再び緊迫した政治情勢
1989年のフィリピン
1986年2月に成立したアキノ政権は4年目に入り,与野党の内部態勢固めが進行した。一方旧体制派は孤立し危機感を強めた。政権が新憲法に規定され,かつ残された課題でもある軍改革,自治基本法の制定など基本改革に挑むと,これらに反対する勢力は抵抗を強めた。こうした政治的緊張の高まりに乘じて発生したのが12月の国軍将兵反乱事件であった。政権発足以来の最大の危機に直面した政府は非常事態宣言を布告し,政権の支持基盤を固めるべく民衆の不満解消策に着手した。しかしこれも短期的な対症療法で,基本的な解決策ではない。政治情勢は再び緊迫の度を深めた。経済面では新債務戦略であるブレイディ構想が適用され,債務削減,援助,資金供与の拡大など救済パッケージが策定された。しかし民間投資誘致のため,あらためて政治安定化が望まれている。
政治・外交
与野党の態勢固めが進行
3月28日にバランガイ選挙がさしたる混乱もなく与党リードのうちに終わった。政権発足以来の一連の全国規模の選挙,国民投票が終了したことで,各党は1992年大統領選挙を視野に入れて態勢固めに入った。与党各党は大統領とは一定距離を保ちながら互いに対決姿勢を鮮明にし,また野党は保守派,マルコス体制を支持した旧体制派の総結集を画策した。一方,現行憲法体制を否定する旧体制派は孤立し危機感を強めた。
下院最大の与党で主流派の「民主的フィリピン人のたたかい」(LDP)は9月16日,ミトラ下院議長に代わりゴンサレス上院議員が党首に就任した。ミトラの党首辞任は,下院議員の「警護用」の銃器の密輸入の発覚(1月),および同事件に端を発した国防当局による下院非難にみられる,下院と国軍との対立が原因である。さらにその背後には,議会で進行していたフィリピン国家警察設置論議(後述)に関して国軍の議会に対する不満があった。つまりミトラは,軍と議会の厳しい対峙のなかで事態収拾を図るため辞任したのである。LDPは政府と一定の距離を置くことになった。
こうした暗闘とは別に,LDPは上院議員のゴンサレスを名目的党首とすることで,上院での同党強化をはかった。これは上院最大の与党で,かつ反主流派のサロンガ上院議長率いるリベラル党(LP)を牽制するものでもある。一方LDPは,同党結成に敵意をもちLDPを名乗ることに異を唱えていた,与党のフィリピン民主党・国民の力(PDP・ラバン)と形式的にも分離が認められ両者の訣別は明確になった。
これより先に,PDP・ラバンも3月19日の党大会でピメンテル上院議員を委員長に再選し,経済政策通のパテルノ上院議員を副委員長に選出した。
野党は,ナショナリスタ党(NP)が5月21日,17年ぶりの党大会で党首にラウレル副大統領,書記長にエンリレ上院議員,執行副党首にオプレ元労相を選出した。NP再結集の旗印のもとに野党の民主国民連合(UNIDO)などが参集したわけである。しかし,マルコスが創始した新社会運動(KBL)では,党員の多くがNPに参加したものの実力者のイニゲス,エドアルド(ダンディン)・コファンコ2世は参加を留保した。また「民主主義のための大連合」(GAD)はカエタノ委員長がNP不参加を表明した。こうして旧体制派および保守勢力の完全な総結集には至らなかった。手詰まり状態からの脱却をはかるべく,NPは党大会で採択した6項目の基本党綱領のなかで,民族主義感情への訴えを前面に打ち出した。
マルコス死去とダンディン帰国
政界見取り図の書き換えが進行するなか,9月28日にマルコス前大統領がハワイで死去した。彼の政治的影響力はすでに失われていた。しかしマルコスの死は旧体制派を一層孤立させることになった。
マルコスの病状は年初来悪化の一途をたどり,2月には気管の切開手術がなされ,旧体制派,保守派のハワイ訪問が相次いだ。比米両国司法当局がマルコス帰国を認めないことは明確であった。しかし現実にはマルコス一族の不正隠匿資産の早期回収の重要性を考慮し,議会筋,とくに上院はマルコスの国民への謝罪,隠匿資産の返却を帰国の条件にしてきた(「重要日誌」1月2日参照)。政府も独自に大統領行政規律委員会のカパラス委員長をハワイに派遣し,イメルダ夫人に帰国の条件を打診した(同7月31日参照)。しかし政府の資金回収に関しては「ビッグ・バード事件」の発覚(同7月17日参照)にみる不明朗さ,スイスの口座にある預金が予期したより少ないなど課題を残した。
