政府の復興計画が軌道に乗り始め、戦禍の傷跡の色濃かったこの地にも最低限の生活を維持するための物資は確保できるようになっていた。とはいえ岩と砂に覆われた南東地域の暑さは相当なものであり、特に気候に慣れない者にとっては一層の苛烈さを極める。
冬を北限の地で過ごした上でのこの猛暑は、ここで暮らし始めて間もない初老の男にとってはかなりの疲労を伴うものであることは想像に難くない。
夕刻、患者の足が途絶えたところで診療所の主たるその男はやっと扉を閉ざし、テーブルに寄ってそのまま暫くのあいだ動くことができずにいた。
開け放した窓からは、この時分なっても熱気を帯びた風が吹き込んでいる。
ようやく食事をすることを思い立ったのであろう、腰をあげかけた男はしかしそのまま静止した。その視線の先にあるのは、この日診療所を訪れた少女が作ったという野菜を動物に模した置物である。
緑の細長い実の部分を胴体と頭に見立て、下腹部分に小さな木を4本突き刺し足とした、いたって簡素なものだった。
会いたい人に出会えるおまじないだと男に告げた少女は、窓辺に走ってゆきその動物を室内に頭を向けた格好で飾りつけた。
「これで寂しくないね、ドクター」
去り際にそう言って屈託なく笑う少女を、ドクターと呼ばれた男は感謝の言葉とともに手を振りながらいつまでも見送った。
この地で過ごす夏は、この男が多くの仲間と別れてからの初めての一人での生活でもあった。
あの戦いの日々は、彼にとって辛いことも多かったが、それでも充実した日々として思い起こすには十分すぎる程に鮮烈だった。
失くしたものも多かった。しかしそれでも今、前を向いていられるのは、かけがえの無い存在たちとの出会いがあったからこそだと彼は信じている。
その胸に去来する寂寞の念は、仲間との絆の証であり、再会の折少しでも彼らに近づけるようにという願いのためでもあった。人事を尽くして天命を待つ、男のこの地での生活はまさにその言葉のとおりのものであった。
しかし、そうはいっても時折人恋しく思うことがあるらしく、こうして疲労した身体を抱えてひとり佇む夜などには、その思いは一層顕著になっていた。
眉間を押さえ大きくひとつ息をつくと、男は自嘲的な笑みを零しキッチンへと向かう。
暑さと疲労のため食欲はそれほど湧いてこなかったが、それでも何か腹に入れなければ身体が音を上げてしまうことを熟知しての行動だった。
ありあわせのもので簡素な夕食を用意した男がそれらを運ぼうと目線を上げたとき、誰も居ないはずの部屋に不意に人影が揺れた。
「誰か、そこにいるのか?」
誰何の声に窓際の薬棚の影、白く佇む影はゆっくりとその姿を露わにした。
端正な相貌に冷ややかな光をたたえる淡いブルーの瞳、長い黒髪を背でひとつに束ねたその姿は、男が確かに今際のきわを見届けたはずの存在であった。
あまりの想像を絶する状況に、初老の男は言葉を失いただ立ち尽くしている。そんな相手の動揺もどこ吹く風といった様子で、生前同様白いスーツを身に纏った紳士は帽子を取ると優雅に一礼してみせた。
「今晩はドクター。ご機嫌麗しゅう」
「……なぜ君がこんなところに」
長い沈黙のあと、ようやく男が口にしたのは、現実に即してみれば実に間の抜けた問いかけだった。相手は既に他界した存在なのだから。
「何故とはつれないですね。貴方が呼んで下さったのでしょう?」
スーツ姿の男は楽しげに笑っている。
その様子を呆然と視界に収める初老の男の頭に、不意に昼間の少女の言葉が蘇っていた。
会いたい人に会えるというその言葉で男が想起したのは、少なくとも目の前にいる紳士然とした男ではなかったのだが。
かつて追い続けていた決して多くを語らない広い背中を思い出し、男は何かに耐えるように自らの胸を押さえ湧き上がる感情を必死にとどめた。
そして、たとえどんな事情があろうとも、目の前の人間に呼んだのは君ではないなどと告げることにえもいわれぬ後ろめたさを感じた彼は、それ以上の言及を差し控えることでその場を収める道を選んだ。
