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霞外籠逗留記(かげろうとうりゅうき) 雑感

   ↑  2010/01/18 (月)  カテゴリー: 未分類

霞外籠逗留記(かげろうとうりゅうき)霞外籠逗留記(かげろうとうりゅうき)
(2008/07/25)
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■ とりあえず公式サイトにいって体験版(次回作「紅殻町博物誌」でも構わないでしょう。というかボクは体験版は「紅殻」の方しかやってません)をダウンロードしてプレイすると「なんじゃこりゃ」と思われるかもしれませんが、そのまま30分くらいプレイしてみて下さい。
で、是なら購入、否なら見送る。是でも否でもないなら? 多分大丈夫です。

■ プレイしてて割とすぐに(開始10分くらいで)思ったのは、「これってエロゲじゃなくて本(小説)だったら、自分は絶対に読了しないだろうな」という感慨。何故か、といってもおかしくないんですけど。や、さ、これって「エロゲである必然性があるの?小説でいいじゃん」なんて口がさない人は云ってしまいそうな作品なんですけど、もちろん最後までプレイするとこの物語・仕掛けは「エロゲであることが最適=小説だともっと完成度が低くなる」ということが理解できるので、最後までやったのにそんなこと言う人はまずいないと思うけど(ただ、モニターだと目が疲れてたまらんから本の方がいい、という意味ならありえる)。そういうのが明らかになる前、もう序盤の時点で、「これエロゲじゃないと自分には無理だな」と思ったのでした。なんでだろう。よくわかんない。よくわかんないならわざわざ文章にするなという話なんですが(笑)、誰か教えて。

■ といいつつ思ったところを書くと、たとえば、背景――建物や部屋とか、その辺にある物とか――の描写が細部にまで渡り、かつ喩えや脱線を幾重も織り交ぜていますよね。つまり、もの凄く細かく、その上もの凄く迂遠である。これ、逆に「絵があるから」それで持ってるんじゃないかって気がしてきました。絵がなかったら、ゼロから自分で表象を形成しなければならない。そこにおいて、文章による描出が、非常に細かく細部まで渡り、かつそれが迂遠で正中を掴ませないで要領を得ないものであったら、如何であろうか―――答えは簡単、「投げるわ」。何が何だかさっぱり分からないというワケではなく、全てを綺麗に読み尽くせば見事なまでの表象が(喩えや脱線=連想が多い故に、「写実的な”情景”」ではなく、「写実的ならずとも機能する”表象”」)、脳裏に浮かぶのかもしれないけれど、そこまで付き合いきれるだろうか。
そんなものは人による、当然人によるのですが。ボクは無理。故に、投げるわ。
エロゲでたまに言われる「絵があるんだから細かく描写しなくてもいい」というのは一つの真実でしょう。しかし既に素材としての「絵」があるんだから、逆に「絵があるんだから細かく描写しても”耐えられる”」と述べることも可能である。たとえばエロゲの絵というのは、当然素材が限られてて、だから同じ絵が別のところでも使われている、という場合が多い。あるいは、ある絵がその場所自体を示しているのではなく、それがある空間の象徴であるという場合が多い。
具体的に喩えるなら(霞外籠逗留記に限らず、他のエロゲでも)、前者はその辺の「道」の絵なんかはそうですね。学校に向かう途中の通学路、なんかは学園物エロゲでは結構な頻度で用意されている素材ですけど、大抵は一つ二つしか用意されていない。それは特定の場所=通学路におけるその地点のみを指しているのかといえば、基本的には異なるでしょう。学校に向かう途中で誰かと会話しているシーンがあって、そこでその「道」の背景絵が使われていたとして、じゃあ彼らは確実に「その地点」に居てそこで会話しているのかといえば、決してそうとは限らない。通学路の微妙に違うところ/大幅に違う箇所に居て、そこで会話しているのかもしれないけれど(むしろ「全く同じ場所」である可能性の方が低いけれど)、だからといってその都度背景素材を用意しなくても、プレイヤー側は理解できているわけです。ああ、このいつもの通学路の絵だけど、だからといって、「この道のこの場所」であるとは限らないし、「そんなことはどうでもいい」、と。その表象は、用意された一つ二つの素材で間に合っているわけです。細かく道の絵を何十種類も何アングルも描かなくても、一つの道の絵が、通学路という署名の元、それ以上の固有のナニカではない匿名性を帯びて、その範囲内で柔軟に変化している。つまり一つの背景絵が「固有の場所」ではなく、「匿名性を帯びた場所」として理解されている、ということです。具体的な例を挙げるなら、『真剣で私に恋しなさい!』の河川敷の絵素材は二・三種類しかなかったけど、その殆どどれもが、「河川敷のどこか」という意味合いで使われていてさらに我われもそうだと理解できた。
後者(それがある空間の象徴)は、たとえば商店街の背景絵とかそういうのが多いですね。大抵は商店街のどこか一角・一箇所を描いているだけの素材であるけれど、主人公たちがCD屋に行こうが喫茶店に行こうがスーパーに行こうがアイスクリームショップに行こうが、背景絵は「常に同じ絵」であって、じゃあそれらの店がその一帯に集中しているのかというとそんなことはない、つまりこの背景絵の中にその店は映されていないのだけど、けれど作り手も受け手もそんなこと全く気にしていないしそれで十全機能している。その「商店街の絵」がイコール商店街という空間の象徴であって、商店街の何処に居てもその絵一つでまかなえるように出来ている。具体的に言うと『Kanon』なんですが、というか上に挙げた商店街の例が『Kanon』の商店街そのものなんですが。

