徳川家ゆかりの岡崎・大樹寺に来た私は本堂を参詣し、特別に許可を得て宝物などを撮影した。(宝物殿拝観 大人400円)
本堂は安政2年(1855)の火災で焼失、同4年に13代将軍家定が再建した。この火災で本尊も焼失した。現在の本尊は火災後に京都・泉湧寺から迎えられたもの。高さ140センチの木造平安末期の作。
本尊の両脇には家康の窮地を救った「厭離穢土」「欣求浄土」の経文が掲げられている。
周辺の彫刻も見事である。
本堂奥には将軍も立ち寄った大方丈がある。ここに国の重要文化財である障壁画(冷泉為恭作)145面があった。現在は順次修復中で、収蔵庫に収められ有料で見学できる。
本堂と廊下でつながる「位牌堂」に入る。
堂の奥に家康の木像を安置した厨子がある。
江戸時代初期に3代将軍家光が造らせたもので、戦前の国定教科書の家康の写真はこの木像が使われた。
さて前回の「荘厳編」で紹介したように家康は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で大樹寺に敗走、押し寄せた敵兵に観念して切腹しようとした。しかし、時の住職登誉上人の教えに奮起、僧衆とともに戦い生き延びる。このとき大活躍したのが祖洞(そどう)和尚。
総門の貫木(かんぬき)を取って、敵を追い払った。家康の命を守った貫木は長さ約159センチ、約10センチ角。その後「貫木神」として、大樹寺代々の住職が江戸への参府の際には密かに携行、徳川家の武運長久を祈ったという。現在は神木として専用の神棚に安置してある。
これは文化13年(1816)に初めて江戸で公開されたときの収納箱。
祖洞和尚は身長2メートル、70人力だったといわれる。位牌堂に残る肖像画からもその豪傑ぶりが伺える。
肖像画の横には普段、和尚がついていたとされる約180センチの八角杖があった。魔除けの杖として大樹寺に祀られてきた。
さて天下人となった家康は元和2年(1616)4月17日、75歳で死去する。遺言によって遺体は駿河(静岡県)の久能山に、葬礼は江戸・増上寺で、位牌は三河(岡崎)の大樹寺に立てることになった。
位牌堂の奥に向かって右側に松平8代と家康の位牌が並ぶ。
これらは家康の9男で尾張徳川初代藩主の義直が家康の13回忌にあたる寛永5年(1628)に寄進されたもの。
家康の位牌は高さ159センチ。その身長に合わせたといわれる。
位牌堂奥向かって左に2代~14代将軍の位牌が並ぶ。寺伝ではいずれも等身大といわれる。
このうち2代秀忠のものは義直の寄進だが、記録によるとその後も歴代将軍が没すると江戸の幕府から位牌が大樹寺に送られた。
大樹寺によれば、昭和30年代に東京タワー建設に伴う増上寺の墓地移転の際に将軍の遺体の発掘調査が行われたが、大樹寺の位牌との誤差は1センチだったという。没した将軍の身長を計測する専用の係りがいたらしい。
歴代将軍の位牌の高さ(身長)を見てみよう。
2代秀忠=160センチ、3代家光=157センチ、4代家綱=158センチ、5代綱吉=124センチ、6代家宣=156センチ、7代家継=135センチ、8代吉宗=155・5センチ、9代家重=151センチ、10代家治=153・5センチ、11代家斉=156・6センチ、12代家慶=153・5センチ、13代家定=149センチ、14代家茂=151・6センチ。
8歳で死去した7代家継以外は成人で死去。写真中央、綱吉の一際小さな位牌が目を惹く。
歴史が生々しい現実として迫ってくる位牌堂でしばらく私は立ち尽くした。
本堂を出ると春の空はますます輝きを増していた。最後に本堂正面向かって左にある松平8代と家康の墓を参った。
家康は死ぬ1年前の元和元年(1615)に大樹寺内に先祖の松平8代の廟所を建立したといわれる。現在のような墓の姿が整ったのは家康1周忌の同2年のこととされる。
家康の墓は昭和44年(1969)に岡崎市民によって建立されたものである。
春の風が墓所の裏手の竹林をしきりに揺らした。サクラの落花は止むことがなかった。
(2010年4月10日取材)