2.
そんなふうに出会った有栖川という男なのだが、あの夜は火村もどうやら酔っていたということらしく、あの場を逃げ出したのは良いが結局は学内で顔を合わせる羽目になる状況をすっかり失念していた。
分かっていれば、あの場で完全に、完璧に、叩きのめしていただろう。
だがのほほん顔のくせにアリスという学生、これがなかなか馬鹿ではない。
人目のないところでは強制的に排除されるということをあの一件で学んだらしく、次の日から彼は必ず第三者がいるところで声をかけてくるようになったのだ。
授業で一緒になればにこにこ愛想を振り撒きながら隣に座り、構内で出会えばすっ飛んできて話し掛け、そうやって一度捕まってしまうと今度はどちらかが授業で教室に入るまでぴったりマークされる。
呑気な声で話すのは、彼の趣味だという推理小説の話やらテレビの話やら、要するにとんでもなく日常的な事柄だ。
なので周囲の人間たちは、今までつるんだことのない組み合わせに好奇心たっぷりの視線を浴びせつつも、なんとも微笑ましい情景だと恐ろしい誤解をするらしく、ぬるい笑顔を向けてくる。
それもこれも、あのアリスのぽやんぽやんした雰囲気のせいだろう。
顔かたちのみならず髪質や肌の印象までが非常に中性的なせいか、彼は男女ともに友人が多いようで、どうやら火村もその一員に加えられようとしているらしい。
冗談ではない。
いっそ付きまとうなと言ってやりたいのだが、その時はおそらく、全学生に人でなしと罵られる覚悟が必要だ。
別にそれだってかまやしない火村なのだが、いずれ学校に残ろうという状態で教授連に妙な噂が残っては困る。
そんなところまで読んでいるわけではないだろうが、突き放せないのをいいことにアリスは日に日に周囲に対する立場を『火村の友達』に塗り替えていく。
恐ろしい男だ、有栖川。
何が恐ろしいと言って、そのぽやんぽやんでにこにこでほのぼのな光景の裏は、ほとんど脅迫にも近い執拗さでセックスを迫っているというのだから、こんな恐ろしいことはないだろう。
周りの人間たちの愚鈍さには、頭が下がる。
推理小説?
テレビ?
授業?
はたまた妙な雑学?
声高な話題に隠されて密かに囁かれる、ぞっとするようなくどき文句を聞かせてやりたい。
好き、大好きは当たり前、手が綺麗だの顔が綺麗だの肩の線がたまらないだの、見当違いの褒め言葉を並べ、最終的にしたいしたい抱いてくれとねだる。
正直言って、こんなストレートな誘い文句は初めてだ。
ヤツはストレートじゃねぇけどな!
はは!
ツッコミだって空しくなるくらい、直球な誘いなのだから。
火村は昔からもてた。
毎月必ず誰かから告白をされるという恒例行事めいた人生を、中学生のころからずっと続けている。
周囲もそれをやがて知るようになるから、彼女らはお互いに牽制しあい、そしていかに興味をひくかとその手段に趣向を凝らすのだ。
だからちょっとやそっとの誘いにはもう動じない自身があるのだけれど、アリスの場合は動じるとか動じないとか、そんなレベルではない。
断れば諦めて去ってくれる、当たり前だと思っていたかつての女たちに、今なら感謝できる気がする。
プライドを持っていてくれてありがとう、綺麗に諦めてくれてありがとう。
だからできればこの聞く耳持たないおかしな男をどうにかしてくれ!
「火村!」
向こうからぶんぶんと手を振ってやってくるアリスを見て、思わず回れ右する。
しかしそんなことでめげるような彼ではなく、後ろからぶつかるように横に並んできた。
「なぁ、今度映画見に行かへんか。最近は邦画も面白なってきたと思わん? 今週末から、『椿三十郎』やねん」
「行かない。確かに邦画は面白くなってるけどな」
「ほな行こうや」
「嫌だ。それにしても意外だな。時代物より、ライオンが王様の映画とか好きそうなのに。あれも今週末からだろう、有栖川有栖?」
うんざりを隠さないものの会話が成り立っている。
そうでもしないと、アリスはどうせいつまでもひっついてくるからだ。
とはいえ、そう仕向けられている気がしないでもないから腹が立つ。
横でアリスは顔をしかめている。
「名前ばれとる」
「俺だってものを尋ねるくらいの友達はいる」
アリスはニヤニヤした。
火村のその行動が、ますます二人がお互いに興味を持ちつ持たれつの円満な関係だと周囲に植えつけてしまったことを、彼は解っているのだ。
「そうそう、映画。俺、子どもん頃から本でもなんでも、ファンタジィってダメやったわ。整合性はないし、ありえへん展開と納得出来ひん結末ときた日には、時間を返せと言いたなるし」
ますます意外だ。
夢見がちなくせに、想像だけで成り立つ世界はダメらしい。
変なヤツだ、と改めて思う。
だが、彼もやはり人間だ。
俺を手玉にとろうなど百年早いわ、と火村は内心で笑った。