マルコスの死後,遺体の帰国を要求するデモ行進,集会が開かれたが,政府は政治的混乱を恐れ遺体のフィリピン移送を許可しなかった。
11月下旬にはマルコス派の経済人でクロニー(取り巻き)のダンディン・コファンコ2世が帰国した。アキノ大統領のいとこであり,かつ旧体制派実力者の帰国はさまざまな政治的憶測を生んだ。ダンディンの帰国は政府が事前に察知しておらず,また大統領の意向は帰国に反対であったため,外相が引責辞任を申し出るなど政権内部が混乱した。ダンディンの帰国は政権内部の旧体制派を払拭できないことを窺わせると同時に,司法当局が身柄拘束など法的手段を行使できなかったことで政権の弱腰を露呈させた。
自治基本法成立と住民投票
地方分権および少数民族の地位向上はアキノ政権の民主化政策の柱の一つである。しかし以下のように政府が進めた地方分権政策に対する住民の支持は薄く,基本的解決は先送りされた。
地方分権では,すでに1988年にはミンダナオ・イスラム教徒地域諮問委員会,コルディリェーラ地域諮問委員会が設置されている。憲法では両自治地域の行政,立法組織の基本的骨格を定める自治基本法の制定が規定されている(第10条18項)。憲法による期限より遅れたが,8月1日にミンダナオ・イラスム教徒地域自治基本法,10月23日にコルディリェーラ地域自治基本法が成立した。
政府のイスラム教徒,少数民族に対する懐柔策が進展するにつれて,政権に対するそれら勢力の反発も一層激しくなった。たとえば1月に,イスラム教徒地域のサンボアンガで,西部ミンダナオ地方国家警察軍・統合国家警察(PC・INP)司令官等がイスラム教徒警察官の人質にされた。政府軍は3000人の兵士を投入したがバターリャ同司令官等が焼死し,犯人は逃亡するという失態を演じた。同事件はミンダナオ地方の根強い政府への反感と,国軍の治安維持能力の限界を示した。
自治基本法の成立を受け,11月19日にミンダナオ地域13州9市で住民投票が実施されたが,同法を承認したのは4州のみで,キリスト教徒,イスラム教徒双方から同法不支持の声が高まった。特にイスラム教徒の過激派であるモロ民族解放戦線(MNLF)は,同法は1976年トリポリ協定の規定する完全な自治権付与ではないとし,3月の第18回イスラム諸国会議(OIC)外相会議にむけてOIC加盟をふたたび申請した。しかし88年の第17回会議の時と同様,不成功に終わった。また8月にはOIC自体が自治基本法支持となったことで,MNLFは和平交渉を並行させることに方針を転換した。しかし政府はMNLFとの和平交渉を受け入れず,事態は膠着状態になった。
一方コルディリェーラ地域5州1市での住民投票は1990年1月30日に実施され,承認したのは1州のみであった。コルディリェーラ地域に関しては,同地域で活動を展開してきた反政府勢力,バルウェグ神父率いるコルディリェーラ人民解放軍(CPLA)の取扱いが問題となった。CPLAは国軍に代わり同地域の治安維持担当を主張したが,国軍側はCPLAを市民地方防衛隊(CAFGU)として扱うとし,さらに同地域にPC・INP地方司令部を設置し,治安維持は政府側に一本化した。
後退する共産勢力
フィリピンの共産勢力は共産党(CPP),その武装勢力新人民軍(NPA),統一戦線組織である民族民主戦線(NDF)から構成される。このうちNPAは3月29日に創立20周年を迎え,武力闘争の強化を呼びかける声明を発表した。ところが実際には共産側は新たな攻勢を強めるには至っていない。むしろ逆に軍発表では,CPP・NPA・NDFの正規員は88年12月の2万3060人から89年12月には1万9780人へと14.2%減少し,また共産勢力に影響,浸透されているバランガイ数は7852から6933へと11.7%減少した。
こうした劣勢は,中央委員4人,専門部書記局員7人,地方幹部22人,州委員会委員18人が逮捕されたことにも反映されている。このなかにはオカンポ夫妻,グアンソン,ティアムソン夫人等の最高幹部も含まれている。
共産側の攻勢が鈍り,勢力を衰退させている理由として次の4点が挙げられる。
