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常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊

常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島義勇守備隊

2012年08月19日12時22分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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独島義勇守備隊。
  1954年11月21日明け方、日本の海上保安庁の艦艇3隻が独島(トクト、日本名・竹島)に接近した。1000トン級PS-9、PS-10、PS-16艦は、左右と中央から島を包囲した。日本の航空機も旋回した。600メートル前。拳銃の音とともに一斉射撃が始まった。M-1小銃が火を吹いた。迫撃砲弾はPS-9艦の甲板に当たった。PS-10艦も暗雲のような煙を吐き東に逃げた。(ホン・スンチル『この地がどこの地なのか』)

  53~54年に入り独島を侵した日本は痛手を負った。死傷者は16人。

  恐れを知らずに銃と大砲を海上保安庁の艦艇に撃ちまくった彼らは独島義勇守備隊だった。日本人の山座円次郞が独島を飲み込もうとする陰湿で凶悪な計略を出して50年余り、体で独島を死守した彼らが義勇守備隊だ。

  独島義勇守備隊構想は機甲部隊の傷痍軍人出身ホン・スンチル(当時23歳)のアイデアだった。鬱陵島(ウルルンド)出身で軍に入隊し韓国戦争で負傷して52年7月に島に戻った彼は、ある日杖をついて鬱陵警察署長を訪ねおかしなものを見る。「島根県隠技郡五箇村竹島」と書かれた標木だ。日本が独島を自分の土地だとした表示を韓国の漁夫がはずしてきたのだ。

  血が沸き立った彼はまもなく守備隊組織に着手した。警察からいくつかの銃器の貸与を受け合宿訓練もした。戦争中である2軍と慶北(キョンブク)兵事区司令部を訪ね小銃、拳銃、軽機関銃1丁を得た。釜山(プサン)のヤンキー市場に行きアシカ1頭と引き替えに拳銃と小銃を取得した。すべて自費だった。そのように編成された義勇軍は15人規模の戦闘隊2組、補給連絡担当3人、予備隊5人、補給船船員5人など45人だった。装備は軽機関銃2丁、M-2小銃3丁、M-1小銃10丁、拳銃2丁、手榴弾50発、0.5トンのボート1隻。53年4月20日に義勇隊は独島の西島に上陸した。すぐ日本の独島侵犯が始まった。5月28日午前11時ごろ、日本の水産試験船島根丸が船員30人を乗せて現れ6人が上陸した。魚を釣っていた韓国人漁夫30人余りを不法に調査した。6月にも艦艇2隻が米国旗を掲げ独島西島に表示板を作った。

  義勇守備隊は6月24日に日本の水産高校の実習船を西島の150メートル前で捕まえ、「独島は韓国領」であることを周知させ解放した。7月12日午前5時、日本のPS-9の侵犯時は真価を発揮した。艦艇の90メートル前から軽機関銃で200発を打ち込んだ。

  53年7月の休戦後、韓国政府が警察4人を少しの間派遣し、海兵隊815-LST艦が一時立ち寄り、慶尚北道(キョンサンブクド)警察局長が慰問に来たが義勇対を代替できなかった。その渦中に日本は8月に5回、9月に2回、10月に1回と何度もやってきた。韓国当局はほとんど知らなかった。ホン・スンチルは8月に彼らが接近するのが目撃された時は銃を撃って阻止した。

  54年にも侵犯は続いた。10月2日に現れた日本の船は、義勇守備隊が作った木製のにせの大型大砲にだまされ逃げた。侵犯は11月21日の義勇隊の攻撃後に消えた。このように義勇隊は56年12月30日まで独島を守り国に任務を引き渡した。3年8カ月にわたった。彼らがいなかったら独島は日本の実効支配に置かれかねなかった。義勇隊は66年の防衛勲章を受けた。輝かしい活動に対する報いにはみすぼらしかった。
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