1.放逐されし姉弟
ポトフの街から遠く離れた小さな村の小さな教会。
そこでキュロットは孤独な療養生活を送っていた。
「怪我の具合もずいぶん良くなってきているようですね」
傷の手当を兼ねての清拭を済ませ、初老の神父が明るい声をかけてくれる。
「ありがとうございます。痛みもほとんど無くなりました。
これもボクをずっと看病して下さった神父様のおかげです」
医術の心得がある神父は、教会の仕事の合間を縫いながらも、
きめ細かい看護と介護を続けてくれた。
彼の助力がなかったら回復はもっと遅れていただろう。
「身体が快復したといってもまだ自由に動き回れるわけではありません。
しばらくはリハビリに励んで落ちた筋肉を戻していかないと……。
焦らずに頑張りましょうね」
「はい」
(そう、ボクはいつまでもこんなところで寝ているわけにはいかないんだ。
一刻も早く身体を治して、プリエ姉さんを探しに行かなきゃならないんだから!)
『でも、どっちかっていうと、姉さんには光の聖女より、
魔王のほうが似合っているような……』
全ての発端は彼の軽い冗談から発せられた一言だった。
しかしその一言は現実となり、幼き頃より常にキュロットを守ってくれていた姉は、
人の姿を捨てて魔界に堕ち、彼の手の届かない場所へと去ってしまった。
闇の王子へと目覚めたあのクロワと同じように、魔王と化したプリエもまた、
女神を脅かす大きな闇として恐れられている。
それまで共に戦った仲間たち、命を賭けて守ってきた人々から、敵として見なされ、
捨てられたことに対する怒りと絶望はいかばかりのものであろうか。
「そうそう。今日、教会本部のほうから手紙が届きまして……」
表情の晴れないキュロットを励ますべく、
神父は努めて明るい声でとっておきの吉報を持ち出した。
「教会本部? ポトフの街の?」
「ええ、そうです。
来週、聖女会本部からシスター・アルエットが、こちらにお越しになるそうですよ」
「えっ、アルエットさんが!」
(アルエットさん……。
ここに来られるということはもう怪我はすっかり治っているんだ)
神父が退室したあと、キュロットは久しぶりに会うアルエットに思いを巡らせていた。
アルエットはキュロットがほのかな憧れを抱いていた女性である。
本来なら彼女との再会は何より心躍るものであったはずだが、
仲間たちの中で彼一人だけがこの田舎の教会に送られた事実が、
彼の心に暗い影を落としていた。
移送には表向き、彼が最もひどいケガを負っていたからという理由がつけられていたが、
キュロット本人はその話を鵜呑みにはしていなかった。
(ボクが魔王の……、プリエ姉さんの弟だから……)
教会を破壊し尽くした魔王は、その後ポトフの街にも姿を見せ、
人々は恐怖に逃げ惑ったという。
魔王の正体については聖女会や王家からは固く箝口令が敷かれていたが、
良くも悪くも名物シスターであったプリエの顔は
目撃者たちの記憶にしっかりと焼き付いており、
彼女が悪魔に堕ちたという風聞が、いつの間にか市井に広く蔓延していたらしい。
姉が魔族の姿をしていれば、弟にも疑いの目は向けられる。
教会の中に魔王の弟がいる――そんな噂が立っていては、
聖女会の再建もままならないだろう。
キュロットが街から離されたのは、ある意味当然の処遇であった。
もちろんそれは、彼をいらぬ中傷に晒さないための
純粋な厚情による措置であったであろうが、
当のキュロット本人には自分が体よく厄介ばらいされたようにしか思えなかった。
そしてその断を下す権限を持った人間はサラド神父か、
聖女アルエットしかいないのである。
(アルエットさんがボクを教会から追い出すことを決めた……。
あるいはそれを止めてくれなかった……)
仲間に捨てられたのはプリエだけではない。元凶である自分も捨てられてしまった。
憧れの女性に必要とされなかったことがさびしくて、悲しくて……。
膝の上で固く握りしめられた小さな拳の上に、ぽたりぽたりと涙がこぼれ落ちていた。
約束の日、すっかり日も暮れた時刻になって、ようやくアルエットが到着した。
「ようこそお越し下さいました。シスター・アルエット」
「これは神父様。わざわざお出迎えいただきましてありがとうございます」
「お一人で来られるとは思いませんでした。道中お疲れだったでしょう?」
「いえ、こちらへは馬車に乗せていただくことが出来ましたので、
景色を楽しみながら快適な旅を楽しませていただきました」
「おお、それはようございました。わたしどもの住まいは、
教会の裏の離れになりますので、そちらにご案内させていただきます」
「すみません。突然押しかけてしまって……。神父様にはご迷惑をおかけします」
「いえいえ、ご覧の通り小さな教会ですが、その分遠慮は無用です。
何日でもごゆるりと滞在なさって下さい」
「ありがとうございます。女神ポワトゥリーヌのお導きに感謝します」
「キュロット君もシスターの来られる日を首を長くして待っておられました。
なにしろこちらに移ってからはこの年寄りの顔しか見ておりませんから、
ずいぶん退屈をさせてしまっていると思います。
今夜はゆっくり彼の話を聞いてあげてください」
「そうですね。わたしも早くキュロット君に会いたい……」
「キュロット君の心は深く傷ついているようです。
わたしは体のケガは見てあげられますが、心の傷に対しては無力ですから……。
どうかシスター、彼を元気づけてあげて下さい」
「神父様のおっしゃる通りです。
わたしは彼の心を救済し、再び迎え入れるために参りました。
そのためにも神父様、わたしに協力しては下さいませんか?」
「おお、もちろんです。わたしに出来ることなら何なりと!」
「ありがとうございます。ではこれより数日の間、キュロット君の部屋に……、
いえ、この家に誰も近づけないで下さい。一切わたしたちの邪魔をしないように……。
お願いできますか?」
「は……い……」
どこか虚ろな声で答える神父を見て、アルエットは薄い笑みを浮かべる。
その瞳は禍々しい赤光を放ちはじめていた。