5.
一行目から、人が死んでいた。
少し驚く。
先を読み進めると、どうやらミステリらしいと分かった。
見た目にそぐわないジャンルの小説は、不可思議な展開の中でしかし奇妙なリアルさを保っている。
決してプロ並みとは言えないが、江神という名の探偵役はよくキャラが練られていたし、ワトソン役の学生はアリスと同姓同名で、まるで彼自身を描写したかのような言動が作り事の世界の中で好ましい印象を与える。
アリスという助手は、決して彼自身ではないだろう。
それでも、表面的な優しさとそれに隠れた複雑な心理、若者特有の葛藤が、やはり火村の知るアリスを髣髴とさせた。
同時に、誰とも知れない犯人の、モノローグ的に挟み込まれる暗くどろどろとした感情描写にも驚く。
どちらも彼の中から出てきた言葉だ。
筆者の経験とイコールのはずはなく、だが明るいだけの人間には書けない陰惨さであると火村は思う。
今、アリスはこの中にいるのだ。
そう考えると、これらの文字を通して、彼の酷く繊細な部分にまで自分が入り込んでいる気になる。
身体を繋げたときよりも、ずっと深いところに踏み込んでしまったような。
無許可ではまずい、そうとっさに感じるほどだ。
だが、原稿を伏せてしまう気にはならなかった。
アリスの内面に少しずつ入っていくことに、魅了されかけている。
そして純粋に、ストーリーの続きが気になった。
両方の理由で、火村は断りもないまま読み進めていき、追加される数枚も読みきってとうとう原稿の先がなくなってしまった。
事件は佳境である。
必然的に、目は今まさにアリスが書き綴っている原稿に向けられた。
そしてその瞬間、隣で彼がはっとしたのが分かった。
しまった、と思うのと同時に、間がいいのか悪いのか、教授が講義の終了を告げた。
アリスはぽかんとした顔をしている。
彼にとっては、誰もいなかった席に火村が忽然と現れたようなものなのだろう。
周りがばたばたと帰って行くのを見ながら、火村はばつが悪くなる。
勝手に読んでいたことに申し訳ない思いもあった。
なぜ自分がここにいるのか、説明も必要だろうし、時間をとってくれるよう言う必要もある。
なんと切り出したものか、迷っているうちに、
「続きはどうなるんだ?」
そう聞いてしまった。
アリスはかすかに目を細め、口を引き結ぶ。
そして火村が手を置いていた原稿を引き抜くように取り上げると、手元の原稿と合わせてバッグに仕舞いこむ。
「……続きは俺の頭ん中にある。それは誰にも教えられへんもんや」
「そりゃ、まあ。そうだろうが」
「なんか用か?」
聞かれていることとは別にひらめいたことがあった。
「そうか、あの集団的犯罪の本、参考にするってのはこういうことだったのか」
アリスは虚を突かれた顔をしたが、ああ、と思い出したように、
「あれか。返しに来たんか? わざわざどうも」
「あ、そういやそうだったな。忘れてた」
「……なんやのん、君は」
言われて、火村は少し大きめに息を吸った。
「悪かった。と、思ってな。少し、誤解があった」
何のことだか分からない、あやふやな言い方になったが、アリスは表情を変えないまま肩を竦め、
「イリエになんか言われたんやろ。気にせんでええ、あの人も色々ある人やから」
「何か聞いたのか?」
「ちらっとな。何かきついこと言われたんか」
「別にそういう訳ではないが」
「そう? まあええわ。俺も相当おめでたかったし、君の言い分にはかなり尤もなとこあるしな。今後の教訓にしとくわ」
立ち上がる。
周りを見ると、いつのまにか誰もいなくなっていた。
昼休みなのだ。
火村は少し迷ったが、
「小説。書いてるんだな」
彼はかすかに笑った。
「勝手に読みやがって。タダちゃうで」
「ああ……悪かった、昼飯でもおごるよ」
そう言うと、驚いた顔をして、それをすぐに逸らした。
「阿呆、冗談や。……悪かった」
付け加えられた謝罪に、何のことかと戸惑う。
そしてそれが、つきまとうなという言葉に反した言動だったからだと思い当たったとき、火村は激しい羞恥に叫び出しそうになった。
最初に間違ったのは自分だ。
それに気づかず、彼を誤解させ、人としてあるまじき仕打ちを受け入れさせ、挙句の果てに人道にもとるやり方で突き放した。
望みが叶ったと思ったすぐ後に、それが勘違いだったと知らされ、彼は何を思っただろう。
ドアの隙間から見せた驚きの表情は、その後どんなふうに変わっただろう。
彼は責めてもいいはずだ。
それなのに、火村の一方的な要求をきちんと受け入れ、それに沿わないことを謝ることさえする。
おめでたかった、と自分を笑い、後悔しながらも、きちんと過去に向き合う態度は、やけに大人びたものだ。
「続きは読ませてもらえないのか?」
「君、あんま小説読まんて言うてたやないか。それに、こんなん読むより、よう出来たミステリが世の中にはごまんとあんねんで、もったいない。まずはクイーンから制覇せえや」
