UPAとリミテッドアニメーション
明日から多摩美の後期授業開始なんですけど、毎回授業で配布しているレジュメ、いやレジュメというか、もはやテキストですね。それを特別にアップしてみます。後期一回目は、1950年代アニメ界の世界的トレンドだった「リミテッドアニメーション」について。来週は東映動画、その次が虫プロという流れですが、合間にマンガ史の講義もはさみますのでなかなか大変です。
■マンガとアニメに見る時間芸術の歴史
●講師・竹熊健太郎
●第15回「リミテッドアニメーションの誕生」
●1940年代~50年代のアニメ界(アメリカ)
今回は、終戦後から1950年代までの内外アニメーション動向をレクチャーする。この時期で注目すべきは、アメリカにおけるアニメ製作会社UPAの台頭と、日本における東映動画の創立である。
'40年代後半、ディズニー・アニメは技術的・美学的・産業的に完成の域に達していたが、同時にそれは閉塞の始まりであった。あまりにも完成され過ぎたディズニー様式は、製作にかかる莫大な予算の問題もあって他の追随を許さず、短編はともかく長編アニメにおいては、長らくディズニーの独占市場であったといえる。
だが、これは他の分野についても言えることだが、競争のないところに発展もない。 '40年代後半になると、ウォルトのアニメに対する興味は徐々に薄れ、関心は実写映像の分野へ向かっていく。アニメに「写実」を持ち込んだディズニーの、これは自然な帰結であったといえる。長編アニメも変わらず製作してはいたが、現場のベテラン・スタッフにお任せとなっていった。そこには戦前のウォルトにはあった、アニメへの狂おしいまでの情熱はもはや見られない。
しかし他に眼を転じるなら、閉塞をうち破る動きも始まっていた。その筆頭がスティーブン・ボサストゥ率いるクリエイター集団UPA(ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ)である。ボサストゥら創立メンバーの多くはディズニー・スタジオ出身者であったが、彼らはこの新しい組織でディズニーとはまったく異なるスタイルを追求した。その独自の様式(リミテッド・アニメーション)は'51年の『ジェラルド・マクボイン・ボイン』で完成され、'50年代アニメ界を席巻した。
●UPAスタイル(リミテッド・アニメーション)とは何か
←『Gerald McBoing Boing』(C)1950 UPA,Columbia Picturs
UPA作品は「リミテッド」または「Iスタイル」と呼ばれる作画様式が最大の特徴である。現在、リミテッド・アニメとは一般的に「セル枚数を節約する技法」だと思われているが、これは基本的には間違いだ。
リミテッド・アニメ本来の意図は、ディズニー流の写実的・自然主義的描写とは異なり、グラフィカルな美的計算に基づいたシンプルな背景とキャラクターで「象徴主義的な画面、および動き」を表すところにある。ある意味でこれは西洋近代絵画における印象派のそれと、意識の面で近いものだといえる。
たとえば、もしも「写実」を絵画の最大の目的だとした場合、最終的にそれは写真と差がないことになってしまう。実際、ルネサンス以降の西洋絵画は「写実=リアリズム」をひとつの目標として発展したが、それは19世紀に入り、写真術の発明によって大幅な見直しを迫られた。その最初の成果が日本の浮世絵やアフリカの民族絵画に影響された「非写実的」な印象派絵画であるとするなら、アニメにおけるリミテッド・スタイルもまた「写実によらず、作家の“印象”で画面や動きを構成する」という点で、やはり印象派の意識に近い。
作画面では、それまでのアニメーションは円を基本とするキャラクターが中心であったが、UPAのキャラクターは楕円と直線を基本要素にしており、これは「Iスタイル」と呼ばれた。さらには背景も極力シンプルなものとし、それは時にグラフィック・デザイン風、時には抽象絵画風である。
また、それがアニメとして動きをともなう場合、実写をもとにしたライブ・アクションではなく、あくまで作家の脳内で構成された“動きの印象”を再現することになる。この場合、たとえばわずか二枚の動画で「動き」を表現することもあり得るのであって、その限りでは確かに「セルの節約」に違いないが、決して節約それ自体が目的なのではない。
