4.









市立図書館の敷地外、一番近い喫煙場所で、火村は思いがけない人物に会った。
犬のマークが背表紙についたノベルスを数冊手にした、メガネの青年だ。
趣味の良い綺麗目な恰好をした彼は、ギャルソン姿の店のマスタである時よりも優しそうに見える。
相変わらず秀才タイプの口はしかし、聞いたことのあるねばっこいオネェ言葉はなりをひそめ、外見に似つかわしい物静かな声が出てきた。

「やあ。火村君、だったね。わざわざ市立図書館に?」

関係ないと言いかけ、彼がなんら自分に害をなしたことがない目上の人間だと思い出した。

「ええ。まあ。ええと……そちらも?」
「ああそうか。僕は入江と言います。イリエと呼ばれることが多いから、そのほうが通りがいいかな。アリスと同じイントネーションだね。あ、そうそう、君ね、別に大学の図書館でかまわないと思うよ。アリスは最近、行ってないから」

意図を見透かされ、何も言えなくなる。
確かにアリスに会いたくないがために、自分はわざわざこんなところまでやって来ていた。
用もないのに本の背表紙を眺めて喜ぶアリスとは、よく図書館で顔を合わせた。
それを避けたのだと分かりきった彼の言いように、次第に腹が立つ。

「見たい資料がこちらにあっただけです」
「あ、そうなんだ。誤解してたんだね。悪かった。そうだよね、アリスしばらく学校自体行ってないし、そのくらい分かるだろうね」

ぴくり、と思わず眉が上がった。
確かに、あの夜からアリスを一度も見ていない。
それは自分が苦労して避けているからだと思っていたが、どうやらそんな無駄な努力は必要なかったらしい。
イリエは火村の反応に気づかないのか、気さくな調子を崩さない。

「このところ、毎日泥酔していくんだ。困ったもんだ」
「……楽しそうに見えますが」

彼はふふふと笑う。

「だって、あの小生意気なアリスが心底落ち込んで、つらいつらいって言いながら泣くんだよ。あまりにありえなさすぎて、笑えるじゃないか」
「泣く?」
「そうだよ。だって君、一発ヤってポイしちゃったんだって? 悪い男だよね」

顔に似合わなすぎる下品な物言いに、火村の顔のほうが赤くなる。

「そんな言い方をされる覚えはない」
「え?」
「自分に否があるとは認められないってことです」
「……いや、でも、ちょっとやり方は酷いだろう? アリスを傷つけた」
「なぜそれが俺のせいだと?」

するとイリエは、吃驚したように急に口元を引き締めた。
それから眉を寄せて、火村に対する険を含ませる。

「……嫌だな、火村君。別に僕は君を非難してるわけじゃない。一線を越えることで起こる諸々は、どちらかが一方的に悪人なわけじゃないって思うからね。アリスも自分で気をつけるべきだったから、君を酷いと罵るつもりは僕にはないよ。でも、君自身は自分のしたことをちゃんと知っているべきじゃないかな」
「どう聞いても非難されているようにしか聞こえない。俺はアリスの望みをそれなりに叶えてやったつもりだ。あなたはあいつが俺に毎日どんなふうに迫ってきたか、知ってるのか? 拒否しても拒否しても、あいつはちっとも聞く耳持たない。最終的な手段だったが、唯一の手段でもあったはずだ」

イリエは火村の話を聞きながら、徐々に不機嫌になっていく。
最終的に、彼は忌々しそうな顔をして、側にいるのも嫌だというように一歩退いた。
そして、腕組みをしたまま、親指で火村を指す。

「君。何か勘違いしてないか」
「……していない、つもりだ」
「あのね、アリスは女じゃないよ」
「は? ……よく知ってるけど?」
「なんだい、そのい言い方は。自惚れるんじゃない。ヤったから何を知ってるって言うのさ。君はアリスの気持ちの、何を知ってるのさ。一回寝てそれで望みを叶えたって、ああ、なんて言い草だ。最低だね。くそ、どうしてくれようかな」

憎憎しいとでも言うような、本気の立腹をぶつけられる。
火村もカチンとくる。

「一晩付き合えと言い出したのはアリスだろう?」
「それは最初だけだろ。その後は、ちゃんと君に惚れたって言ったはずだよ。忘れたなんて言わせないんだから」

身を捩るような仕草が、ちょっと女性っぽくなる。
両手を握り合わせて、恋だと叫ぶアリスを思い出した。

「ば……馬鹿馬鹿しい、あんな酔った勢いみたいな台詞、どう信じろって言うんだ」
「嘘よ、その後もちゃんと口説いたって言ってたもの」

まるで地団駄踏みそうな迫力に仰け反りながら、記憶を探る。
いや――まさかあの、好き好き大好きの毎日の台詞や、見当違いの褒め言葉は、口説いているつもりだったのだろうか。
昨今、小学生だってもっとマシなやり方を心得ているだろうに。

