厚生労働省の家父長主義を解説したパンフレット

濱口桂一郎『新しい労働社会』 岩波新書

岩波書店といえば、この反書評の常連だ。かつては日本の文化を担っていた出版社が、1970年あたりで時計が止まり、社民党御用達の泡沫出版社になってしまったのは、日本の文化のためにも惜しむべきことだ。本書も、規制によって労働者を「保護」する厚生労働省の家父長的な労働行政を厚労省の官僚に解説させたもので、本というより役所のパンフレットに近い。

著者は日本の雇用関係が「メンバーシップ」にもとづいているという大発見を最近したそうだが、そういう議論は経済学では昔からある。日本では少なくとも私が1997年に書いた本の第5章で、Hart-Mooreに代表される所有権(ownership)によるガバナンスに対して、Krepsなどの評判によるガバナンスを会員権(membership)という言葉で紹介し、第6章「メンバーシップの構造」でそのインセンティブ構造を論じている。

著者はこのメンバーシップ(長期的関係)がなぜ成立したかというメカニズムを説明していないが、これはゲーム理論でおなじみのフォーク定理で説明できる。彼が「日本の雇用の特殊性」として論じている問題は、気の毒だが、20年以上前に経済学の「日本型企業システム」についての研究で論じ尽くされたことなのだ。先行研究があるときは、それを引用するのが学問の世界のルールだ。新書はかまわないが、今後、著者が「メンバーシップ」について言及するときは、拙著を必ず参照していただきたい。

また著者は、このメンバーシップが「日本の労使関係の特質」だとして、それを前提に議論を進めているが、いま日本で起こっている問題の本質は、このようなメンバーシップを支えてきた成長によるレントの維持が困難になってきたという変化だ。それがなぜ生じたかは、日本で長期的関係が発達したメカニズムを分析しないと理解できないが、スミスもケインズも読んだことがない著者にそれが理解できないのはやむをえない。

他は欧州の労働市場などの紹介で、特に独創的な見解が書かれているわけでもないが、「ネオリベ」に対する敵意だけはよくわかる。結論は「ステークホルダーの合意が大事だ」ということだそうだが、これは「みんな仲よくしよう」といっているだけで、何も内容がない。企業の所有権をもたない労働組合が強いステークホルダーになって効率的な意思決定を阻害し、欧州企業の競争力を弱めている、というのが最近の経済学の実証研究の結論だ。

著者は厚労省から政策研究大学院大学に派遣されて「なんちゃって教授」をしばらくやっていたが、最近は「労働政策研究・研修機構」という独法に戻ったようだ。そこに勤務していた若林亜紀氏の『公務員の異常な世界』によれば、研究員が足りないと事務員を「昇格」させて埋め、彼女がまじめに研究して本省に都合の悪い結論を出したら、報告書を握りつぶす所だそうだ。無駄な組織には、無駄な人物が棲息しているわけだ。この独法は、行革で何度も廃止の対象にあげられながら労組の反対で生き延びてきたが、「聖域なき無駄の削減」をとなえる民主党政権はどうするのだろうか。

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