ここで問題となるのは“動きの印象”を再現するために必要な枚数は何枚か、ということだ。しかしこれは演出意図によって決定されるもので、いちがいに何枚とは言えない。表現として必要ならば、1コマ打ち(1秒=24枚)のアニメーションをとることもあり得るし、必要なければ2枚でも充分なわけである。画面のすべてがフルに動き回るのではなく、作品の目的に合致していれば止め絵でもよく、必要なら徹底的に動かす。その判断は演出家が下すのだ。
このことはUPAの代表作のいくつか、たとえば『ジェラルド・マクボイン・ボイン(Gerald McBoing Boing)』(ボブ・キャノン演出、'51)や『ルーティ・トゥート・トゥート(Rooty Toot Toot)』(ジョン・ハブリー演出、'52)『庭の一角獣(A Unicorn in the Garden)』(ビル・ハーツ演出、'53)『告げ口心臓(The Tell-Tale Heart)』(テッド・パームリー演出、'53)などを見ればわかる。ここで実現されたリミテッド表現はいずれも高度な美的計算に貫かれており、シンプルではあっても決して「手抜き」ではない。
←『Gerald McBoing Boing』(C)1953 UPA,Columbia Picturs
たとえば『ジェラルド・マクボイン・ボイン』の『How Now Boing Boing』に登場する話し方教室の教授は、その足が卍状に描かれていて、この「卍」が進行方向に回転しながら「歩き」を表現している。この「歩き」はまったくリアリズムを否定しているものだが、しかし確かに「歩いているように」見える。そしてその歩きは通常の動きではないだけに、印象に残るのだ。
しかしUPAは、一方で『近眼のマグー(Mister Magoo)』という人気シリーズも生み出している。これは近眼の頑固老人を主人公したギャグ・アニメだが、ストーリー主体の作品であり、動きはどの場面も「均等に節約」されていて、後の量産TVアニメに近い平板な印象を受ける。そして皮肉にも、これがUPA最大のヒット作品になったことから、リミテッド=節約=手抜きアニメという一般の誤解を生むことになってしまった(そもそも「リミテッド」という用語からして誤解を生じやすいといえる)。
●テーマとストーリーの革新性
ところでUPAといえば、これまではその視覚スタイルの革新性ばかりが語られてきたきらいがある。しかし彼らはテーマやストーリーの面でも「非ディズニー」的試みを多く行っており、こちらの要素も重要だ。
たとえば『ジェラルド・マクボイン・ボイン』は「効果音でしか話せない」という、一種の言語障害を持つ子供が主人公のアニメである。障害ゆえに友人や親からも見捨てられ、孤独に陥るというシリアスな設定、そこから生じるギャグは残酷ですらある。しかし最終的に少年の特異体質がプラスに転じて、社会に受け入れられるという救いが待っている。きわどいテーマを、後味のよいものに仕上げるキャノンの演出センスには非凡なものがある。
『庭の一角獣』はこういう話だ。倦怠期を迎え、険悪な仲になった中年夫婦がいる。もはや食事も別々にとるありさまで、妻は朝から寝ている。ところがある日、夫が一人で食事をとっていると、庭で花を食べているユニコーンの姿が見える。彼は妻にその事実を報告するが、妻は取り合わないばかりか、医者を呼んで彼を精神病院に入れようと画策する。医者に向かって興奮しながら「庭にユニコーンが…」と話しはじめる妻。ところが夫は「ユニコーンは空想上の動物で、いるわけないじゃないか」と平然と言い放つ。唖然とし、取り乱す妻。医者は、狂っているのは妻のほうだと判断し、彼女に拘束衣をつける。部屋から連れ出される妻を見て、ニヤリとする夫。
それまでアニメではとりあげられなかった種類の、完全に大人向けのストーリーであり、しかも狂っているのは夫か妻か、観客が混乱するよう意図的に演出されている。こうしたある意味「難解な」展開もまた、UPA作品の特徴だといえる。
ひねくれた物語とシンプルでスタイリッシュな画面、両者が支え合ったところにUPA作品は成立しているのだ。これがアニメ界に与えたインパクトは絶大であった。
●UPAが与えた影響(1)テレビアニメの誕生