「男が女を口説くのでも、女が男を口説くんでもないわ、アリスがあなたを好きになって、告白したのよ? 今までと違うとか、女と比べてるんじゃないでしょうね、あんた!」

とうとうあんた呼ばわりだ。
だが、鋭い。
さすがと言おうかなんと言おうか、恐らくは彼の彼女的部分が経験してきたものがそれを言わせているのだろう。
イリエは鼻息も荒く怒鳴りつけてから、自らを抑えるように胸に手を当てた。

「ああ……」


そのままひとつふたつ深呼吸をすると、ようやく最初の調子に戻る。

「取り乱してごめん。こんなこと、君に言ったって仕方がないよね。同じことだから」
「同じ?」
「君がアリスをちょっとでも好きなら、一回ヤってポイはないだろうさ。そんなことできる時点で、どっちにしろアリスの恋は実らない。今のは、僕のおせっかいなお説教だと思って、忘れてよ」

本を抱え、ひらひらと手を振る。
ため息のまま、イリエは火村に力なく笑いかけた。

「だからさ、ノンケの男なんかよせって言ったんだ。僕だって――うん、いや、僕のことなんかどうでもいいよね。ああ……やなこと思い出しちゃった。くさくさするね。今夜は店は休みだし、思いっきり飲むことにする。アリスみたいにね。君はもう気にしないほうがいいよ。飲んで、泣いて、そうやってるうちになんとか立ち直るものだから」

分別くさいことを言い置いて、イリエは帰っていった。
残された火村は、指の間で何時の間にか短くなってしまった煙草を、灰皿に放り込む。

あの夜、最後にアリスが見せた驚きの表情は、火村が彼の気持ちに応えたと思い込んでいたゆえだろう。
イリエの言葉が正しければ、望みを叶えてやるという言葉はそういう意味に聞こえたはずだ。
汚れたシーツを腰に巻きつけ、引きずって走ってきたアリスは、投げつけられた捨て台詞に何を思っただろう。
そう言えば、あそこはホテルではない。
シーツの処理も、それを言うなら思い切り中で出した後の始末も、彼は一人でやったはずだ。
ぞっとする。
想像するだけで、それは酷な光景だった。
だが――

「俺のせいだってのか?」

それはいかにも、不満だ。
完全に否定できないのが、さらに腹立たしい。











週が明けて月曜日、あれから半月が経ってようやく構内でアリスを見かけた。
眠そうな顔をした彼は、正面から歩いていく火村を少し遠くで見つけたようで、だるい仕草で肩からずりおちそうなバッグを直しながら、口元で笑った。
目の前で、よう、と声をかけられる。

「おはよう、火村」

以前と同じ挨拶をして、彼はすちゃりと手をあげた。
なんだ、こいつ前と全然変わらな――

「ヒナタぁ、次どこ?」

通り過ぎていく。
アリスの視線は一時も火村の上に止まらず、足を緩めることすらなく、すれ違った。
名前を呼ばれた男と、やはりだるそうに並んで歩きながら、そのままふらふらどこかに行ってしまいそうな身体を小突かれつま先の向く方向を修正したりしている。

あくびをして空を仰ぐつむじを見送りながら、ようやく、ひと言も返さなかったと少し後悔した。
なんで後悔なんか!
思ってみて、それからすぐに、諦めた。
自分のせいじゃないと言い聞かせてきたが、実際にアリスの顔を見ると、そんな暗示めいた言い訳はなんの役にも立たない。

彼の肌の感触や体温や吐息や汗の匂い、それらは彼が生身の人間であることをどうしても思い出させる。
希薄な関係がほとんどの火村にとって、アリスは初めて、領域を越えた相手だ。
そうしたいと思ったわけではなく、彼からの一方的な関わりであったけれど、もし本当にそれだけなら、ただ拒否することはきっと簡単だった気がする。
ゲイであることを知らされた時、火村は物珍しさで彼に興味を引かれてしまった。
そうした好奇心めいた気持ちに良心の呵責を感じ、それが引け目になって突き放せなかった。
いや、少なくとも最初はそうだった。

