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「はだしのゲン」 思いは未来に

12月26日 14時50分

井上圭介記者

原爆が投下された広島の状況を生々しく描いた漫画「はだしのゲン」。
原爆で家族を失い、みずからも被爆しながら、平和な“あす”を信じて生きていく少年「ゲン」を自身の体験に基づいて描いた作者の中沢啓治さんが、今月19日、肺がんのため広島市内の病院で亡くなりました。
73歳でした。
「はだしのゲン」は海外でも出版され、発行部数は累計で1000万部を超えるベストセラーです。
中沢さんはここ数年体調を崩し、漫画家を引退したあと講演などを通じて若い世代へ被爆体験を伝えてきました。
その思いについて、広島放送局の井上圭介記者が報告します。

被爆体験から「ゲン」を執筆

中沢啓治さんは広島市の出身で6歳のときに被爆し、同時に父と姉、弟の家族3人を亡くしました。

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中沢さんはこの体験を基に、昭和48年から原爆で家族を失った少年が力強く生き抜く姿を描いた漫画「はだしのゲン」を執筆しました。
原爆が投下された直後の広島の生々しい描写や人間模様は、内外の読者に強い衝撃を与えました。
作品は18の言語に翻訳されて海外でも出版され、発行部数は累計で1000万部を超えています。

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当時のインタビューで中沢さんは、「『はだしのゲン』の被爆のシーンなどを見て、原爆や戦争の恐ろしさを感じてもらえれば、作者冥利(みょうり)に尽きます」と話しています。

漫画家を引退、原画を寄贈

中沢さんはその後、「はだしのゲン」の第2部を検討していました。
しかし、長年患った糖尿病の影響で視力が衰えたことなどから、3年前に漫画家を引退しました。
漫画の原画など所有する1万点以上の資料は、「多くの人に見てもらいたい」と広島市の平和公園にある原爆資料館に寄贈しています。

被爆体験を次の世代へ

中沢さんは、おととし肺がんが見つかり、原爆や戦争の悲惨さを漫画以外の形でも次の世代に伝えたいと強く思うようになりました。

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自宅のある埼玉県所沢市にはあまり戻らず、広島市内で療養しながら、講演活動や映画の脚本作り、絵画の制作などに精力的に取り組みました。
この間、病状が悪化して危篤の状態になったこともありましたが、強い意志で復帰し、中沢さんの家族は「命の重さ、生きることの大切さを身をもって示してくれた」と感じたそうです。
体調がかなり悪化していたことし7月に広島市の小学校で講演を行った中沢さんは、子どもたちからの質問に笑顔で答え、「踏まれても踏まれても立ち上がる麦のようになれ」という「はだしのゲン」に出てくるメッセージを送ったということです。

8月6日への思い

被爆の体験を広く伝えてきた中沢さんですが、毎年8月6日の「広島原爆の日」に広島市の平和公園で開かれる平和記念式典には長い間、出席しませんでした。
「強烈な被爆体験を思い出してしまうから」というのが理由でした。
しかし去年、「原爆への怒りと戦争への反省を次の世代に伝えたい」として初めて式典に出席し、「戦争だけはどんなことがあってもするな」と声を振り絞りました。

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中沢さんの死を悼む広島

中沢さんは入退院を繰り返しながら活動を続けていましたが、今月19日、入院先の広島市内の病院で肺がんのため73歳で亡くなりました。
「はだしのゲン」の原画の提供を受けて以来、作品を展示してきた広島市の原爆資料館の前田耕一郎館長は、「中沢さんは漫画という媒体を通じて、核兵器の悲惨さを執念を持って世界中に伝えてくださった方でした。亡くなられたことは残念のひと言に尽きます」と話しています。

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核兵器のない世界を願って

中沢さんの葬儀は故人の遺志に沿って今月21日に近親者で執り行われました。
中沢さんの家族は「今、中沢は星となり、ゲンと共に空から核兵器のない平和な世界の出現を願っていることと思います」とコメントしています。
「はだしのゲン」を通じて中沢さんが表現した、平和を求めてたくましく生きる気持ちは、これからも国や世代を超えて伝えていくべきだと思います。

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