UPAのスタイルは'50年代アニメにおける最大のトレンドであって、その影響はディズニーや東映動画にも及んだ。ディズニーは'54年に『プカドン交響楽』というIスタイル=リミテッド風作画を採用した作品を発表しているし、東映動画でも『こねこのらくがき』('57)などにその影響を感じることができる。
UPAは'50年代半ばを最盛期として、やがてメイン・スタッフが離脱してゆるやかに活動を終息させていくのだが、彼らが生み出した最大の副産物といえば、やはりTVアニメと個人作家によるアート・アニメの隆盛であろう。
いずれもリミテッドのコストパフォーマンスのよさが、これら二大潮流に道をつけたものといえるが、商業分野とアート分野、双方に影響を与えたという事実は興味深い。
TVアニメの始まりはアメリカで、『トムとジェリー』などの劇場短編を製作していたウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが、'57年にTVアニメ専門の製作会社ハンナ=バーベラプロダクションを設立したのが最初である。日本は少し遅れて'61年に手塚治虫が虫プロダクションを設立、'63年から30分物としては日本初のTVアニメである『鉄腕アトム』を放映開始した。この成功を受けて東映動画もTVに進出し、ここに本格的なTVアニメ時代が到来するのである。東映動画については次週講義予定。
また虫プロダクションが採用した「リミテッド」スタイルの定義は、UPAのそれとは異なった手塚独自の解釈に基づいている可能性がある。このため、日本のテレビアニメは長尺(一回25分程度)で、ストーリーをメインとする独自の発展をとげた。これについては後日、詳しく触れたい。
●UPAが与えた影響(2)アート・アニメーションの興隆
アート作品もUPA以降さかんになった。UPAの代表作家ジョン・ハブリーは戦前からのベテラン・アニメーターであったが、ボブ・キャノンらとともにリミテッド・スタイルを確立して以後、UPAを離脱してアート系作家として長く活躍している。これも、リミテッド・スタイルのコストパフォーマンスの良さが個人作家による参入をうながした格好だ。
日本でもイラストレーターの久里洋二・柳原良平・真鍋博らが'60年に「アニメーション三人の会」を結成し、前衛的なアートイベントを多く開催していた草月ホールで定期的に上映会を行った。ここには和田誠や横尾忠則、なぜか手塚治虫までも参加して非商業的なアート作品をさかんに発表し、日本におけるアート・アニメ運動の先駆となった。非商業的とはいっても、そのスタイルはポップなものとして広告界で歓迎され、彼らを起用したCM製作もさかんに行われた。
特に久里洋二はコマーシャル・フィルムだけではなく、深夜の帯番組『11PM』で毎週一作品(30秒から1分程度)を製作・放映、これを10年以上続けたことでも大衆的に記憶される作家である。すべてが久里独特のブラックなユーモアに貫かれており、個人作家の作品本数としては、これは間違いなく世界記録であろう。
かくしてアート・アニメは世界的なブームになり、当然それは美術シーンとも密接に結びつくことになる。「動くポップ・アート」のような作品がさかんに作られたのである。こうした動きの中からは、イギリスのジョージ・バニングによる『イエロー・サブマリン』('68)のような長編ポップアート・アニメの傑作も生まれた。ビートルズのキャラクターとヒット曲を大胆に使ったこの作品は、ミュージック・クリップの元祖としても高い評価を受けている。
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コメント
えーと、毎回こんな感じで講義をしています。
投稿: たけくま | 2005/09/13 19:59
>なぜか手塚治虫までも参加して
なぜかはないでしょ
投稿: ああ | 2005/09/13 22:24
リミテッドアニメーションに関してこれほど情報を盛り込み、かつ、整理され、未見の人間にもそこはかとなく全体像と意義が理解できるように書かれた文章は初めて読みました。このテキストに実際の関連映像が加われば講義としては完璧と思われます。
竹熊さん、流石です。
あぁさん、初めまして。「なぜか手塚治虫までも参加して〜」はそんなに意外&不適切でしょうか?
