Freakonomics Blogに、ウィキペディアについての記事が出ている。昨年、New Yorkerの記事で、ウィキペディアに16000項目もの記事を書き、編集責任者をつとめているEssjayというハンドルネームの人物がインタビューを受け、神学の博士号をもつ大学教授として紹介された。しかし今週New Yorkerは、この経歴が虚偽だったという社告を出した。それによれば、Essjayは実は24歳の大学中退者で、博士号も修士号も持っていないし、もちろん大学で教えたこともないという。
この問題について、創立者のJimmy Wales氏は「Essjayの名前はpseudonymであり、問題はない」とコメントしているが、New Yorkerの記者にEssjayを彼らの代表として紹介したのは、ウィキペディアの管理チームである。自分の経歴を詐称する人物が編集する百科事典は、信用できるのだろうか? こうしたリスクはどこまで管理すべきなのだろうか? 23日のシンポジウムでは、こうした問題についてもWales氏と議論してみたい。
追記:Wales氏はEssjayを編集責任者からはずしたようだ。
この問題について、創立者のJimmy Wales氏は「Essjayの名前はpseudonymであり、問題はない」とコメントしているが、New Yorkerの記者にEssjayを彼らの代表として紹介したのは、ウィキペディアの管理チームである。自分の経歴を詐称する人物が編集する百科事典は、信用できるのだろうか? こうしたリスクはどこまで管理すべきなのだろうか? 23日のシンポジウムでは、こうした問題についてもWales氏と議論してみたい。
追記:Wales氏はEssjayを編集責任者からはずしたようだ。
コメント一覧
※具体的に特定の人物を念頭に置いた発言ではないことにご注意下さい。
ネット上では「経済学者」「地質学者」「医師」「弁護士」「MBAホルダー」「経営者」など、匿名であれ、ネット上のハンドルであれ、リアル実名とリンクされない限りは、いくらでも詐称できてしまう脆弱性があります。
例えば、池田信夫氏のブログだって、理論的には、池田信夫を騙る人物がブログを運営している可能性はあるわけですが、仮に、本人でない人物がブログという連続性のある空間で池田信夫を名乗れば、刑事・民事あわせとんでもない事になるのはほぼ全員がわかりますから、現実にはそのようなことはまずないでしょう。
その点で、匿名であれ、ネットハンドルであれ、リアル実名でない限り、「旅の恥はかき捨て」が出来てしまうので、やはりリアル実名に比べて行動の抑制は効きにくくなるでしょうね。「恥の意識」で他者の視線が、行動を抑制する原理となっている国ではなおさら。
ネット(穴)は情報が欲しいだけ。
個人的にはネットの膨大な『情報欲求力』が”ウィキペディア”のような装置を
欲して後天的に作用しているのが原因かな?と思っています。
なので”妥当性”が満たされた情報を発信する人間には「通常社会のスケーリングとは違うキャリア」がこれから採用されていくのではないでしょうか?
”需要と供給の問題”
情報は常に欲っされているが、情報の絶対数と人間社会での安全装置である”レッテルを持つ者”のバランスが悪い。この記事の『経歴詐称問題』へのコメントとずれるかも知れませんが「妥当な情報を発信する裏づけの為の詐称行為」であれば、これは今後新しいヒエラルキーを生む上での経過途上の混乱で、あまり深い問題ではないと思うのは、楽観的でしょうか?