第1に,国軍の共産勢力対策が功を奏してきた。国軍の給与改定,規律の強化で前線での戦いを有利に展開できた。また市民軍地方部隊の編成が本格的に進行し,すでに全国で6万人の隊員がいる。これはゲリラ攻勢の頻発する地方ではNPAの攻勢の歯止めになる。さらに国軍の内部潜入情報員(DPA)部隊がゲリラ対策に効果的であった。
第2に,共産側に新しい世代の指導者が育っていない。シソンの第1世代,引き続くサラスら第2世代に比較して,第3世代のもとで党の官僚化が進行し教条主義が支配しているとされ,それ以上にCPPの指導性の弱体が指摘されている(The Straits Times紙,8月29日)。「6・4天安門事件」後に,同じNDF傘下にありながら,「五月一日運動」(KMU)が中国政府の立場支持を表明し,フィリピン学生連盟(LFS)が中国政府を強く非難したのは,NDFの指導性欠如の好例である。
第3に,共産勢力は住民の十分な支持を得ていない。国軍の諜報活動に対する疑心暗鬼から内部密告者を大量処分したこと(5月発覚),またミンダナオの新教徒に対する集団殺戮事件(6月)は共産側の人権抑圧を内外に示す結果となった。
第4に,国際情勢はフィリピンの共産主義運動にとって有利には展開していない。国際間の緊張緩和で,CPPは外国の支援もなく,闘争を長期に持続する難しさに直面している。
軍改革に抵抗強まる
軍改革の実行はマルコス前政権から引継いだ政治的な課題であり,かつ「二月政変」の一方の担い手である国軍が相手であるだけに最も難しい課題である。案の定,議会による軍改革強行の動きに軍が強く反発,事態は緊迫した状況にいたった。
軍改革は憲法にも逐一規定されており,将軍の定年延長禁止,私兵・準軍組織の解体などの実施は一応の進捗を見せた。しかしながら警察力を軍から切離し,一元化して文民的性格をもたせること(憲法第16条6項)は,最後に残された軍改革の重要課題であった。
警察力の一元化問題は,具体的には警察軍・統合国家警察を解体し,フィリピン国家警察(PNP)を設置する問題である。ところが,国軍の中核はこの警察軍であり,かつ現在の国軍指揮系統の中枢にいるラモス国防長官,デビーリャ参謀総長,モンターニョ警察軍司令官はいずれも警察軍出身である。ここに問題の根深さがある(「参考資料」の国軍組織図参照)。PNPの設置は議会にも利害関係がある。軍部の力を削ぐことはもちろん,特に地方有力者から構成される下院では,国家警察のもとで地方自治体による警察力支配を実現することにより,地方有力者の権力基盤を強化することをねらっているわけで,法制化を強力に進めた。
下院は6月7日,この警察の機構改革をフィリピン国家警察法案として成立させた。下院法案の骨子は,次のとおりである。(1)現行の国家警察委員会(NAPOLCOM)を新たに大統領直属の国家警察委員会に再編し,同委員会がPNPを統括,監督する,(2)PNPは警察,消防,刑務の3業務を担当し,隊員は国家統合警察,警察軍,麻薬取締司令部,犯罪捜査局の有資格者からなる,(3)市・町長がPNP業務を監督する。
一方,上院の警察機構改革案は10月20日に内務省法案として可決された。上院法案は,軍の力を削ぐという点では下院のそれよりも徹底した改革を盛り込んだ。すなわち,(1)現行の自治省,NAPOLCOM,警察軍,統合国家警察は廃止,(2)新設の内務省の下に自治局,国家警察委員会,PNP,沿岸警備隊を置く,(3)警察軍,統合国家警察の将校,下士官は同法案発効12カ月以内に2階級特進で退任させる,また警察軍将軍は国軍の他の部隊に配属する。
以上のようにフィリピン国家警察設置問題は,特に上院の内務省法案では警察軍の解体につながる結果,ラモス,デビーリャ,モンターニョの国軍中枢ラインの再編,警察軍将校400人の失業という深刻な問題を抱えることになった。このため,国軍内部からの強い非難,抗議が噴出した。事実,モンターニョ警察軍司令官は,上院法案に反対する警察軍将兵400人がホナサン元中佐のクーデター計画に引き込まれる事態になりかねない,と警告した(10月)。
国軍将兵反乱事件
