるように手を打ってから、荷物をごそごそと探り始めた。
学生にしては随分立派な建物で、おそらくは火村の下宿よりも家賃は高いだろうと思うと少し笑えた。

「これ。どうぞ」

私と火村の隙間から差し出されたのは、モノトーンを基調としたベーシックスタイルが定番の店の袋だ。

「なに?」
「えっと、先生、もうすぐ誕生日でしょう?」

火村は面食らったように黙り、そして私もまた黙っていた。

「ずっと論文でお世話になってますし…お礼と、今後の賄賂です」
「必要ない。そういうのは君の授業料でまかなえることになっている」
「でも買っちゃいましたし。私の周囲に、サイズがあう人なんかいません。受け取ってもらえなかったら捨てるしかないし、もったいないから貰ってください」
「自分勝手な理論をふりかざすじゃないか」
「今回の学会で思ったんです。目的があれば、それも止む無し」

ふふ、と楽しそうに彼女は笑った。
火村の負けだ。
彼は、今回限りにしてくれと言い、それから、使うかどうか分からないからと釘を刺した。

「はあい。先生、開けてみて」

最後の抵抗のようにわざとらしいため息をつきつつ、がさがさと薄紙をはがすと、綺麗なニットが出てきた。
私が買ったものととても似ている。
だが、色が違う。
薄くブルーがかった、けれどほぼ白に近いセーターだ。

ああ、と私は思った。
そう。
暗いグレイなんかより、火村にはこのほうがよく似合う。


「すいません本当に、ありがとうございました! 先生もお疲れ様です。また明日!」

元気よく彼女が去っていくと、急に静かになる。
年下の女性というのは、いるだけでにぎやかな空気を発散しているらしい。

火村は軽く手を挙げて応えた後、下宿へと向かう車の中で煙草に火をつけながらしげしげとそのセーターを眺めていた。
何かからかうようなことをするのがたいていの私の役割であるが、どうも上手くいきそうにないので黙るしかない。

「真っ直ぐ帰ってええんか? 何か買い物は?」
「ん。ああ、いらない」

彼も口数が少ない。
そのまま下宿に戻り、私は火村の部屋から借りっぱなしだった本を入れた荷物をリアシートからよっこらと出した。
隣にあった紙袋は置いたままにする。

「なんか残ってるぜ。それは本じゃないのか?」

同じく荷物を取り出していた火村がそう言った。
目ざとい奴だ。

「いや、これは、俺の。さっき、買った」

彼女のセーターを見た時に、私は急に恥ずかしくなっていた。
センスもあの子のほうがいいに決まっているし、そもそも服をプレゼントするということ自体が不自然なような気がする。
彼女は火村の誕生日を知っていた。
当然、私も知っている。
そのことを多分どこかで意識していたのだと思う。
馬鹿げた行為だった。


2時間ほどを火村の部屋で過ごし、自宅へ戻る車の中で私はようやくひとつの結論にたどりついていた。

諦めていた。
友達であればいいと思っていた。
けれど今、火村としっかり向き合える女性が現れたことで、急に不安が膨らんでくる。
このままずっと、同じ時が永遠に続くなんてありえない。
ずっとこの距離を保つなんて不可能だ。
彼はいずれ人を愛し、彼のなかをその人やその人をとりまく環境が占めていき、その分私は親密さを失っていく。
それがとても恐い。
諦められる恋だと思っていた。

けれど今、私は。








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相変わらずぐるぐるしてますね。
目的のためなら、それも止む無し(笑)



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