2008年8月1日(金)

やっと自身専用の「ラージボール王国」が入荷しました!

先日、勝さんが教えてくれて、我が芙蓉シニアクラブとしても、永久保存版として購入した、ラージボール王国(月間卓球王国8月号別冊)を自分自身も永久保存しようと、南中山の”未来屋書店”に注文していたところ数々の紆余曲折を経てやっと手元に来ましたので、今日は早速ラージボールが産まれた由来をひもとこうと思いました。尚、買いで購入したものは何らかの形で会員さんが見られる様に「回覧」している筈なのでまだ見られていない方はお待ち下さい。

ラージボールというのは、日本で生まれた卓球の亜種です。産まれてから20年経つと云います。

それ以前は、いわゆる卓球(硬式卓球)と軟式卓球という物がありました。この頃の卓球はボールが白色で大きさは38ミリ(現在は40ミリ)でした。卓球台はダークカラー(暗緑色)と決められており、ボールが小さく軽いため、競技場は「締め切って」光で反射しない様に「暗幕」で太陽光を遮断し、卓球ボールが見やすい様にユニホームは白や明るい色は禁止でした。如何にも暗い部屋の中に閉じこもりダサイユニホームを着てチョコチョコとプレーする姿から、86年4月頃から人気番組「笑っていいとも」の中で司会のタモリ(森田一義)「卓球はネクラでダサイ」と云うジョークを何回か繰り返したそうです。
これを「卓球ネクラ事件」と云うのだそうですが、そもそもネクラな?卓球人はそんなの関係ネー!とばかりに当時の卓球関係者は余り危機感を感じてはいなかったと云います。

確かに、卓球はその昔(わたくしが小学生だった頃)運動部に所属する生徒の半数以上を占めていた程、卓球人口は多かったのですが、その後、硬式テニス・野球・サッカー・バスケットなどの人気に押されたのか急速に卓球人口が減少してきたのを感じていました。私自身も最初の運動クラブは「卓球部」でしたが、ボールを打たして貰えないまま、ルンペンクラブになり、高校生になって「剣道」を始めるまで、スポーツそのものをしない子供でした。

さて、卓球の衰退に危機感を感じたピンポン外交でつとに有名な当時卓球協会の専務理事をしていた荻村伊智朗は当時専修大学卓球部総監督の波岡實(当時広告代理店コモンズ社長)を広報委員長に抜擢し卓球のイメージ調査を実施し改革して出来上がったのがラージボール卓球(新卓球)なのだそうです。

ネクラでダサイイメージを払拭するため、ボールの色を変える事によりユニホーム・卓球台・卓球フェンス・タオルなどの道具類の色のイメージをガラッと変えました。部屋を暗幕で閉め切って暗くし電気を点灯してやるのは卓球の特性から、仕方がありませんが、これで大分明るいイメージの卓球になりました。

この項続く...

作成者やなけんさん

                   ケンケン旦那のジオログ

戻る

1