「だったらその現実的な頭でしっかり現実を見据えてくれ。いいか、アリス。俺はお前と寝ることは絶対にない。いい加減につきまとうのはやめろ」
はっきり言ってやると、アリスは慌てて周囲を見回した。
しかし回りは全くの無人である。
話をしながら、人気のない裏通りの林の近くに二人はたどりついていた。
存分に言いたいことを言える環境で、火村はアリスに向き合った。
彼は嵌められたと気づいたようだが、それでも涼しい顔は崩さない。
「つきまとうやなんて、心外や。一緒にいたいだけやんか」
「すでに矛盾しているだろうが」
「っていうかなぁ」
ポケットに両手を突っ込んで、アリスはちょっと顔を反らす。
数センチ下からのその表情は、生意気な猫のようだ。
「現実見て欲しいんは君や。俺は告白してんねんで? それを、お前とは寝ない、だけで終わらせられるわけないやろ。ちゃんと説明して欲しいもんや」
「そんなのは決まっ」
「言っとくけど、俺が男やから、とか言う理由やったら、君を軽蔑する」
なんでお前のほうが偉そうなんだ、と火村は喉を詰まらせながら頭の中で罵る。
誰に何を思われようが気にもしないが、正面切った正しい理論で軽蔑されるのは気に食わない。
彼の言う理由は、確かにそれに値する。
だから別の理由を考えようとするのだが、学内一を誇る頭脳はいつもと勝手が違う分野の問題に、回転数を下げていた。
答えに詰まって唸っている間に、アリスはしっかり立ち直っている。
「残念、タイムアップです! 俺、次は授業やねん。ほんならな、ひむひむ、またなぁ」
誰がひむひむだ!
取り残されて頭をかきむしっていた火村は、はっとして時計を覗き込み、自分も授業だったことを思い出し慌てて走り出した。
冗談じゃない、まったく。
アリスがいると、調子が狂う。
まったく、ほんとに。
結局そのまま、学内で追い掛け回される――と火村だけが知っている――日々が続き、周りは完全に二人を親友とみなしはじめた。
奴らの目は節穴だ。
さっぱり何にも見えちゃいないに決まっている。
むすっとした表情を崩さないはずの自分を巻き込み、よくも親友などと小恥ずかしい言葉で表現してくれるものだ。
とはいえ、その手の表情はアリスが表れる前から変わりなく張り付いているものだったので、自分でもいささか反省している。
もっとみんなに愛想良くしておけば、アリスに対して友愛的な気持ちなど一切ないのだと分かってもらえるはずだったのだ。
さらに困惑することに、こもごもの事情を知っているはずの茅ケ崎が、むっつりと不機嫌だったりする。
僕よりアリスなんだ、とか、やっぱりあの時無理にでも、とか、色んな意味で恐ろしいことを呟く。
最早そこには対等に意見を戦わせた茅ケ崎の片鱗はなく、なんだかよく分からない嫉妬に口を尖らせる男が一人。
せっかく忌憚なく考えをぶつけあえる人間に出会えたと思ったのに、少なくとも今の彼とではそんなことは不可能だ。
なによりそれが腹立たしい。
そう考えると、怒りが怒りを呼び、知らない間に勝手に人を巻き込んで騒いでいるアリスに苛立った。
だが彼は、何を言っても引き下がる気配はない。
そうしてみてふと、考えた。
なぜ自分がここまで振り回されているのかということではなく、なぜここまで拒絶しているかということ。
アリスを遠ざけたいなら、十分な理由をつくることが出来る。
望みどおり一度寝てやればいいんだ。
こっちから用があるとなるとさっぱり姿が見えないあたり、本当に面倒なヤツだと思う。
火村は学内にアリスを探しても見つからなかったため、本人に連絡をとる手段が一切ないことにようやく気づいた。
それまで必要がなかったからだが、電話番号一つ知らない。
どうしたものかと思っている間に時間が過ぎ、最終的に思いついたのはあの店だ。
めがね君のいるあのバーは、茅ケ崎がほぼ毎日入り浸っていると行っていたから、おそらく普通にその手の人間が軽く飲みに来る店でもあるのだろう。
同じようにアリスもよく馴染んでいたようだったから、今夜もいるかもしれない。
少し考えて、ホテルに入る可能性を考慮し自転車は自粛した。
男同士でも大丈夫な場所があるのかは知らないが、そこらへんはアリスのほうが詳しいに違いない。
ここまでくると、火村もやる気が出てきた。
男と寝たことはないが、少なくとも自分が抱かれたくない根拠を考えると、なによりも同性に組み敷かれる形になるのが気に食わないと想像できる。
くだらない男性上位な意識はないが、セックスで女は受け身であるのが普通だろう。
受け入れる側が相手に対して体を開き、全てをさらしてなされるがままなのだ。
そう考えると、女と言うのは度胸のある生き物だなと思える。
自分が誰かに対してそんなに無防備になり、主導権を完全に握られるなど、考えられない。
逆に、アリスに対して今まで振り回されていた分をしっかりお返しできるのだと考えることができる。