12月1日に海兵隊,陸軍スカウト・レンジャー部隊の一部によるクーデター未遂事件が発生した。12月7日には主力反乱部隊が投降,9日には地方反乱部隊も投降し,事件は終息したが,死者は98人,負傷者は516人に達した。事件の最中,6日に大統領は全土に非常事態宣言を布告した(拙稿「12・1国軍将兵反乱事件の意味」〔『アジアトレンド』49号 1990年〕参照)。
今回の反乱事件はアキノ政権発足以来6度目の反乱事件である。また今回は,前回87年8月の「国軍改革運動」(RAM)将兵反乱事件と同様,ホナサン元中佐が主導するRAMが中心となり,しかもこれに国軍の実戦部隊,マルコス派の将兵も加わった合同決起となった。そしてこれを支持するのが危機感を強めてきた旧体制派であった。
反乱事件には以下の背景があり,こうした政治的緊張の高まりをRAMは政権奪取の好機ととらえた。第1に,フィリピン国家警察設置問題にみられるように,軍改革に対して警察軍を中心とする国軍の不満が頂点に達していた。決起側は国軍主流の警察軍の支持が得られると解したものと考えられる。第2に,87年後半以来,インフレ進行で民衆の不満が増大していた。加えて首都圏の輸送,電力危機で民衆の政府不信が高まった。8月に実施されたアテネオ大学の世論調査ではアキノ大統領に対する支持率は58%と過去4年間で最低を記録した。第3に,前述のミンダナオ自治基本法の住民投票で住民の十分な支持が得られず政権の威信が失墜していた。第4に,ダンディンの帰国問題がある。政権が彼の帰国で動揺したことは決起派に隙を与えた。
以上のように,国軍内部の問題だけでなく政治の停滞,特に輸送,電力など基本的ニーズ対策の不備が反乱事件の契機となったと考えられる。
今回反乱事件の主目的は「二月政変」に戻ること,すなわち政権の奪取である。これを背後から支持するのがエンリレ上院議員やマルコス時代にそのビジネスパートナーであったダンディンである。つまり反政府右翼グループ系列としての「政治家エンリレ―経済人ダンディン―軍人RAM」の構図が描かれる。そしてこの系列の中核RAMが,武力を背景に旧体制派としての要求を政府に突きつけてきたのである。たとえば,逃亡中のRAM指導者ホナサンは3月6日アキノ大統領宛に和平9項目を提示していたが,これは従来旧体制派の要求してきた項目でもあった。
反乱事件への対処
反乱事件は大統領の政権統率力の弱さをあらためて露呈させただけでなく,米軍戦闘機の出動がなければ政権が崩壊する瀬戸際まで追い詰められたことを意味した。発足以来最大の危機に直面したアキノ政権は,事態乗り切りのため以下のような措置を相次いでとった。
第1に,政権は前述のとおり非常事態宣言を布告し,事態収拾に断固たる姿勢をみせた。12月20日には非常大権法が成立した。これにより1990年6月7日まで大統領に買い占め抑制など民生安定化のための大権が付与された(詳細は「経済」の項)。
第2に,国軍に対しては,反乱参加者に対する処罰に着手し,国防省発表では,身柄拘束者は将校157人,下士官,兵士1749人の計1906人(1990年1月17日現在)となり,反乱参加軍人を軍事裁判に付すと決定した。また反乱に参加したスカウト・レンジャー部隊の解体を発表した。
第3に,事件の背後にあるとみられる旧体制派政治家,旧軍人に対する告発である。すでに事件最中の7日にダビデ選挙委員長を委員長とする反乱事件調査委員会(「ダビデ委員会」)を発足させた。またアキノの信頼が厚い新任のリム国家捜査局(NBI)長官は,12月28日,ついにエンリレ議員ら6人を反乱罪容疑で告発した。
第4に,以上の政策を強力に実行するため,12月31日,政権発足以来の大がかりな内閣改造に踏み切り,新任閣僚7人,横すべり閣僚2人,新たに閣僚級ポストとして大統領行政調整官3人などの任命を発表した。
これらは短期的な対症療法が中心であり,基本的な課題は残されている。反乱に参加した軍人の処罰を果たして徹底して実行できるのか。裁判は司法長官の意向に反して軍事法廷に付されることになり,仲間内の裁判に終わる可能性も高い。エンリレの告発も裁判に持ち込むだけの強い政治力の発揮は難しく,リムNBI長官の独り相撲に終わる可能性が強い。また非常大権を行使した改革についても,同法は約6カ月の時限立法であり,掲げている改革自体も農地改革などの基本的な課題を対象とせず,短期的な処方箋にすぎない。