手塚治虫さんはその作品を見る限り最後までリミテッドアニメーション本来の魅力を捉えたり発展させることは出来なかった人だと僕は思っています。ですから、戦後日本アニメの商業化を促進させた張本人・立て役者という意味だけでなく、前述の意味も併せ持って考えると、妥当な表現ではないかと僕などは思ったのですが(また特に“不敬”にもあたらないと思いました)?
投稿: ほうとうひろし | 2005/09/13 23:31
「アニメーション三人の会」は久里洋二、柳原良平、真鍋博「のみ」の作品を上映していたわけで、和田誠、横尾忠則、手塚治虫らの作品が上映されるのは真鍋が脱退し「アニメーション三人の会」が消滅?した後のことだからではないでしょうか。
投稿: 川崎 | 2005/09/13 23:46
ティム・バートンの「オイスターボーイの憂鬱」の世界観がこれに似ていたなあ
投稿: 匿名氏 | 2005/09/14 04:21
善いレジュメですね!こんな濃い授業を受講できる学生達がうらやましいです。
なんで今の大学入っちゃったんだろうと、PCの前で小一時間・・・Orz
モグリに行ってもバレませんよねー!?ってキャンパス二つあるし・・・Orz<広いし
投稿: 情苦 | 2005/09/14 06:41
「庭の一角獣」は、
ジェイムス・サーバー(1894-61 米)
「現代イソップ」収録のコント「庭さきの一角獣」が原作と思われます。
たけくまメモ見たあと
福田恒存翻訳全集(一巻)を読んでたら偶然発見。
ブラックというより「苦い」ユーモアが好きな方にお薦めです。
http://membres.lycos.fr/jpcharp/unicorn.htm
http://www.cartoonstock.com/directory/j/james_thurber.asp
AAを思わせるようなシンプル&味のある絵柄と
軽くて意地の悪い文体はいまだに魅力を失っていないと思います。
発見が嬉しかったので補足させてもらいました。
投稿: ヒサミチ | 2005/09/14 09:30
>情苦さん
同じくorz状態でございます。
以前、卒業後に女子美での講義の存在を知ったOGです。
何でもっと遅く生まれなかったのかと公開する一方、良き時代との格差に、もっと早くに生まれたかったと相反する感情に身悶えております。
まあ、これも運命か。
投稿: かなびん | 2005/09/14 19:10
公開→後悔でした。すみません。
投稿: かなびん | 2005/09/14 19:12
「プカドン交響楽」はなぜか家にダビングしたビデオがあって、幼い頃に何度も見ました。
なんかディズニーぽくない絵だなぁ。と思ってたらリミテッド・アニメの影響を受けてたんですね。
勉強になりました♪
投稿: さな | 2005/09/14 21:41
>かなびんさん
そうですねww
しかし、竹熊先生の著書にも
『評論や研究というものは、往々にしてその対象が「停滞」した時に進歩するものだ』
と、あるように、実際は我々の世代が幸せなほうだったりして・・・(汗)
竹熊先生のこれからの活躍を見守るしかないですww
投稿: 情苦 | 2005/09/14 23:58
『プカドン~』は、DVD『ファンタジア2000』
の特典映像で見られます。
(ブエナビスタ・ホームエンターテイメント)
マグーは面白かった記憶があります。
ギャグ…忘れていますが。
★話しはガラリ変わりますが
ボノボを登場人物にしたミステリーが
あるようですね。
『さよならバースディ』(荻原浩・集英社)。
ボノボが名探偵?それとも犯人?