アリスはその隙にすごい勢いで入り込み、人懐っこい笑顔と全部を預けるような開けっぴろげな会話で、否応もなく火村を知り合い以上にしてしまった。
真っ直ぐさを尊いなんて思わないけれど、愚直でない率直さは嫌いじゃない。
きっと彼が最初にセックスを迫るような真似をしなければ、自分たちは良い友人になった気がする。
けれどそんなことを言ってもどうしようもない。
アリスはただの男ではなく、火村を好きだというのだから、そんなことは考えても仕方がない。
残念がる権利すら、自分にはないのだと思う。

それに、振り返ってみれば、彼はとてもストレートに思えたけれど実はそうじゃないことも分かってきた。
火村が今、アリスのことを誰かに紹介するとしたら、ただ表面的な説明しか出来ないだろう。
好きだとか大好きだとか、そんなことを言いつづけたくせに、本当は自分がどんな人間なのかを彼は絶対に見せなかった。
あるいはそれが、自分にとってどこか気を許せない理由であったかもしれない。
理解しきれない人間ほど、怖いものはないと思うのだ。

アリスが本当に火村を好きで、それでも全てをさらせないのだとしたら、きっと彼は誰とも恋愛なんか出来ない。
それは自分も同じ――と、火村は苦笑した。
どこかで一度、もう一度、話をしなければ。
謝る決心はつかないが、それが必要だと思った。







二ヵ月後、火村はまだタイミングがつかめず、アリスと話が出来ていなかった。
時々構内で会うこともあるが、彼はいつも友達のような顔で挨拶をし、そして他人の顔ですれ違っていく。
図書館にも姿はなくなった。
イリエの店も何度か訪れたが、ぱったりと足が途絶えたとかで会えずじまいだ。
火村には、アリスほど臆面もなく人に話し掛けるなど出来ようはずもなく、おまけに人目のあるところで話せるような内容でもないせいで、構内で見かけてもただ見送るばかりだ。

もういっそこのままでいいじゃないか、と思うこともある。
けれど火村の中のなにかがそれを許さない。
いつか必ず悔やむと分かっていることを、そのままにしておくほど馬鹿ではないが、自分から誰かに接触を求めるのは初めてで、どうしていいか困る。

同じ授業を取っているときも、アリスは必ずぎりぎりになって姿を現し、火村からずっと離れたところに座った。
そして講義が終わるとあっという間に友人達と消えてしまう。
どう考えても、避けられている。

いや、そうした言い方はアリスに対してフェアじゃない、と火村は反省する。
つきまとうなと彼を突き放したのは、自分だ。
彼はそれを良く守っている。
挨拶だけは欠かさないが、あれは今までよく一緒にいたのに急に話さなくなるのは、周囲に対して不自然だと思うからだろう。
時として一瞥もしないそっけなさは、律儀な挨拶とギャップがありすぎてむしろおかしな気もしたが、周りはそうは見ないようだ。
アリスの人柄だろうか。

いずれにしても、捕まえるのは難しかった。
火村は一計を案じた。
今まで一度も出たことのない親族法の時間に、入っていた別の講義を休んで出席した。
ぎりぎりに後ろのドアから教室に滑り込むと、案の定、アリスがすでに席についているのが見えた。
火村は何気ない顔をして、その後方に陣取る。
講義が始まってしばらくしてから、席を移動するつもりだ。
今行けばきっと、彼は出て行ってしまう。
やがて教授がのんびりと姿を現し、

「では先週の続きから」

とテキストを開き始めた。
火村は先輩からしっかり譲り受けていたテキストを開きつつ、アリスの様子を窺う。
眠そうな壇上からの声に誘われ何人かが舟を漕ぎ始めるころ、隙を窺う火村の前で、彼がそっとバッグから何かを取り出したのが見えた。
分厚い原稿用紙のようだ。
紙の束を繰って上半分ほどを伏せて傍らに置くと、しばらく考えるような間を取ったアリスは、流れるようにペンを動かし始める。
純粋に興味をそそられた。

教授が板書のために背を向けた瞬間を狙い、火村は二列前のアリスの隣に素早く移動した。
驚いたことに、アリスはそれに全く気づかずペンを走らせている。
窺い見た横顔は、今までのどの表情とも違っていた。
笑っても怒っても泣いてもいない。
ただ真剣なのとも違う。

それは多分、没頭している顔、というものだと火村は思う。
人の気配を感じれば普通は意識の何割かが必ず外に向いているものだ。
アリスは違う。
完全に世界から切り離されている。

そっと傍らに伏せられている原稿用紙を手に取った。
彼は気づかない。

何を書いているのだろう――









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