反乱事件では政権の危機管理能力の弱さがあらためて表面化した。1992年の大統領選を前にした政治の流動化が進行するなかで,フィリピンの政治情勢は再び緊迫の度合いを深めた。
基地問題と外交多角化
1989年の対米外交は在比米軍基地の存続問題を中心に展開された。またソ連,台湾などとは経済外交が進展し,外交多角化がはかられた。
比米軍事基地協定の1991年9月失効を前に,比側はより具体的な準備作業に入った。議会と政府で共同して基地の存廃問題を総合的に検討する立法・行政合同基地問題委員会が8月に発足した。また政府部内でもラモス国防長官発言にみられるような,基地の段階的撤去論が浮上した。
11月には基地交渉の2特別チームが発足,予備交渉団団長にはマングラプス外務長官が,大統領基地問題特別委員長にはマカライグ官房長官がそれぞれ就任した。ただ12月から開始の予定であった準備交渉は反乱事件で先送りされた。
アメリカ側は,議会からはシュレーダー下院軍事施設小委委員長,ファセル下院外交委員長,ソラーズ下院アジア太平洋問題小委委員長など,が相次ぎ訪比した(8月)。政府からはクエール副大統領が来訪し,米軍基地の安全保障面,経済面での効果を強調した(9月)。
フィリピン側が,段階的撤去であるにせよ当面は基地存続を念頭に置くのは,基地の経済効果を重視するためである。この場合の経済効果は,基地問題と並行して進められてきた対比多国間援助構想(MAI,別称「フィリピン援助計画」〔PAP〕)による対比援助の増額である。竹下首相の訪比(5月)を受けて,後述のように7月には東京で第1回のMAI援助国会議が開催された。
アキノ大統領の西側陣営各国訪問は,以上の背景のもとに実施された。「大喪の礼」参列時の竹下首相との会談における援助要請(2月),西欧3国訪問時のパリ・サミット参加首脳からの援助増額取りつけ(7月),カナダ,アメリカ訪問時の両国および世銀等国際金融機関からの援助,救済融資の取り付け(11月)などの成果があった。
マニラで開催されたASEAN列国議会組織(AIPO)第10回総会(8月)でも,アキノ大統領はその基調演説でASEAN首脳が米軍基地問題を討議するよう要請した。
西側陣営との外交が基地問題,援助問題を軸に進められたのに対して,ソ連との関係は経済を軸に展開された。これはアジア地域への経済進出の足掛かりを求めたソ連の平和攻勢に,フィリピンが呼応したものである。ソ連からは最高会議代表団(1月),通商使節団(7月)が来訪した。比側も商工長官を代表とする使節団を派遣し,比ソ貿易拡大議定書の調印,ソ連漁船の比国内での修理許可をはかり(3月),またマングラプス外相も訪ソし,経済・技術協力協定等に調印した(7月)。
中国の「6・4天安門事件」に対して,アキノ政権は強い遺憾の意を表明した。中国情勢の動揺とその反響である香港1997年問題のクローズ・アップを商機と見たのが比経済界であった。中国,香港に向かっていた海外資本がASEAN諸国に流入するという読みである。とくに台湾,香港からの生産拠点移動型の直接投資が期待された。
近年対比投資を拡大させつつある台湾からは大型のASEAN投資使節団が来訪した(9月)。同使節団は台湾の投資保護を目的とした比台互恵関係法の早期立法化等10項目の提言をし,投資環境整備を要請した。このほかに,アジア各国,大洋州の首脳の来訪が相次いだ。エバンズ豪外務・貿易相(1月),チャーチャーイ・タイ首相(1月),エルシャド・バングラデシュ大統領(10月)の来訪では,両国の貿易拡大などが討議された。またアキノ自身もブルネイを訪れて同地でASEAN各国首脳と意見交換をする(8月)など,アジア外交を積極的に進め外交の多角化を図った。
経済
民間投資が成長を主導
1989年のフィリピン経済は,実質GNP成長率が5.6%(政府発表暫定値)となった。これで87年以来3年続きの持続的成長を維持した。ただし,88年の実績6.6%を下回り,また経済政策覚書(MEP)(89~92年)目標の6.5%にも達しなかった。MEPに関する趣意書は政府が3月にIMFに提出していたものである。MEPは「中期開発計画」の政策課題に沿ってマクロ経済運営の指針および目標を設定していた。