そいうった事情を察しているのか否か、対峙するスーツ姿の紳士は相変わらず笑みを湛えたまま男の様子を見つめている。
「実はですね、この地には生前少々因縁がありましてね」
言葉と同時に僅かに細められた目に一瞬不穏な光が宿ったのを、初老の男は見逃さなかった。
この地は、かつて男の目の前に座す相手が殲滅を担当したまさにその場所であったのだ。そして、彼が求めるもの、それが当時果たせなかった決着だとすると、想定できる標的は自ずと唯ひとりに絞られる。
奇しくもその存在は初老の男が会いたいと切望してやまないその人でもあるのだ。
「まさか、またこの地を蹂躙しようというのか!?」
男の頭の中を不吉な未来が過る。ようやく再興へと歩み始めたその矢先である。傷つき、多くを失った者たちがそれでも必死に立ち上がろうとする姿を、男は決して長くはないここでの生活で、幾度となく目にしてきたのだ。
破壊を得意とする錬金術の使い手を相手を止める術など持ち合わせていなかったが、それでも感情の赴くままに腰を浮かしかけた。だが眼前に腕が伸た腕に静止を促され、あえなく再び椅子の上に身を沈めることとなる。
「あなたが誤解されるのも無理なからぬことですが…しかし、残念ながら想像されたような行為はできないのですよ。ほらこの通り」
そう言うと腕を引き勢いよくテーブルに振り下ろす。
天板と接するところから上腕部が途切れ、まるでそこには何もないかのように机の裏に突き抜けていた。
「お分かりいただけたでしょうか?」と吐息混じりの笑みを浮かべた紳士が言う。この身では何者にも干渉することなどできないのだと。
再び伸びてきた腕が、今度は驚愕の表情を浮かべる初老の男の輪郭をなぞる様に通り過ぎた。不思議なことに頬にその触感は一切なく、相手の指先は男の顔を境に接触した部分がかき消えてしまっている。
「選ばれる身となり、この世の行く末を見届けたいと思っていたのですがね。結局どちらも果たせず仕舞でした。あの石さえあれば、容易に事が運ぶと信じたのですが…」
居住まいを正すと膝の前で腕を組みどこか寂しげに笑う。それは、男が初めて目にする慇懃な相手の自嘲に満ちた表情だった。
「…あれは完全な物質でもなんでもないのだよ」
人の手で以て造り、破壊することもできる。それは神の領域などではない。悪魔に魂を売った者の所業だと初老の男は静かに口を紡いだ。
「それでも、貴方の成果は評価されて然るべきだと思いますが」
「何人もの犠牲の上に造られたものが、評価に値するはずがない」
「…ならば、争いの上に成り立つ歴史もそうだというのでしょうか?勝利を収め生き残った存在すらも否定されるのですか」
即座にそう切り返す様子は、平時の飄然とした態度とは異なり、どこか切迫したものが滲むようだった。
初老の男は、その常に似ない様子を訝しんでいたが、事ここに至って遂に相手の真意にたどり着き、同時に哀しく思った。
力を誇示し相手を打ち負かすことでしか己の存在を認めることの出来ないその高潔で不器用な生き方に…。
「人は勝ち負けだけで価値が決まるものではないよ。周囲との関わりによって見つけることもできるんだ」
その声は、小さな子供に話しかけるような穏やかな響きが含まれていた。
「存えるために自らの命を掛ける必要なんてないんだ」
「………」
「君は、敗残者だとか選ばれない存在だと自らを断するかもしれないが、そうではない。朽ちた魂は、淘汰されるわけでも、ましてや他者の糧に利用されるわけでもない」
そこで男は呼吸を整えるかのように一旦言葉を切る。そして眼前の相手をまっすぐに見つめた。
「魂は次に受け継がれてゆくんだ、なんの例外もなく。もちろん、君も…」
「成程、それが貴方の真理という訳ですね。しかし、何も成しえず朽ちた魂が次へ残すものなど有りましょうか?せいぜい路頭に迷うのが関の山でしょうに」
「あるよ。私が忘れない。決して忘れたりしないから」
そう言葉を紡ぐ男の目に一切の憐憫や同情の念はなかった。相手の生前の所業は嫌というほどに思い知らされていたが、しかし理屈などでは表せない感情の波が彼の心を攫っていた。