いずれは
「妥当な情報を提供してるんだから、本名、ハンドル、好きな名乗りでやればいい!」
となるのではないか?と思っています。
実際GoogleのAjaxのツールを使って「アフリカの子供が凄いビジネスモデルを作って席巻した!」とか?ツールとサーバーの収益モデルで「先進国以外から画期的エンターテイメントサービスモデルを構築した!」とか発生する土壌はある訳ですから。
ブロードバンドは一部の国ですが、残存者利益で
ナローバンドビジネスなども続々出てくるでしょうし。
》やはりリアル実名に比べて行動の抑制は効きにくくなるでしょうね。
これについては両方のベクトルがある、と見る方が自然でしょう。
私も自身の仕事に関わる分野について誤りを見つけた時は修正を行うようにしていますが、変な粘着をする人も居ますし、実名でしか書き込めない仕組みであれば修正する気にはなれません。
また、肩書きで書き込み内容の真贋が変わるわけではありませんので、その意味では身分詐称が直截的に内容の誤りに直結する訳ではありません。もちろん、信憑性は大きく落ちるでしょうけれど。
結局ところ不安定で有効範囲の広い道具なのですから、個人で使うなら知らない内容の取っ掛かりを得るのには便利、仕事に使うなら自分で調べる、といった当たり前のことを当たり前に行うのが最も有効な使い方ではないかと思います。
Essjay
16,000 もの項目をどうやって書き上げたんでしょうね。1日10項目でも4年以上…。
ニュースの天才って映画を思い出しますね。
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2004/12/shattered_glass.html
クレタ人の百科事典
ウィキペディアの問題はいろいろありますが、内容もさることながら、一番大きなものは「百科事典」と名乗ってしまっていることだと思うんですよ。正しいことが全く保証されていない「百科事典」というのはなかなか不思議な存在です。しかも少なくとも日本語版に関する限り、確かにトップページには「誰でも編輯できる」旨がありますけれども、「誰も内容を保証していない」ことが目立つ所にはっきり記されているわけでもありません。特に検索エンジンから各項目に直接ジャンプしてきた場合は「嘘を嘘と見抜ける」((C)にしむらひろゆき)人は減ってしまうのではないでしょうか。
書いてある内容なんてどのみち内容が嘘か本当か判らないのですから、いっそリンク集や参考文献一覧のような存在になった方が有用なのではないかと思います。それでも尚、重要な典拠が落ちたり、偏向したセレクションになったりする危険性はあるのですが。
ウィキペディアを〈読んだ〉感想
問題点とするかは微妙ですが、日本語版の管理については、一つに観点やパラダイムを一様で在ろうとする現象が上げられます。例えば、英語版では「Wikipedia:」に過去の経験が蓄積されて行き、あるいは調停委員会の存在がもめ事を解決に導こうとします。そして削除主義、包含主義など、多様な編集哲学も存在します。
日本語版では、あるパラダイムや哲学を持った人が主張をすると、途端に正統性の疑わしい「投稿ブロック」をされます。常に場当たり的な対応が繰り広げられます。こういった管理を続けてますから、日常に置いての議論がまったく行われていない様です。例えば、資産価値、コミュニティー論、メディア論、財源はどこから来ているのか? …etc。議論はからっきしです。中には実名で活動する人を、追い出した事例もあります。[[http://ja.wikipedia.org/wiki/利用者:Noda,Kentaro]]です。追い出した後は慣例的に放置されます。対処する兆しが見えません。
日本語版wikipediaは、財源がアメリカにあり、管理者は日本語であり、日本に法人が存在しない、メディアとしても極めて特異な状態です。資金は寄附免除ですから公共性のある財源だと思われますが、日本語版の管理者たちが、その点を意識しているのかは疑わしい。
要は、執筆者に対する接し方が粗略なのです。プロジェクトに協力しようとするモチベーションも湧きにくいと言えます。在っても、これでは消されてしまいます。また、アカデミズムやジャーナリズムなど、専門分野の考え方を遠ざける傾向にあります。
それでも実用的
確かにWikipediaに参加するとモチベーションを下げられることは多々ありますし、日本語版の管理者や古参たちのポリシーは財団幹部に比べひどく見劣りするように思えます。
しかしいくら運営側がモチベーションを下げようとも、ウィキペディアに書こう書こうとする人はひっきりなしの状態ですし、また利用も盛況すぎてサーバが落ちることも多々あります。
良くも悪くもアメリカ的プラグマティズムの権化ですね。「色々問題はあるかもしれないが、とりあえず役に立つからいいじゃん。」
ニュースソース
1つのニュースソースで済まそうとするから、こういう騒ぎになるようにおもいます。
WikiにせよTVにせよ、情報に間違いがあるのはもはや当たり前とおもうことと、複数の独立ソースからの情報をある重みで信じていくしかやりようがないのでは?
