戦前から日本に潜在する「敗戦革命」という名前の猛毒。
こんばんは!
いきなりですけど・・・ 皆さんは・・・
という言葉を聞いたことはありますか? この言葉を理解することは、保守派にとっては必須条件と言ってもよいぐらい、 絶対に重要なことなので、ぜひ、覚えておいて頂きたいと思います。 この「敗戦革命」とは・・・ 旧ソ連の生みの親であるレーニンが編み出した理論と言われています。 彼が母国のロシア帝国で成功させた共産主義革命をモデルとした革命思想のことです。 この思想の概要は・・・ 1)帝国主義国家同士を謀略でもって、お互いを戦争させる。 2)戦争当事国を疲弊させ、戦争による不満を充満させ、国家元首と国民を離間させる。 3)敗戦国はモラルも一気に低下し、国家元首が窮地に立たされる事で、追い落としが可能となる。 4)共産主義による新たな希望を持たせる宣伝活動と、謀略、時には暴力をもって国家元首を 追い落とし、新たな共産主義国家を建国する。 おおよそ、このような感じです。 これをレーニンの母国に当てはめると・・・ 1)日露戦争のきっかけは謀略とは言えないようですが、結果として日露戦争は彼の思惑通りに
進行します。 2)ロシア帝国は戦争で疲弊し「血の日曜日事件」を起こしてしまい、国民も皇帝もお互いに 疑心暗鬼に陥ります。 3)日露戦争の敗北以降ロシアは国内体制のたがが緩み、第一次大戦の戦況が思わしくなくなると 皇帝一家も処刑されてしまいます。 4)共産主義の理想が国民を酔わせ、3度の臨時政府も躓づいて政情不安に陥ります。 これは不思議とソ連が出来るまで続きました。 この革命思想はレーニンの実体験によるものですから、 かなりリアルに世界中の革命思想家に影響を与えたと言っても良いでしょうね。 現実の世界では、日本の敗戦はアメリカ軍の占領によってなされたので、敗戦革命は 目的の半分までしか成功しませんでした。しかし、ソ連にとっては、日本が戦争を起こした お陰で、アメリカを戦場に引ずり出し、支那大陸も結果として中共の手に落ちたので成功なのです。 さて、この革命思想は実は戦前の日本にも入り込んでいたことを皆さんはご存知でしょうか?
こう言うと・・・
・・・って、言われそうですけど、 もし貴方もそう思っていたとしたら、それは大間違いです。 現実には、当時の日本では、民主主義がかなり進行していたので、受け入れられてしまっていたのです。 モダンな先端思想として、特に日本の上流階級を中心に取り込まれていました。 ただ、天皇家に対する忠誠心は国家の義務とする風潮があったので、 誰もが公言できるような雰囲気に無かっただけです。
逆に、今の時代のように、浅間山荘事件や成田空港闘争を見せ付けられた国民にとっては、 共産主義の過激な思想を体感し、ソ連や北朝鮮の杜撰な国家体制を目撃した後なので、 共産党のシンパも一定数以上には増えず、一歩身を引いて考える事ができますけど・・・ 当時は、まだ出来たばかりの新しいソビエト連邦は、それこそ・・・
・・・に見えたものなのです。 その光り輝く理想国家に見えるソ連式の共産主義思想をそのまま受け入れ、 身も心も共産主義に囚われた・・・
天皇陛下を頂いたまま共産主義革命(国家社会主義体制)を起こそうという、 奇妙な理想を掲げた・・・
当時の日本で、社会変革を望む連中は、結局は同じ穴の狢だったということなのです。
では、なぜ受け入れられるような土壌が日本で育まれたのか? それは・・・ 当時、戦前の日本では、伸びていたと言っても、まだまだ国家の工業力が発展途上であったのに、 台湾、朝鮮、南洋、後には満洲、等々の経営も背負っていたので、負担が重過ぎました。
日本は 『いわゆる植民地』 から搾取するようなことをせず、国内の投資よりも外地への投資が 優先されてしまい、東北地方の飢饉などが発生しても十分な対策が取れませんでした。 そういう国内の背景があり、さらには海外からの人種差別的な不公平な圧力もあって、 日本には社会全体にとっても息苦しい閉塞感が生まれてしまったのです。
その打開策として、共産主義革命や国家社会主義体制は魅力的に写ったということです。 そういった流れの中で5・15事件や2・26事件などの若手の軍人による決起があり、 2・26事件などでは、昭和の天皇陛下を廃し、陛下の弟君である秩父宮殿下を擁立する 考えを持った者もいたりしたのです。
革命の名称こそ語られませんでしたが、日本の閉塞状況を打開するには・・・
と、考える人間が少なからず、戦前には居たのです。 さらにたちが悪いことに、軍部の官僚エリートの中にもかなり浸透していました。 現代の保守派の人には、とても信じられないことかも知れませんけど、 紛れもなく、戦前の日本には・・・
という事です。 悲しく、怒りを強く感じることですけど・・・
戦前はエリート将校の全てが一生懸命に戦ったのではありません。 愚かな売国奴や小役人の官僚軍人が日本を敗戦に導いた部分がかなりあるのです。 どんなに庶民の兵隊が勇敢であったとしても、エリート将校のミスが多ければ戦争は負けます。 ましてや、わざと負けるように仕組んだアホがいたとすれば、それは負けて当たり前です。 逆に私達はそういう奴は、絶対に戦犯として追求するべきだと思うのです。 GHQはそういう日本を敗戦に導いた・・・ 米軍にとっての功労者は、わざと追求しませんでした。 そういう売国奴の多くは、戦後ものうのうと生き延びたのです。
終戦直後、陸軍大将の阿南惟幾さんが、切腹をする前に部下に語った言葉があります。
米内光政・・・ この元海軍大臣はある意味、対米戦争を誘導したにも関わらず、 GHQから呼び出しすら掛かりませんでした。 現在では、彼は戦争に反対していた 『平和主義者』 というありがたいレッテルを貼ってもらっていて、 それ以上に追求される気配さえありません。 その米内光政は、なんと久間防衛省長官もビックリするような・・・ こんな言葉を吐いています。
因みに・・・ 米内は大正4年(1915年)にロシア出張をし、 ロシア語も堪能で、19世紀の進歩的詩人プーシキンを愛読したりもしています。 現代の日本を知るには、過去の真実を知る必要があります。 まだまだ日本は、先の大戦を敗戦に追い込んだ・・・ いえ、『敗戦革命』に追い込んだ本当の戦犯を裁けない国なのです。
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