ちょい、読んでみたくなった。
佐野洋がほめてるし。
投稿: 長谷邦夫 | 2005/09/15 09:19
大変興味ぶかい内容です。
ところでアート・アニメで
ノーマン・マクラレンはUPAと関係ないですかね。
投稿: rosta | 2005/09/15 17:30
↑マクラレンはキャリアがもっと古いですよね。UPAに影響を与えた可能性はありますが、直接は関係ないと思います。
投稿: たけくま | 2005/09/15 18:37
内容が外れたカキコミで申し訳ない。長文です。
最近、CGによるSFXの進歩とCGアニメの進歩により、アニメと実写映画の境界が、かなり怪しくなってきていると感じています。
現在TV-CM中の「ファンタスティック4」という実写(?)映画が「ミスター・インクレディブル」というCGアニメが先に公開された事により、大幅にSFXやシナリオを派手にしたという報道がありました。CGによる映像効果というのは、実写であれアニメであれ同質ですから、映像そのものには本質的な違いが現れ難いのではないでしょうか。
また実写映画でのアクション・シーンも、CGとワイヤー・アクションだらけになり、かえって「迫力あるアクション」を感じなくなっていませんでしょうか。
北野武の「座等市」では、ペキンパー並のスロー・モーションに、CG効果でクロサワ並の血飛沫や眼光などを加えて、アクション・シーンに迫力を与えています。
「HERO」では、役者本来の迫力ある動きに、ワイヤー・アクションの見せ方も意表をつき、見事な色彩センスを巧みにミックスすることで成功していると思います。
しかし無闇にワイヤー・アクションを多用しても、そもそもが低予算ゆえにアクションを補強する役割だっただけに、かえって画面が「チープ」になりはしないでしょうか。日本映画「SHINOBI」のTV-CMにその様な危惧を感じています。
以上の影響は、最近のマンガ作品のアクション・シーン&コマの大きさに影響を与えていないでしょうか。
実例として、木城ゆきと作「銃夢」を挙げます。
約10年前のビジネス・ジャンプ誌連載中は手画き原稿であり、コマ割りは細かく、アクション・シーンはモンタージュ技法を思わせるコマの繋がりで、ダイナミズムによって表現されています。しかし、ウルトラ・ジャンプ誌で再開された「銃夢 LastOrder」では、PC原稿となり、コマは大きくなって、モンタージュ技法的なコマ展開は見られなくなり、大きな一つのコマ内でPCソフトのエフェクトによるアクション・シーンが見られるようになっています。
「大きな一つのコマ内で表現される見事なアクション画」は、マンガにおいては、本来は大友克弘が手描きで始めたものと思いますが、近年ではPCエフェクトによって表現されつつあります。
実写の世界では、情緒を表現するために、美しい自然の光景と淡々とした人間ドラマを組み合わせて視聴者に「ジーンとくる」エモーションを与える「フォトジェニック理論」というものがあると聞きます。実例は「北の国から」や「高原へいらっしゃい(リメイク版)」などのTVドラマが挙げられます。
アニメにおいても、新海誠のCGによる背景の美しさ・奥行き感・透明感は「フォトジェニック理論」を想起させます。彼の演出技法も、ジブリ作品のような直線的にダイナミックな動きによる演出ではなく、キャラクターはCG世界の中を曲線的に動き回り、美しい背景と情緒的な音楽と相俟って、視聴者を誘い込む「サイレーン」の様な感覚を覚えます。
えー、長々と失礼しました。
投稿: トロ~ロ | 2005/09/17 04:26
思い起こせば「ほしのこえ」はメカが非常に派手に動き回るのに比べて、人物は驚くほど動いていませんでしたね。
メカ・シーンは登場人物達の置かれた現実世界であるのに対して、人物が登場するシーンは、彼等の「心象世界」である、という分け方が出来るかもしれません。
これはこれで、リミテッド・アニメーションとフル・アニメーションを上手く効果的に併用した成功例と言えるでしょうか。
個人作業でなければ、こんな事は出来なかったかもしれませんね。
投稿: トロ~ロ | 2005/09/17 16:44