「なぜ、政治家になったのですか?」
政治家であれば、何度となく遭遇する質問である。 候補者だった当時、ある日の朝刊に私の目は吸い寄せられた。 高校生の夢を尋ねたアンケートの結果を載せた記事であった。
記事の論旨は、男子のトップは「公務員」、女子のトップは「女優」という好対照が興味深いというものであったが、私の目にとまったのは、「最もなりたくない職業」に男女とも「政治家」があがっていたことであった。 冒頭の質問は、「なぜ、政治家になんかなったのですか」というのが世間の本音である。 このイメージが変わらない限り、日本の政治は良くならないと思う。
私の初当選は、2000年6月の総選挙、28歳のときであった。 地盤・看板・カバンのない落下傘候補であった私が当選するまでには、幸運と縁、そして苦難があった。 民間シンクタンク研究員という職を捨て、乳飲み子を抱えて選挙にでる葛藤、「トンビは鷹を生まないからやめておけ」と断固阻止しようとした父親の説得、支援者との出会いと別れ、ツクシとタケノコを食べて貧乏をしのいだこと。 それらを乗り越えることができたのは、政治家になるという決意と、実際になれるという明確なイメージがあったからだと思う。
私がはじめて「政治」を意識したのは、21歳の時である。 盲目の弁護士の自叙伝を読んで感動した私は、修行僧のような浪人生活を経て法学部に入学したものの、1年も経たずに、法律の授業に関心が持てなくなってしまった。
それなりの苦労をして大学に入ったのに、これではどうしようもない。 大学の外に目を向け、在日外国人の電話相談をしている団体の門を叩いた。 バブルがはじけた直後、巷は多くの外国人、特にバブル時に入国ビザを発給した日系人が職にあぶれていた。 日本語が話せないがゆえに、不当に解雇されても、労働災害にあっても泣き寝入りするしかない。 不法滞在で就労している人の場合はもっと悲惨であった。
日本人のこと、彼らの母国との関係、行政の冷たさ、入国管理政策・・・、私の前には初めて知る厳しい現実が存在していた。 当初は、自分も役に立っているという喜びがあったが、それはすぐに、問題を克服できない無力感に変わっていった。
「政治家になれれば」という漠然とした思いが明確なイメージに発展したのには当時の時代背景がある。 政治家を意識しだした93年、日本新党ブームで多くの若い政治家が誕生した。 横浜市長になった中田宏氏、民主党に所属している枝野幸男氏、京都では前原誠司氏・・・、国政に乗り込む彼らの姿は輝いて見えた。 「俺にもやれるのではないか」この選挙を目の当たりにしなければ、私が本気で政治家を目指すことはなかっただろう。
そして、大学四年の冬、95年に起こった阪神淡路大震災の復興支援に携わる中で、日本の政治の貧困を痛感し、何としても政治家になろうという決意は固まった。