「…ドクター?」
無意識に初老の男は立ち上がていた。向かいに座す相手へ手を伸ばす。
「もっと…もっと早く君とこうして話していればよかった」
その腕は、白いスーツの肩を突き抜けることはなかった。しかし男がその事実を怪訝に思うことはなかった。柔らかに背中に回される腕が、首元に寄せられた頬の触感が、布地越しにじんわりと温度を伴って触れた相手へと浸透してゆく。
「…温かい、ですね」
テーブル越しに縋り付く男の体を受け止めながら、ぽつりと小さく漏らされた言葉は、柔らかな静寂に溶けていった。
「実はひとつ、貴方にお伝えすることがありましてね」
身を離した後、思い出したようにスーツ姿の男が口を開いた。
「待ち人は、程なく現れるでしょう」
「えっ?」
「…おまじない、されていたのでしょう?」
「いや、あれはその…患者さんからの頂いたもので、願掛けとかそういった類のものでは」
何故かしどろもどろになりながら説明する初老の男を、スーツ姿の紳士が目を細めて穏やかに眺めていた。
「過程などどうでも良いではありませんか。願いが叶うのですから」
言葉とともににこりと微笑むと、つられたように初老の男も小さく笑った。
「そうだね…では、信じて待つことにするよ」
ひとつ大きく頷いた男は、ふと頭によぎった疑問を口にした。
「まじないのためではないとすると、君は一体なぜここに?」
「それは、貴方の…」
不意に生まれた男の逡巡が、その場にほんの僅かな空白を生む。しかし、体感できる程の間ではなく、時は何事もな再び流れゆく。
「…貴方に、願いの成就をお伝えするためですよ」
「それは手間を取らせてしまったね」
「いいえ、私が好きでさせてもらったことですから」
そう返す男には既に寸分の迷いの色も残されてはいなかった。
「そうだドクター、ひとつお願いをしてもよろしいですか?」
「うん、何かな」
「窓辺にあるものを頂きたいのですが」
「あの置物を…かい?」
意外な言葉に初老の男は目を丸くするが、すぐに立ち上がった。対座する相手からは背を向け、窓辺へと歩き出す。
その背中越しに、不意に一陣の風が吹き抜けた。
とっさに風の発生した方へ振り向くと、そこには先程まで言葉を交わした居るはずの存在は跡形もなく、視線を再び窓辺へと転じると、動物を模した置物はその首を外の世界へと向けて静かに佇んでいた。
まるで嵐のような邂逅だったと男は思った。いつの間にか夜風は涼を纏ったものに変わり、熱の篭っていた男の身体を緩やかに冷やしてくれる。佇むその身体が空腹を訴え始め、夕食の支度をしていたことを思い出す。
現実的な感覚が徐々に男の中に戻り始めていた。
キッチンへと向かうと、まさに運び出されようとしていた料理が未だ湯気を立てた状態でそこに置かれている。その様子は、これまでの出来事がほんのわずかな時間であったことを物語っていた。
余韻も痕跡すらもない。しかし、かの紳士がたった今まで此処に存在していたことは、残された初老の男がしかと記憶している。彼の中の寂寞の念がいつしか霧散しているのが、その何よりもの証拠だった。
初老の男はテーブルへと食事を運ぶと、椅子には掛けず窓辺へ徒歩を進める。すっかり闇の降りた景色は行き交う人影を視認することも覚束無い。たとえそれが全身を白装束で纏っていたとしても。
視線を落とし傍らの動物の置物を手に取ると、最初に設えられていたように部屋の方へと頭を向けた。その行為に根差す根拠などなかったが、そうすることで彼が再びここを訪れてくれるような、そんな淡い予感めいたものを男は感じていた。
「ありがとう」
伝えそびれた小さなつぶやきは乾いた地を渡る風に攫われ、はるか虚空へと流されていった。
お盆なのでうっかり帰ってきた紅蓮と迎え入れるドクターのお話でした。動物の置物は精霊馬で。
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