背景絵は三つに別けることができるでしょう。一つ目は、固有の場所。自分の家や自分の部屋だとか、思い出の場所や約束の場所だとか、そういう他の何かに置き換えることも変換して見ることも出来ない場所がそうですね。二つ目は、「道」などのように、匿名的な場所。その属性を持っている地点でかつ矛盾さえしなければ何にでもなりえる背景絵ですね。三つ目が、「商店街」のように、象徴的な場所。駅前とか公園とかもそれで描かれることが多いでしょうか。駅前の背景絵を一つ出しておけば、たとえ駅前のどこに居たって、問題なく機能する。

なんかもう全然関係ない話になってきてしまったので戻しますと、背景絵というのは、ある固有の場所を写したもの”だけではなく”、その属性を持っているなら何処にでもなりえる絵や、そこという空間に居るならそれ一つで象徴できる絵などがありまして、霞外籠で喩えるなら、三つの分類のうち、一つ目は主人公の部屋とか令嬢の部屋とか、二つ目は通路とか屋根裏とか最も頻出したであろうあの階段がずらっと描写された中央/ロビー的な絵とか、三つ目は屋根の上とか胎内洞とか。それらは――一つ目はともかく二つ目と三つ目は、「絵があるから描写する必要が無い」空間というわけではない(無論、だからといって描写する必然があるわけでもないですが)、むしろ、「絵があるからこそ描写がそれに収束して、その匿名性や象徴性を「表象として固定する」ことができる」ものである。つまり描写が、目に見える絵にある匿名性や象徴性を、とりとめのないものから一己のそれとして固定して、脳内の景色と変換できるようになっている。また逆の然りで、描写の匿名性や象徴性を、絵が補完している。つまり、「絵があるんだから細かく描写しても”耐えられる”」というワケです。

■ てゆうかボクが感想で脱線しまくってどうするという話ですが(笑)、ここからはちょっとしたネタバレです。このゲームはネタバレしたら勿体無いので要注意。







■ お話について。ボク程度が語れること・語りうること・語りたいことは実はあんまり無いんですが。それでも、思うところを告げるなら。『自分からは逃れられない』。

最大最強の追跡者は、自己の外の世界にあるのではなく、裡からやってくるのだと言うことを。猟犬の鋭敏な嗅覚もハイエナの骨噛み砕く貪欲も、これにはかないはしない。 追いかけてくるのは、自分自身。 それも逃げ出したいとひたすら願ってた、過去からの――

ところが今度の恐怖は、自分の中に深く沈潜していた絶望に由来していて、逃げようも防ぎようもなかったのだ。 誰も、自分からは逃れられない。

(※上:司書シナリオ、下:法師シナリオ)

どうにもこの辺の一文が印象的でしかたなかったです。自分からは逃れられない。思い返してみれば、司書も法師も令嬢もそうであった。鬼である、人を喰う、自身のその存在から逃れられず。秘曲を演奏する為の存在(としてこの旅籠に来た)、自身のその起源から逃れられず。宿命のように己を縛り付ける、過去(先祖)から自身へと連なる軛、そして己を動かす瞋恚、その心(たち)から逃れられず。―――いずれ向き合うことになる。いずれ戦うことになる。いずれ、それが何であれ、その「自分」自体に、決着を付けなくてはならなくなる。
『自分からは逃れられない』。それは当然、”記憶を失っている”清修には当たり前のようにいつか来うる未来であり、そして記憶を取り戻した清修もまた、向き合わなければならない過去である。たとえば、姉への想い、感情、それらと向き合わなければならない。そもそも、”そこから逃げてこの旅籠まで来たのだから”。
それは姉もまた然りで、秘めていた弟への想い、感情、それらと向き合わなければならない。姉も自分からは逃げられない。
……最終シナリオで、自分と姉との「過去」に向き合い、それに清修が「巡礼じみている」と喩えたように――いや実際に巡礼なのだろう、それは自分自身に向き合うという意味で。そして姉と向き合うという意味でも。流してしまった子供時代とも出会い=向き合い、その流された理由=起源とも向き合い続ける。そういう巡礼、つまりそういう旅。

これは自分と決着を付けるお話し。……だなんて大それたことは言えないけれど、ボクにはそのように見えました。故に語れることも語りたいことも無いに等しいのですが。どんな決断であれ、それは彼と彼女が、ここまで自分と向き合った上での結果なのだから。


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