経済が3年続きの持続的成長を遂げた理由は活発な民間投資と根強い消費需要である。国内総資本形成は前年比15.6%増(1988年17.5%増)と依然拡大基調にある。なかでも民間建設が14.0%増(同11.8%増),耐久財が27.7%増(同24.2%増)と活況で,首都圏での建設ブーム,輸送機器などの設備投資の活発化を反映している。またGDP構成比73.3%を占める個人消費が5.6%増(同6,0%増),同9.4%を占める政府消費は7.7%増(同7.2%増)となった。これらは最低賃金の改定,政府公務員等の賃金改定などによる消費の拡大による。
産業別では,鉱工業部門が7.1%増(同8.5%増)と堅調であった。特に建設業が12.0%増(同9.5%増)と高い成長を示し,民間投資の活況を反映している。GDP構成比25.1%を占める製造業は6.9%増(同8.9%増)と若干減速したが堅調である。GDP構成比26.9%の農林漁業部門は4.0%増(同3.5%増)と前年実績を上回った。これはコメの価格上昇,国際糖価の高値による。
輸出は78億2100万ドル(前年比10.6%増)と年初目標80億ドルを若干下回った。一方輸入は104億1900万ドル(同27.7%増)と急増した。この結果,貿易赤字は前年の10億8500万ドルから25億9800万ドルに拡大し,1983年以来はじめて20億ドル台を記録した。輸出では製造品が55億9200万ドル(同19.7%増)と好調で,特に電子・電気機器の17億5100万ドル(同18.6%増),縫製品の15億7500万ドル(同19.6%増)と,この2品目だけで全輸出額の42.5%に達した。輸入は資本財が24億2400万ドル(同48.1%増),原材料・中間財が53億8800万ドル(同22.0%増)と急増した。
貿易収支の赤字拡大のため,経常収支の赤字は,前年の3億9000万ドルから14億6500万ドルに拡大した。一方資本収支は,長期資本収支が好転したことなどから,総合収支は4億5100万ドルの黒字となった。しかし,長期資本収支好転の要因は後述のように外国借款の増加,債務返済繰延べによるもので,構造的に国際収支が改善したわけではない。また外貨準備高は1989年末で23億2400万ドルと前年末水準20億5900万ドルより若干増加した。
民間投資は好調で,投資委による1989年の投資承認額(資本金ベース)は396億8400万ペソ(前年比111.0%増)で,うち国内企業は222億400万ペソ(同151.5%増),外国企業は174億8000万ペソ(同75.1%増)と前年同様に著しい伸びを示した。外国企業の投資は,日本からの投資が34億2800万ペソと80年以来,10年ぶりに第1位となり,従来第1位のアメリカが28億5200万ペソと第4位になった。また台湾からの投資は前年同様に好調で,石油化学プロジェクトへの追加投資等で32億3300万ペソ(同39.5%増)と第2位である。香港は不動産投資などで28億8700万ペソ(同5.1倍)と第3位に浮上した。
経済は3年続きの回復基調を辿ったが,インフレの昂進と金利高が進行した。1987年後半から引き続いたインフレは終息せず,89年通年の消費者物価上昇率は10.6%(88年は8.8%)と二桁の上昇率になった。この原因は,89年7月から実施された民間労働者の新最低賃金法の制定,引き続く公務員給与標準化法の制定による賃上げ,さらに石油精製品,電気料金の引き上げ,住居費の高騰,コメなど食料品の値上りである。
こうしたインフレ昂進のなかで金利は急激に上昇した。政府がインフレ対策,および9月末のIMFの目標達成のため金融引き締め策をとったこと,さらに民間部門の強い資金需要が原因である(「重要日誌」10月2日参照)。政府はインフレ対策と高金利とのジレンマに直面した。
長期的視野に立った経済の安定成長には経済構造の調整が不可欠である。そのための課題は,引き続き対外債務負担軽減,農地改革,民営化の3点であるが,以下では前2者について述べる(民営化に関しては『アジア動向年報』1989年版参照)。
対外債務負担の軽減諸措置
対外債務残高は1988年末に279億1500万ドルで,89年の元利返済額は40億9700万ドル,債務返済比率は33.8%(予定)に達しており,依然債務負担は重い。このため89年には以下のようなさまざまな債務軽減策がとられ,89年末対外債務残高は276億1600万ドルとわずかながら減少した。
