(本)中島義道「私の嫌いな10の人びと」

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2013/01/05


中島本は10冊ほど読みましたが、これはピカイチですねー!ところどころかなり笑えます。


私の嫌いな10の人びと

・私は笑顔の絶えない顔が嫌いです。そんな顔を目の前にすると、とたんに居心地が悪くなる。人生、わらってばかりもいられないでしょうに、と思います。(中略)この国では個人のむき出しの感情を嫌う。とくに、悲しいときに涙を流すこと、暗い気持ちのときに暗い顔をすることを禁じる。自分のマイナスの感情をそのまま表現するのは、失礼なのであり、社会的に未成熟なのです。

・常に感謝の気持ちを忘れない人。感謝の気持ちを忘れないことはもちろん大切なことです。でも、おうおうにして現代日本では、これを知能指数ならぬ「人間性指数」とみなし、すべての人に高飛車に強制し、これが欠如している者、希薄な者を欠陥人間とみなす風潮がある。

・日本的芸人と並んで、感謝ばかりしている人種として、日本的商売人があります。彼らは、儲けようとして商売をしているはずなのですが、表面的にはお客様に対して感謝ばかりしている。彼らからは「お客様に喜んでいただけるだけでいいのです」というせりふが発せられますが、これも大嘘です。

「みんなの喜ぶ顔が見られたらそれでいい」「みんなが喜んでくれるだけでうれしい」……こういうせりふをこの国ではなんと頻繁に聞くことでしょう。そして、私はこういうせりふがなんと嫌いなことでしょう。なぜなら、彼らは自分の望みがとても謙虚なものと思っている、という根本的錯覚に陥っておりながら、それに気づいていないからです。「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望でしょうか!その願望は、結局は自分のまわりの環境を自分に好ましいように整えたいからであって、エゴイズムなのです。

・いつも前向きに生きている人。(中略)自分だけそっとその信念に従って生きてくれれば害は少ないのですが、おうおうにしてこの信念を周囲の者たちに「布教」しようとする。「いつも前向きに生きている人」は、とにかく「後ろ向きに生きている人」が嫌いなのです。

私は坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が、とくにその歌詞(永六輔)が大嫌い。なぜ、「涙がこぼれないように」上を向いて歩かねばならないのか、よくわかりません。歌詞の内容から推して、これは一人で歩く場面のようですから、ますますわからない。

・「文筆稼業は、何といっても金を儲けなくてもバカに見えないで済む唯一の商売だ」(ルナールの日記より)

・けじめを大切にする人は、いたるところにはびこっています。そのすべてが、極度に常識的な人。みんなが怒るところで怒り、みんなが笑うところで笑い、みんなが悲しむところで悲しむ人です。しかも、困ってしまうことに、けじめを大切にする人は「けじめ」という言葉の意味を追究しない。ここだけは、けじめを大切にしないのです。ですから、けじめを大切にする人に「なんで、それがけじめなんですか?」と聞いてはならない。そう聞くことは、心が腐っている証拠であり、けじめが何か知らない奴は、人間のクズなのですから。

・けじめを大切にする人は、表面的には、自己の信念に忠実な人に見える。「一万人行けどもわれ行かず」の精神の持ち主であるように見える。しかし、じつは違うのです。彼らは、世間の監修に逆らう者のようでいて、それに首までどっぷり漬かっている人。なぜなら、彼らは世の中で少しだけ縛りがゆるくなった慣習にこだわっている者だからです。

・わが国の津々浦々から飽き飽きするほど聞こえてくる「人の迷惑になることだけはするなよ!」というお説教も、基本的に同じ構造をしている。「何をしてもいい。だがな、人の迷惑になることだけはするなよ!」と続く。これは、長いあいだ柔軟な思考活動を停止したまま、これまで生き続けてきた人の、すでに思考の脳死状態から発せられるものです。

私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということであり、とすると「ひとに迷惑をかけるな」と命ずることは、「生きるな、死ね!」と命令するようなもの。しかも、だからといって自殺しても親兄弟姉妹はじめ、膨大な数の他人に迷惑をかけてしまう。

・喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人々。この麗しい大和の国には、「対立」が何しろ嫌いな人種が多く生息している。彼らは、人々のあいだにわずかな対立の兆しでも生ずると、とたんに居心地が悪くなる。

・「ただ、警察のご厄介にさえならなければいい」と言っている親も、ずいぶん頭脳の構造が単純ですね。ある社会体制において、何が掟か、したがって何が掟に外れるかは、がっかりするほど相対的なのに。警察とは、何であれその社会の掟違反を捕まえるだけなのに。イエスも警察のご厄介になり、磔にされました。平和運動をしていたバートランド・ラッセルも、警察のご厄介になり刑務所に入りました。プロレタリア作家の小林多喜二は、警察のご厄介になったばかりか、警察に撲殺されました。

・私は、本書ではむしろ、大部分の現代日本人が好きな人、そういう人のみを「嫌い」のターゲットにしたのです。それは、さしあたり物事をよく感じない人、よく考えない人と言うことができましょう。「よく」とは自分固有の感受性をもって、自分固有の思考で、という意味であり、ですから世間の感受性に漠然とあわせている、世間の考え方に無批判的にしたがっている人は嫌いだということ。

・私の大嫌いな(どうしてかなあ?)ヘーゲルの思想ですが、あることが真の言葉か否かは、その言葉の表面的な正しさによってではなく、その言葉を発するに至るその人が、いかに血の滲むような「経験」をしてきたかによって決まる。私の言葉で言い換えると、その人がいかに勤勉に「からだで考える」ことを実践しつづけてきたかで決まる。

流石に行き過ぎだろ、と思うところから深く共感するところまで、世界の見方を変えてくれる良著です。この人の本を読むと自分の欺瞞に気づいてどんどん生きにくくなるのでおすすめです笑