小説 「彼と彼ら、または自己をなくした者」
彼らは目を覚ました。
アダルトDVDとティッシュペーパーそして食べ終えたカップラーメンの容器が散乱する、屑籠のような部屋で彼らは目を覚ました。
窓もカーテンさえも閉め切った蛍光灯の蒼白い明かりと点けたままのパーソナルコンピュータのモニターが照らす、その部屋には一日も時間も存在しない。
彼らはベッドで背伸びをしてみた。筋がぐきゅっと嫌な音を立てる。首と肩は石のように硬く重い。その首と肩を揉みながら身をよじりベッドの枕元に置いたリモコンを握るとDVDプレイヤーのスイッチを入れた。
女の悲鳴にも似た嗚咽が5.1チャンネルサラウンドスピーカーから響き部屋を充たす。その場面は以前にも見たようにも思えた。現実から乖離した彼らの日常には、始まりも終わりもない。壊れたオルゴールのように、ただ繰り返される。
彼らはベッドに腰掛けると、ほんのしばらくの間アダルトDVDの画面を観た。どれも同じだ、女と男が違うだけ。そう思いながらアンダーウエアに服を重ねていく。肉と肉と重なり弾ける音、激しくなる吐息、性欲を満たすための偽りの性欲。
彼らは画面に背を向け、部屋を充たす不協和音のように濁った音をバックグラウンド・ミュージックに点けたままのパーソナルコンピュータの前に腰掛けた。モニターには昨日書き込んだコメントが残っていた。だけど意味が理解できない。
彼らの意にそぐわないブログやホームページに内容を無視した、ただ嘲笑う誹謗中傷の単語や、あらかじめテキストエディタに残した文章をコピー・アンド・ペーストしてコメントに繰り返し書き込む。そのたびに言葉は意味を失い、ただの文字列となっていた。
彼らの日常が今始まった。
目を付けているブログやホームページにコメントを書き込む。その作業は百何回と続き、そして書き込んだコメントの一覧を順に目を通していく。抗議の返信コメントがあれば占めたものだ。彼らはつかの間の興奮に酔いコメントの内容を更に嘲笑と悪意に染めて書き込む。無視や削除は失意と悪意となって彼らを包む。その不条理な感情にまかせ同じ内容をコピー・アンド・ペーストする。ときには複数回と続けて書き込む場合もある。全ては気分しだいだ。
彼らはその作業の際に相手のコメント一覧に目を通す。その中で不快と感じたコメントを、彼らの行為を誹るコメントを、書き込んだ者は新たな敵に新たな獲物になる。先ずはその者のブログなりホームページに嘲笑あるいは曲解したコメントを書き込み反応をさぐる。
目的も意味もなく、ただ繰り返される悪意と嘲笑と果てることのない優越願望、それはハンドルネームを増やすに従い膨張し拡散する。
膨張を、拡散を続ける自己。
自己は、その意味は、膨張と拡散に比例して希釈していった。自己はその存在を固定することができず、繰り返される行為だけが実態を失った影法師のようネットの海に漂う。
彼は彼らとなり、彼らは存在の意味を削りながら増殖する。ただひとつの現象を彼に残して。
膀胱の膨らみは尿意として彼らの脳に伝達された。彼らはもどかしさを感じながら作業を繰り返す。やがて排尿中枢は尿道括約筋の収縮限界を彼らに送り従うように求めた。そして彼は立ち上がった。自己をなくした彼に唯一残された自己、生理現象だけが彼らから彼を引き離す。
トイレの曇りガラスは赤く染まっていた。
それが朝陽なのか夕陽なのか、彼らに戻った彼にはもう意味はない。
END