散々に人の生活を踏み荒らしてくれたつけは大きい。
火村は意気揚揚と店のドアをくぐった。
ここがどんな場所か知っても、店の中はやはり落ち着く雰囲気だ。
ソファやテーブルの間隔、高さや照明、そんなものまで気が配られているのだろう。
いらっしゃいませ、というマスタの声を無視してアリスを探す。
いた。
前と同じ席だ。
だが、前回はグラス片手に本を読んでいた後姿が、今日はカウンタに突っ伏している。
眉を寄せ、アリスの向こう側にいるマスタと目を合わせた。
「酔っちゃったみたいよ」
相変わらず知的美人には似つかわしくない言葉で、そう教えてくれた。
ため息をつく。
自分の酒量が分からないのだろうか。
それともこの店では酔ってもいいと思っているのか。
しばし考える。
時々唸っているのを見ると、完全に意識がないわけではないらしい。
前後不覚の状態というのはさすがにどうかと思ったが、すっかりその気で来た火村はこのチャンスを逃せば明日あさってには腰が引けてくるだろうと自分で分かっている。
それに、むしろはっきり覚えてくれないほうがいいのではないだろうか。
三十秒でそこまで考え、火村は当初の予定通り、決行を決意した。
「これ、持って帰っていいですか?」
腕組みした状態から片手を抜き、アリスを指差す。
マスタは顔色ひとつ変えなかった。
「いいわよ。でもどこに?」
そうだった、アリスに場所を決めてもらおうと思っていたのだった。
しばしまた迷い、
「どこかいいところを知りませんか」
その道のプロに聞くのが一番だ。
マスタはかすかに微笑み、内緒話をするように身体を前に乗り出した。
「あのね、アリスのお財布を探ってごらんなさいよ。鍵が入ってるわ。それね、斜め向かいのクリームイエローの外壁のおっきいマンション、あそこの鍵なの」
「へえ、こいつここら辺りに住んでるんですか」
「あらやだ、馬鹿ね、違うわよ。言っておくけど、ここら辺ってそれなりに一等地よ? あたしの店はダーリンが出資してくれたけど、そうじゃなきゃ、一般庶民がどんなに働いたって一生無理。そのマンションだって、億を簡単に越えるのよぉ」
言われて見れば、閑静な住宅街はほとんどが旧家といった趣で、場所柄おそらく百年単位の近所づきあいなのだろうと思わせられる。
よくもまあこんなところにこの店を構えることが出来たものだ。
しかし火村は、そんなマスタの事情などどうでも良い。
アリスが持っている鍵と繋がる人物を思いついた。
「茅ケ崎ですか?」
いつだったか、家が商売をやっていると聞いたことがある。
言葉を濁していたが、実家は洛中だった気がする。
案の定、マスタはにこりとした。
「税金対策らしいわ。誰も住んでないけど、ちぃちゃんが自由に使ってるみたい。部屋番号と暗証番号は、アリスを起こして聞いてちょうだい」
お代は後でアリスから取り立てるから、と言って、彼はもう興味がなさそうにグラスを磨き始める。
火村はありがたく使わせてもらうことに決め、最初の難関だなと思いつつアリスを揺り起こした。
唸るばかりでさっぱり動く気配がない。
外に出て冷たい空気を吸えば少しはいいだろうと、肩を貸して抱えるように連れ出した。
ドアを開けると、アリスはようやく自力で足を動かし始めてくれた。
「おい、アリス。茅ケ崎の部屋はどこだ?」
「んんー。……ん? 火村?」
「やっとお目覚めか」
「あれ、俺、店におったと思うんやけどー」
間延びした声は、完全に酔っ払っている。
よろよろとマンションの入り口にたどり着き、再び自分の身体ごとアリスを揺さぶる。
ぴくん、と顔を上げた彼は、あれーあれーと言いながらも、酔っ払いがなぜか自宅にちゃんと帰り着くような不思議さで、自然に暗証番号を入力している。
ほとんど壁にはりつくようにしてやっているので、手元は見えず、部屋番号も分からなかった。
エレベータで床に座り込みそうになるのをなんとか宥め、
「何号室だよ?」
「あー、んー、702ごうしつでふ。しゅいませんね、どうも」
お手上げだ。
やっぱりやめておけばよかったと後悔しかけたが、気力を奮い立たせる。
7階にあがり、部屋にたどりついて彼をベッドに放り出したときは、もうすっかり一仕事終えた気分だった。
「うう、のみすぎた……」
「少し考えて飲めよ、馬鹿」
「……あれ? 火村? 俺、店におったと思うんやけどー」
話にならない。
火村はアリスとの意思疎通を諦め、実力行使とばかりに彼の上に乗りかかった。
抱きごこちは固いばかりだが、アルコールで熱を持った身体は冷えた肌に気持ちがいい。
よしこれは案外いける、と最後の躊躇いを捨て、火村は目的を達することにした。
「ひむ?」
「お前の望みどおりになったんだぜ、アリス?」
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