第1は新債務戦略のブレイディ構想による債務削減である。同構想はメキシコに次いでフィリピンが第2の適用国となった。新債務戦略は,債務国がIMF,世銀との中期の経済調整プログラム合意を前提に,民間銀行の債務の元本削減,利払い軽減などをはかる戦略である。先に比政府が提出した経済政策覚書に関する趣意書を5月にIMFが承認し,これをうけ8月に比政府と民間債権銀行団諮問委員会(BAC)が債務削減で基本合意に達した。その内容は最終的には債務買戻し(デット・バイバック)として13億3700万ドルの債務を50%で割り引くこと,および新規融資7億ドル,から構成され,債務買戻しに関しては1990年1月に,新規融資は同2月に比政府とBACとの間で調印された。
第2はパリ・クラブ(債権国会議)による債務繰延べである(第3次リスケ)。5月に1989年6月から92年6月の間に満期を迎える中長期公的債務22億ドルに関して,元本,利息の100%を10年間繰延べる(据置期間6年)などで合意に達した。
第3は対比多国間援助構想(MAI,別称「フィリピン援助計画」〔PAP〕)による新規融資である。7月初め東京で第1回のMAI援助国会議が開催され,MAIがブレイディ構想の一環であることを確認した上で,4年計画,89年の成約は35億ドルとすることが決まった。
第4は「債務の株式化」のプログラムの実行である。1986年に実行された同プログラム(中銀回状1111号)は,89年末までに401件,14億8900万ドルが承認された。
このように債務削減,債務返済繰延べ,新規融資,援助の増額,と救済パッケージが相次いで策定されたが,資金の公正かつ効果的な活用,援助吸収能力の向上が望まれている。10月にマニラで開催されたMAIの第1回援助国協議会では援助吸収能力の向上が論議された。
農地改革1年目の実績
1988年6月に包括農地改革計画(CARP)を条文化した包括農地改革法(法律(RA)6657号)が成立してから1年が経った。CARPは10カ年計画で,3段階に分けて実施され(「参考資料」[5]3表参照),全対象面積1030万ha,受益農民数は390万人に達する(詳細は,拙稿「アキノ政権の農地改革」〔『アジアトレンド』48号 1989年〕参照)。
RA6657号が成立した初年である1988年のCARPの実績をみると,優先順位の高い第1段階では農地面積では年間目標に対し104.9%,受益農民数では121.9%の達成率である(「参考資料」[5]3表参照)。このうち前政権下におけるコメとトウモロコシの農地を対象とした大統領令(PD)27号による農地移転の未実行分は,農地面積では103.0%,受益農民数では107.9%の達成率である。これに対し第2段階では,農地面積では37.2%,受益農民数では8.7%と達成率は低い。とくに優先度の高い50haを超える民有農地の達成率は農地面積で1.2%にすぎない。
こうして一見アキノ政権の農地改革計画はコメとトウモロコシの農地移転に関しては計画どおり進捗しているかにみえるが,次の点にも留意しないと過大評価となろう。第1に前政権末期の1986年1月に農民は1度も土地代金を支払うことなく解放証書(EP)を交付されたが,これが現政権下でも継続されている。第2にEO228号は72年10月以降に農民が支払った地代は土地代金の年賦の前払いとしている。すなわち,現実には土地銀行の保証のもとにEPが交付されているが,年賦が不払いになれば農民は土地を失うことになる。
初年の実績のいまひとつは,農地の登録である。これはEO229号の条項により,1987年11月から88年2月まで「リスタサカ I」として取り組まれ,その未登録者に対しては,RA6657号の条項により88年8月から90年2月まで「リスタサカ II」が取り組まれ,各々マスメディアを使ったキャンペーンが全国的に展開された。この登録には罰則規定はなかったものの実績では当初見込みより高く,「リスタサカ I」および「リスタサカ II」の実績の合計は,農地面積が892万ha,目標の91.7%に達している(「参考資料」[5]4表参照)。しかし一方では,地主が事前に農地改革逃れに他人名義で分筆したとの指摘もある。