議論がないのが問題 & 人材募集するそうです。
論点が逸れてます。そういった思考法が、日本語版ウィキペディアに蔓延してるのです。もの凄く安易に論点をすり変える"癖"が、jaウィキペディアコミュニティーに形成されてます。意識的にせよ、無意識にせよ、noobさんの振る舞いは工作的です。
noobさんのおっしゃるのは、ネットの世界での「適者生存の論理」に関する議論だと思います。ですが、今回の私が論じたかったのは「管理・運用」でした。(他にも「記事の信頼性」と言った論点もあります。)
例えば、今回のEssjayのニュースも、見方によっては良いニュースです。記事の信頼性を高めようとする動きと、編集者の権威を保とうとする動きが、enウィキペディア内部で働いおり、なおかつ外部から監視もなされています。対して、日本語版では著名な人や、哲学を持った人を、追い出そうとします。これでは向かう方向が真逆です。もう一例、日本語版では[http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:無期限ブロックを受けたユーザー]が、他言語版と比べると異常に多いのです。
上記のような、議論がまったく行われていない状態。これは問題視してもよい事でしょう。論点は多様にあるのですが、どの議論も深みがないのです。
http://lists.wikimedia.org/pipermail/wikija-l/2007-March/001463.html
(真相は分からないが)(さすがに見兼ねて)遂に他言語版から干渉されるみたいです。やはり"日本"には何事においても自浄力がないんですかね・・・。
ウィキペディアの自浄努力
専門的な投稿に関しては今後経歴詐称は許さないということですが、身元を明らかにしてまで専門的な投稿をする利用者がどれだけいるものでしょうか。専門家であればあるほど、ウィキペディアへの投稿にはデメリットこそ予想されても、メリットがありませんからねえ。余程の大御所ならば別かも知れませんが。
ITmedia News : Wikipedia、管理者の経歴詐称を受け、一部に実名登録を要請へ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0703/08/news058.html
「自己宣伝になり得る記事は禁止」である
>ノクノクさん
その「野田憲太郎」氏は“自分自身について述べた事”が直接のブロック理由です。誤解のないように。
現代音楽論について語りたいなら、自分がオーナーのサイトで存分にやればいいのです。
ちなみに氏のサイトはここ
http://kentaro-noda.hp.infoseek.co.jp/index-e.html
なんですが、遡ると
http://kentaro-noda.hp.infoseek.co.jp/
なる物が出て来ます。
こんな物を作る方が“まとも”と評価出来ますか?
私は出来ません。
関係ないでしょう。その後を見る限り、管理者の対応は的確ではありません。場当たり的な気まぐれに対して、あなたの様な取り巻きが「まともだと評価できますか?」「私は出来ません」と言ってるだけで、ハッキリ言ってしまうと幼児性の現れです。
あなたの様なコメントは完全に想定済みなのです。私だけでなく他の人も予想していたと思います。池田氏も他でも述べていましたが、(悪い意味で)jawpは脱構築状態ですから延々と議論は収束しません。だから言葉の連鎖が発生してしまう。権力の行使による結果に対して事後的に理屈をこねているだけで、実際は何も考えてないと言うのが実情でしょう。
それとも「自己宣伝であることと投稿ブロックは別問題。投稿ブロックを放置することが問題だ」と想定済みの反論を言わせるつもりですか? ←それが言論の空転を生んでいるのです。
「荒らし」にも二種類ありまして、いわゆる機能不全に陥らせる迷惑な荒らしと、「このユーザーは荒らしだから排除してください」と騒ぎだす潔癖症のケースがあります。前者も問題ですが後者もかなり困りもの。jawpでは後者の印象が強いですね。潔癖体質な気がします。そもそも音楽家に執筆をさせずに追い出してしまうjawp特有の常識のほうが、一般常識との乖離を生んでいます。その理由が「彼はまともではない」と言われても、納得も理解もできません。
http://www.amazon.co.jp/dp/4861672325/