お正月気分も抜けた金曜から文献資料の読み込みに。
読み込みに疲れると、好きな本を読むことにしている。
今回は読み直している指導教官の著作。
先生から頂戴する著作は大切にしつつ、何度も読む。
この中の一節「記憶の中の吉川幸次郎先生」は
大学院の講義の合間によく聞いたお話もあり、
この日、ちょうど年始のご挨拶のために先生ともお電話して、
ここに収録しきれない(できない)お話もさらに聞けたという幸せも。
そこで。。。ブログではあまり書くつもりはない内容だけれど。
中国古典の原文は句読点などない。
その原文を読むには、訓読という日本の知識人が培った技術がある。
訓読は知識人の智恵。これを必要ないとする学派もあるが、
私は原文を読むためには有益な手段のひとつとして
徹底してマスターした。これも先生の教えのひとつだ。
原文から訓読にした時点で、その人がどれくらい原文を読みこなしたかも
わかる時が多い。
そして、現代中国語も、古典原文を読む際に役に立つ。
時代ごとに発音が違うこともあるが、それでも句読点のない原文を
言葉のリズムに沿って、あるいは韻を探しながら、
切った部分で何言の詩であるかとか、
文章であれば(よき文章に限る)、自然と切る場所がわかり意味もわかってくる。
研究者の基本。
これも先生からの教えのひとつ。
挙げればキリがないけれど、大学院時代には眠る時間も削って
多くの原文にあたり、読解し、数多の書籍の辿り方を探った。
あの時から現在に至ってもなお大切にしている教え。
お正月早々、とある場所で失礼極まりない大学教員が難癖をつけてきた。
(そもそも私が関東の某大学名を例にした時点でK石先生の話題であるのに、
それにも気づかないとはいったいどんな教員なのだろう。。。)
あれこれ討論する前に、その人間の言葉遣いが酷すぎて
相手にする必要はないと即判断。言っている内容も杜撰だ。
話す相手に対する敬意を欠く者は放っておくことと決めている。
誇りと自信は、
先生、先生方の教えへの敬意。
自分の姿勢は大切にしないといけない。