「気になるんだよ」
食い下がると、アリスはため息をついた。
「君なあ……。人を好きになったこと、ないんやろ」
かすれたような声がひどく切なげで、火村は言葉に詰まった。
アリスは片手でくしゃりと自分の髪をかきまわしながら、諦めたように笑った。
「正直言って、寝てへんかったらまだマシやったと思ってしまうんや。酔っ払ってたのに、妙によう覚えてて、困るわ。ただの失恋ならまだしも」
ただの失恋がどんなものかは知らないが、言いたいことは分かる気がした。
指先が食い込む感触や、触れ合わせた肌の匂い、唇の味、生々しいそれらの記憶は、忘れるには強烈過ぎる。
「ほら、最初っから君は、男と付き合うなんてこれっぽっちも考えへんかったやろ? ノンケってそうやねん、好きかどうかなんて二の次で、自分がゲイやないって気持ちが先に立つ。そやからおれらに全然向き合うてくれへんねん。俺なぁ、火村は男も女も気に入らーん、っちゅうような顔しとるから、逆に、ちゃんと分かってくれればニュートラルな立場で考えてくれるんやないかって思うたんや。うん、勝手な押し付け。ごめん。
いや、そんでもまさか、全然伝わってへんとは思わんかったわ。もっと女みたいなやり方しとったら良かったんかもしれんな。まあ俺は男やから、ようそういうんは分からんけど。
……君を見ると、そういうことを全部思い出す。忘れようとしとるのに、気持ちも、プライドも、痛い。自分を嫌いになりそうで、怖くなる」
だから小説なのか、と火村は理解した。
他人の気配を完全に排除できるほど没頭するのは、それがある種の苦悩に対して有効に働くからだろう。
それを逃避だとは思わない。
むしろ彼はとことんまで自分に向き合い、それを間接的にではあるが文字にして記している。
マゾヒスティックとも思えるほど、さらけ出すものは生々しい。
自分が渇望して止まない強さがそこにはあった。
その瞬間に、火村の気持ちは固まった。
何を言うべきかについて悩んでいたことが、するりと解けていく。
「アリス」
階段教室を降りていく彼の後ろ髪が、ひょこひょこ揺れる。
「アリス。好きだよ」
ばっ、と振り向いた彼は、みるみるうちに眦をきつくした。
信じられないのも、からかっていると受け取られるのも仕方がない。
それを承知で、火村は精一杯微笑んでみせた。
アリスは湯気が出そうな調子で怒っている。
「嘘つけ! お前、最低やな!」
「そうかな。アリスよりずっと信憑性が高い『好き』だと思うが」
「なにを根拠に!」
「ほんの一時間話しただけで、いきなり惚れたとか言ったじゃないか。俺は違うだろ、寝てみて身体の相性も分かったし、お前がどんなやつか少しは知った。小説を読んでますます惹かれたし、俺の知らない部分をもっと知りたくなった」
くぅ、と唸った彼は、しかしかろうじて、
「ふ、ふん、お前は友達もおらんようやから教えてやるけどな、友達の好きと恋人の好きは違うんやで。どうせそこらへん、区別もつかんような男や、君は」
酷い言われようだったが、火村は反撃の隙を見つけてニヤリとした。
たじろぐアリスに、何気なく、
「分かってないのはお前さ。区別をつけるのなんて簡単だ。俺は友達と寝たくなったりはしない性分だからな」
言外の意味を悟り赤くなったり青くなったりしているアリスが、態度を決めかねている間に素早く近づいた。
しかし敵もさるもの、火村の手が届く前に、彼は脱兎の如くドアに向かって駆け出していた。
「ひゃっぺん謝っても、あかんからな!」
やっぱり怒ってた。
入り口で足を踏ん張って宣言する顔は本気だが、その分、取り繕うものがない。
「ごめん、悪かった。今ので二回目か?」
「一回目や!」
「あそう。まあいいや、原稿、また後でな」
「嫌やて言うてるやろが」
「気になるんだ」
笑えてきた。
アリスは階段状の机の向こうから火村を見上げている。
「気になるんだ、アリス。先はどうなる?」
二人の関係に重ねて尋ねる。
顎をつんとあげて、彼は言う。
「結末が分かっとったらつまらんやろ。驚くような展開だけは期待してええで」
「いいほうに? 悪いほうに?」
ニヤリと笑って、アリスは出て行った。
知らない間に入っていた肩の力を緩める。
立場逆転だ。
だが火村としては、追いかけられるより追いかけるほうが性に合っている。
まずは今日の夕方に、図書館に足を向けて見ようと決めた。
きっと戻って来ている。
ただの願望でないことを祈ろう、と火村は苦笑した。
先が読めないほうが確かに面白い。
誰かの意見を正しいと認めることは、思ったより気持ちが良かった。
とりあえずはまだ、ごめんの言葉を繰り返す。
百と一回目のその後に何かが起こり、それが悲しい結末だとしても、この恋を知るまで流しえなかったかもしれない涙ならそれもいいかと思えるだろう。
それでもできれば願わくば――君の手を取る人生と、キスのついてる生活と、死ぬまで呼び合う名前ならいい。
end
Back