政府は農地改革の実績を高めるため,農地の強制買上げの他に,地主の「自主的売却申請」(VOS)を推進しているが,これはEO229号,RA6657号でも規定されている。この場合農地代金支払いに際し,現金部分の構成比が5%上乗せされる。VOSは1989年9月末が締切で,それ以降は強制買上げの手続きがとられる。しかしこの実績は,土地銀行が支払いを承認したものは農地面積でわずか2.5%,さらに土地所有裁定証書(CLOA)が交付されたものは1件,123haと目標の0.1%にすぎない(「参考資料」[5]2表参照)。
そればかりか,VOSの取引に関連し,土地転がしのスキャンダル事件が発覚し(5月),6月30日にフイコ農地改革長官が監督責任を問われて辞任を余儀なくされた。またメジナ次官(法務担当),ペホ次官(事業担当)を含む11人が更迭された。この事件はアキノ政権の最重要課題の農地改革においても,不正,汚職を根絶やしにできないという事実を露呈させた。
RA6657号の成立以来,地主に有利な抜け穴に対し農民組織の批判が繰り返された。生産分与方式をめぐる論議はルイシタ農園の農地改革をめぐって高まった。中部ルソンのタルラク州にある同農園はアキノ大統領の父方の実家コファンコ家の所有でもある。農場経営はすでに会社組織になっており,同農園のうち住宅地,道路などを除く純農地4916haが農地改革の対象となった。5月に同農園の所有者であるタルラク開発会社,同社の子会社アシエンダ・ルイシタ社および同農園農業労働者との間で株式配分,生産分与の合意覚書が調印された。サンチャゴ新農地改革長官の就任後,ルイシタ農園の株式配分,生産分与方式の妥当性が検討された。最終的には農業労働者の直接投票により,全農民に対する農地の分割譲渡,または株式配分の二者選択のうち株式配分が決まった(10月)。この他に協同組合による所有も選択肢としては可能であったが経営側が譲らなかった。
12・1反乱事件の経済的影響
反乱事件の経済面への影響は,マカチの金融機能が一時停止したこと等で274億ペソの損害と報じられた。短期的には,マニラ,マカチの両証券取引所で株価指数が事件後2週間で平均20%下落し,同じくペソ為替レートも5%安くなった。一層重要なのは,外国投資への影響などの長期的側面である。特に事件直後,日系音響機器工場建設の無期延期や,台湾からの新規投資様子待ちの表明がなされたことは事態の推移に懸念を生じさせた。
重要なことは,事件の背景にインフレ進行,首都圏での交通事情の悪化,電力危機などによる国民大衆の広汎な不満があったことである。こうした社会情勢に配慮し,経済界,学界,宗教界などから事件後さまざまな声明,提言が発表されたが,なかでもとくに輸送,電力問題への言及が多い。
12月15日にはフィリピン商工会議所は5項目の行動計画を提言した(「参考資料」[4]1参照)。これは事態解決次第,非常事態宣言の解除など,すみやかな正常化への復帰を要請するものである。同じく14日にはフィリピン大学経済学部で,「厳しい決断のとき」と題された提言がまとめられ,大統領に提出された。これには即時実行されるべき改革(輸送危機の解決等),法制化または行政再編による改革(債務問題等)が掲げられた(「参考資料」[4]2参照)。
こうした提言を受けて12月20日には非常大権法が成立し,1990年6月7日までの期間,大統領に買い占め抑制など民生安定化のための大権を付与した(「参考資料」[4]3参照)。
一方政府は,反乱事件最中の12月5日に首都圏でのコメなど主要9品目の価格統制を指示した。また家賃統制法の制定や,「カラカラン20」(別名,「地方バランガイ経営企業憲章」)法の制定による中小工業の育成,非常大権を行使したセメントの適正配分(60%を中小企業に)など,政府は議会と共同歩調をとり一連の弱者救済策を進めた。
しかしながら,前述のように非常大権法は約6カ月の時限立法で,また改革も短期的な対応にとどまっている。これは政府の経済政策の基本が規制緩和,市場への政府の介入排除にあるからであり,こうした価格統制などもきわめて限定されたものとならざるをえないのである。