ケイクスカルチャー / 山本一郎
プロフィール
1973年、東京生まれ。96年、慶應義塾大学法学部政治学科卒。2000年、IT技術関連のコンサルティングや知的財産権管理、コンテンツの企画・制作を行うイレギュラーズアンドパートナーズ株式会社を設立。ベンチャービジネスの設立技術系企業の財務・資金調達など技術動向と金融市場に精通。2007年より、総予算100億円超のプロジェクトでの資金調達や法人向け増資対応を専門とするホワイトヒルズLLCを設立、外資系ファンドの対日投資アドバイザーなどを兼務。著書に『情報革命バブルの崩壊』『「俺様国家」中国の大経済』(以上、文春新書)、『けなす技術』『投資情報のカラクリ』(以上、ソフトバンク クリエイティブ)など多数。
ブログ:やまもといちろうBLOG
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この国で結婚をするということ 後編
山本一郎, 子育て, やまもといちろう, 結婚
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家内との出会いは、知人の紹介でした。もう諦めたはずの、結婚前提のお見合いではなく、ふっと、いい人がいるので会ってみないかと言われて、新宿の紀伊国屋書店の前で待ち合わせました。私自身、仕事が遅れて一時間近く遅刻していったんですけれども、家内はずっと、待っていてくれた。いま思うと、あそこで愛想を尽かされたら、正直いまでも独身だったろうと思うのです。しかも、最初に考えておけばいいのに喫茶店でお茶でもと言っても空いている店を探せなくて、これまた一時間近く新宿をふらふら。家内も、どういう人なんだろうと 感じたんだと思っていたんですが、あとからそのときのことを聞くと、どうやら、面白い人だと思ってくれていたようです。
あまり私自身のことを知らされていない風だったので、私からはおカネのことや仕事のこと、本のことや、ネットで「切込隊長」などと自称していろんな人に面倒くさがられていることなどは言いませんでした。家内も、いろんな意味でおカネに執着しない人で、まっすぐに私を見てくれていました。日ごろ暮らしていて、ネットや仕事や投資や他人の悪口の話が出ない人と長い時間一緒になることはありませんでしたので、ただ薄ぼんやりと「私は恋をしているのだな」と何ヶ月かかけてようやく認識できるようになったのです。
家内は歯学部を出てから東京大学付属病院の口腔外科に勤めていたこともあって多忙で、私もあれこれバタバタと走り回っておりますので、二人で会うのはもっぱら深夜でした。ようやく手を繋ぐことができ、一緒に赤坂で暮らすことになり、築地の安い寿司屋でプロポーズをしました。なんというか、結婚までの間は、私が「人間になっていった」ような感じでした。冷たくて荒涼とした人生を一生懸命に歩んできて、人は一人で死ぬものと思い込んでいた私が、ようやくなんとなく辿り着いた穏やかな松明の光のようなもので。
正直、何で結婚できたんだろうと思うところがあります。たぶん、九割九分、運だと思っています。神が授けてくれた、とかそういうレベルに近い、私の人生においては、この破綻寸前の山本家が私の投資収益でどうにかなったことと、私の大変な人間性であるにも関わらずご縁があって家内と結婚ができたことという、二つの奇跡によって構成されているといっても過言ではありません。 なので、私は全力で投資に取り組み続け、同じく全力で家内を愛し続けようと思っています。これは私の人生に課せられた義務であり、したいことの最優先であることは間違いありません。
長男が生まれたときに思ったのは、こんな私でも子供が抱けるんだという客観的な心境でした。生まれる直前にちょっとしたハプニングがあり、長男が少し小さめに生まれてきたことでわたわたして、感動だ感激だというよりは無事に生まれてきてくれて良かった、私はツイている、という少しひいた感覚でして。
ただ、赤ちゃんの割には小さく痩せて生まれた長男が、私の人生においておおいなる負担でもあった親父に激似だったのです。もう、小さな親父。私のあの父が、ちっちゃくなって私に抱かれてミルクを飲んでいる。これが、悲しいぐらい親父に似ていまして。
あの待望の、自分の長男が、自分自身を抑圧したり、一方でとても期待してくれていた親父に激似という。改めて、血というのを再認識します。ああ、好いても嫌っても親父は親父であります。この子にとって、私はどういう親父になるのだろうなあと。私は彼とどういう対話をし、どんな心の交流をしていけば、この子が伸びやかに過ごし、人生を豊かに歩んでいけるのだろうなあと。自分にはできなかった、人間として相応しい心を持って育っていくにはどういう父親になればよいのかなあと。
