君に贈る



1.




密やかと呼ぶには切実さの薄い恋だった。
今になって思うところでは、それは単に思いの軽さではなかった。
深刻さに欠けていた理由はふたつある。

ひとつは、火村という人が私以外と親密な関係を結ぶようには思われなかったからだ。
友人という概念がもしかしたらふたりの間では食い違っているのかもしれないが、だとしたら辞書に頼ってもいい、とにかく親しい人間といえば私くらいしかいない彼がましてや恋人などつくるとは思えなかった。
たかをくくっていたと言えるだろう。

もうひとつは、もっとシンプルだ。
叶いそうもなかったから。

深い深い海に落ちた時、水面が見え、すぐそこに空気が満ちていると分かっていたなら人は必死であがく。
しかしもうずっと底のほうへいたならば、潰えた望みが大きいほどに抱えきれずにそれらを捨てる。
それを諦めという。
いつのまにか生まれた気持ちが叶わぬものだと知っていたから、だから決して多くを望まずに友人として彼の傍らにあることで満足していたはずだった。


私がこんなにも彼を好きだと知らなかった。








それは寒い日のことだ。
私は作家だが、時々講演会というものに招かれ出掛けることがある。
その日も、ミステリ探訪と称して名古屋のとあるホールで行われた催し物にゲストとして呼ばれ、近距離ながらホテルを用意してくれるというので一泊の予定で参加した。

ちょうど同じ日、火村が研究会で同じ場所にいるということが分かり、私たちはそれぞれに付き合いをこなした後に落ち合うことにしていた。
待ち合わせた場所は、初めてではないがそんなに土地鑑があるほどでもないせいで、吹きさらしの酷く寒い場所であることに着いてから気づいた。
まだ5分ほど早いが、私はたいてい先に来て待っていることが多い。
じっと立っていると、身体の心から震えがくるほどに冷える。
ジャケットのポケットに手を突っ込み、巻いていたニットのマフラーに口元をうずめて耐えていたが、これが火村相手でなければ即座に帰っていたに違いない。


隠れた唇が微笑んでしまうことを、私だけが知っていた。
頻繁に会うような間柄ではなく、かといって疎遠にもならず、思い出したようにぽつぽつと連絡を取り合ってはなんということもなく過ごす。
それが私たちだ。
そして私は、そんな関係を越えて彼に特別な感情を抱いている。
一生伝えるつもりはない。
けれど、いやだからこそ、こうして地元以外のところでも顔を合わせるというのはなにか特別な気がして嬉しかった。
我ながら随分と子どもじみた恋愛の仕方であるが、これが恋愛であると認めることができただけでも私にとっては上等の部類だろう。


腕時計を覗いて時間を確認したとき、冷たく強い風がふいた。
私は慌てて、一瞬で凍りついたかと思うほど体温の奪われた手をポケットに入れなおし、巻き上がる風に目を閉じて砂埃をやり過ごした。
ゆっくりと周囲が静まり、空気が動かないというだけで少し温かくさえ感じることに驚きつつも目を開けると、その向こうから火村がやってくるのが見えた。

手を挙げて合図をしようとした、その手は固まったように動かない。


彼は、隣にひとりの女性を伴っていた。
おそらくはどうということもない光景なのかもしれない。
けれど私にとって、それは息を呑むほど完璧な世界に見えた。
雪解けが始まっているとはいえまだ寒い早春の夜空の下を、上背のあるスーツ姿の男とほんの少し裾に向かって広がる膝丈のコートを着た女性が歩いてくる。
オフホワイトの丸襟が彼女のシャープな顔立ちを和らげ、すっきりとした立ち姿で彼女の楚々とした歩みを待つ男への微笑を上品なものにしていた。

いいものだな、と思った。
ああいうのを似合いと評するのだろう。
誰が見ても思わず目を細め、祝福したくなる組み合わせだ。
だから、嫌だった。
我が家を離れた非日常の中で過ごす時間を楽しみにしていたが、少し浮かれすぎていたらしい。
現実を見ろよと、これはそういう忠告なのだろうか。
手厳しいものだ。
彼の傍らに立つことに、自分がそぐわないことくらい分かっている。


「待たせた。寒かったか」

私はそれに応えずマフラーに顔を半分うずめたままで笑い、

「珍しいな。きっちりネクタイ締めてる君なんて、卒業式以来やないか」
「おおげさなことを言うな」

そこで私は視線を彼女に向けた。
にこりと笑った顔は、日本人に特有の媚びるような印象が全くなく、かといって我の強さを感じるわけでもない、しっかりとした笑顔だった。

「こちらは?」
「うちのM2の学生でイズミ君だ。一緒に研究会に来ているが、知り合いもいないしひとりで放り出すわけにもいかないしな」

イズミ、が果たしてファーストネームかラストネームかを考えていることなどおくびにも出さず、私はそつなく微笑んだ。
彼女は優雅な動きで手袋を外し、持っていた小ぶりのバッグからカードケースを取り出すと、慣れた様子で名刺をくれた。

一緒に来て一緒に帰る?
ふたりだけで?
ホテルも一緒?