その意味で、父親としての自覚という一般的な語感とはちょっと違う、生き物としての感覚の変化のようなものが私の中に芽生えたように思います。独身で、したいことをして、凝ることにすべての神経と時間を注ぎ込んだいままでと大きく変わる何かです。まさに、自分自身を構築しているすべての細胞に含まれる遺伝子のうちの、何かのスイッチが入った瞬間だったように感じるのです。
そもそも、なぜ私が親父の膨大な負債を受け継ごうと思ったのか、長男を抱きながら思い返したことがありました。それは、間違いなく中学時代に行な っていた、私と親父の会話でした。当時、まだ反抗期ではなかった私は、数学の成績が非常に良く、これを活かした仕事に就きたいと当時から考えていて、パソコンにのめり込んでいました。あるとき、親父に「俺はプログラムをもっとうまくなりたい。将来、エンジニアになりたいから大学は理工学部にいく」と食事の際に言いまして。
少し間があって、親父が「エンジニアなんてやめろ」というのです。そして「馬鹿野郎、エンジニアなんていうのはな、金を払って雇えばいいんだ」と一言。
そうか、おカネがあれば、エンジニアは雇えばいいのだ。明らかに、私は親父の息子だと思います。思想というのは、このようにして親から子へ、伝えられていくのです。もう間違いなく、伝承とかってそういうことなんだと。そこから私は次第にエンジニアに対する執着よりもおカネや事業といった方向へ興味が流れていくのです。
さらなる幸運に恵まれて次男が生まれたときは、長男生誕のときに味わえなかった感動をしました。長男のときは、無事に生まれてくれればいいと願いながら立ち会ったのに比べ、次男のときは難産で家内はしんどい思いをしたと思いますが、いわゆる普通の出産であったために心の準備ができていたのが大きかったと思います。そして次男は親父にまったく似ていませんでした。まるまると太った、赤ちゃんでした。次男が生まれて家内が退院し、二人の子が寝静まったあと、家内の前で私は、泣いたんですね。
何しろ、私は自分自身に子供がもうけられない と考えていました。だけど、自分自身が生きた証として、もしくは意味として、何かしたいということで、小額ではありますが児童養護施設にずっと寄付をしてきました。いまでも折があれば寄付をしています。それは、憐れみや同情ということではなく、慎みある大人として、次の世代に何を伝えるべきで、どういう人生を歩むか本人が考え決めていける世の中であり続けて欲しいと願うからです。そんな私が現在二人の子供に恵まれて、将来どうなるかは分からないけど人生を預かる側に回ったというのは、美しいことである反面、責任も大きく伴います。親父が私の人生に与えた影響は、いま振り返っても甚大なものでした。親父もお袋も、二人の間においては一人っ子でしたから、非常に期待をされ、私もおおいに反抗をしつつも、こと教育については大学まで送り出してくれました。
人生を預かる以上は、彼らが社会に出て貢献できる人間になるために、もっともっと私自身が心を太らせねばなりません。何のために生き、どういう影響を他人に与えていくべきなのか、あるべき社会を実現するために自分にできることは何であるのか、自分だけの目線ではなく、世代を通じた視点を携え、広く社会全体をもっと見据えなければならないのです。
どちらかといえば、他人に迷惑をかけようとも韜晦しながら私一人が面白おかしく暮らしていければいいやと思っていた前半生を思い返して、なるほど遺伝子というのはそういう仕組みでできているんじゃないかと考えるようになりました。
先日、久しぶりに東京で時間を作ることができたので、お袋の誕生日に三世代で鰻を喰いました。今回ほど、健康で存命であるというのが素晴らしいことだと感じたのは初めてでありました。老人など社会において穀潰しで社会保障費が増大しつつある昨今、本気で終末医療のカットは考えるべきだとか他人事のように評論していたのが、目の前に、老いてしょぼくれた親父が孫を前にしながら旨そうに鰻を喰っているさまを見ながら末永く健康であってくれと思えるようになったのは、やはり私を支え愛してくれる家内と二人の息子たちができて、人間としての再構築ができるようになったからだと思います。きっと独身の40歳目前であったなら、親父やお袋なんかと飯が喰えるか! と考えて多忙を理由に会わなかったに違いないと思うと、人生というものはまだまだ深く、知らないことがたくさん残っているのだという気持ちになれます。
この僥倖が与えてくれた束の間の幸福を、神と社会のために可能な限り返していくのが私の人生の最後の使命なのだろうと。そう思っています。
この文章を読んだすべての人に祝福があらんことを。