聞けるわけが無い。
名刺には、今井出海とあった。
なるほど。

「ご丁寧に。すいません、今日は名刺持ってきてへんのです。有栖川といいます」
「お噂はかねがね。こちらこそ申し訳ありません、お邪魔してしまって」
「いえいえ、とんでもない」

初対面の人間における基本的な挨拶、というビデオに出られそうだ。

「ご一緒できて光栄です。有栖川さんのご本は全て拝見させていただいています」
「あ、あー、ありがとうございます」
「最初はお名前に惹かれて手に取ったんです。すごく気になって。もちろん小説そのものもすごく好きです」

火村はとんとんと足を鳴らし、

「もういいから早いとこ行こうぜ。寒くてかなわない」

と先に立って歩き出した。

「行くってお前、あてはあるんか」
「なんかどっかのホテルだろ?」

くるりと振り返ってイズミに聞く。
途端に、隣にいた彼女の声が弾んだ。

「はい、Wホテルの最上階です。夜景がすっごく綺麗なんだそうです」

すっごく、というところに、彼女の年相応の印象を初めて持った。
M2ということは少なくとも24だろうが、もっと大人っぽくみえる。
おそらくはそう振舞っているのだろうが、そうしたモードに切り替えられるのもまた大人の条件だ。

夜景か。
彼女はきっと、火村とふたりで出掛けることを想定して選んだのだろう。
火村に対する視線や態度には、師としては当然としても、それ以上の敬意ともっと特別な思いがあるように私には見える。
そうした女性の態度は珍しいものではない。
彼の側にいる人間たちは多かれ少なかれ、その魅力に親密な関係を持ちたいという思いを抱くようだし、単純に魅力があるのだろうとも思う。
私は確かに彼の横顔は好きだが、別に造作に格好良いなどという形容を思いついたことはない。
だが一般的にはやはりいい男の部類に入るようだ。
なのでいつもならばそう気にするようなことではないのだが、やはり旅先に伴ってきたことや、二人きりで会えるという私のささやかな希望を断ち切ってくれたことなんかが影響しているのだろうか、あまり良い気分ではなかった。

それでもまさか帰ることなど出来ないし、黙り込むことさえいい大人としての常識が許さない。
嫌な気分がさらに強くなったのは、レディファーストなどおかまいなしの火村に慣れている私が彼女のためにバーのドアを開けようとした時、まるでそれは自分の役目だというように彼がさり気なく割り込み重い扉を支えたからだ。
どうぞ、という顔で彼女に向けた顔は、笑顔ではなかったがいつもの不機嫌そうな顔でもなかった。
彼女は嬉しそうに笑い、優雅に会釈をして火村の横を通って店へと入る。
それは全く、よくできた映画のような光景だった。

ああ帰りたいなとまた思った。
だがこれでも私は、そういう気持ちを見ないふりをすることくらい出来る。
彼女を挟んで座り、メニューを覗き込む彼らから視線をもぎ離し、目の前の夜景を美しいと思うことも出来る。


確かにそこは綺麗だった。
それほど高さのあるホテルではないのだが、周囲が新興の観光向けエリアであるせいか、見えるビルのライティングがそれぞれ工夫がこらされた人工的な美がある。
ガラス張りの箱、屋上の庭園、曲線のある建物が、ブルーやグリーンに染まりそれがひとまとまりをなしていた。
まさかこのホテルからの光景を想定して話し合ったわけでもあるまいに、モザイクがひとつの絵となるような不均衡の美しさがある。

ぽつぽつと名古屋の印象などを話しているうちに、彼らは今日の研究会についての意見を交わし始めた。
火村はウイスキィらしきものを、彼女はオレンジ色の背の高いグラスを前にしているがどちらもあまり口をつける様子が無い。
彼女はなかなかつわもののようで、時々火村の考えに真っ向から異を唱えることもある。
それを面白がっている気配が感じられ、なるほど、彼のお気に入りなだけはあると思った。
簡素な化粧と、香水を全くつけていないところなどは、まさに火村が顔をしかめる女性の性質を排除できているようだ。
興味深く聞いているふりをしながら、私はそんなことを考えていた。

せめてあげつらう欠点がひとつでもあれば良かったのだが、どうやら彼女に隙はない。
結局、いくつかのビルの明かりが消えたのを潮に腰を上げるまで、そんなものをみつけることは出来なかった。


待ち合わせた場所で再び別れる時、私は振り返って彼らの姿を見ないよう必死で視線を前に据えていた。
見てはいけない。
去っていく並んだ姿はきっと焼きついて離れない。








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